湖に落とされたのは、ついさっきのこと
バシャーン!!
盛大に上がる水しぶき。
水の中に落ちた令嬢はドレス姿。
泳ぎなど、したこともなく、もがくけれども思うようにならない。
水際に立つ彼女の友人は、ボートのオールを手にしている。
それを令嬢のほうに差し出すけれども、もう少しというところで届かない。
まるで、届かせるつもりが無いかのように……
「やっぱり、泳げないのね。
上から叩きつける必要はなさそう。
よかったわ、少しは良心の呵責が減るというものよ」
溺れる令嬢が、今日まで友人だと信じていた女性は、沈んでいく人影に向かって囁いた。
「さよなら」
それから、大きく息を吸い込むと、叫んだのだ。
「……きゃあー! 湖に人が落ちてしまいましたわ。
誰か、誰か~!!」
一緒に来た者たちは、三々五々散らばって寛いでいるところだろう。
ここに駆け付けるまでには時間がかかり、来たとしても助けるかどうかを躊躇するはず。
おそらくは、誰も間に合わない。
自分は湖に突き落とされ、命を奪われようとしている。
それだけを理解しながら、令嬢は水底に沈んでいった。
侯爵家の長女として生まれた令嬢は、あまり幸福とは言えなかった。
富裕な高位貴族の令嬢にもかかわらず、国内では唯一の髪の色と目の色が、いつも浮いていたのだ。
彼女の母親は、娘と全く同じ色合いだった。
両親の婚姻は完全な政略で、令嬢の母親が若くして亡くなると、父親はさっさと後添えをもらった。
その後、凡庸な見た目に生まれた子供たちと幸福そうに暮らしている。
長女である令嬢は虐待こそ受けないものの、当たり前のように冷遇されていた。
もっとも、平民の使用人から見れば、衣食住に困らず、貴族らしい教育を受け、そして家格に相応しい婚約者まで持つ令嬢が不幸なはずはないのだった。
ただ、誰からも敬遠されてしまうだけで。
「黒い髪に紅い目、血が通っていないかのような真っ白い肌。
なんだか、あのお嬢様は人間だと思えません」
「しっ、滅多なことを言うものではありません。
いくら、ご家族の皆様も同じように思われているとはいえ、使用人の分際で、と処分されても知りませんよ」
「……はい」
外出しても、彼女の姿を見た他人がヒソヒソと囁きかわす。
近くに控える侍女も護衛も、その言葉から令嬢を守ってくれることは無い。
婚約者との交流も、数回のお茶会が義務的に行われただけ。
それ以後は、お茶会や夜会の予定に被せて、婚約者が領地での急ぎの仕事や、取引上の断れない誘いがあるからと、断りの手紙をよこした。
慇懃無礼な、執事の代筆で。
表面上は令嬢として、つつがなく過ごせている日常。
しかし、悪口陰口はそこかしこから聞こえて、屋敷でも学園でも心が休まることは無い。
だから令嬢自身も、自分のことを受け入れてくれる、特別な相手が現れることなどないのだ、と諦めていた。
そんな生活の中、学園の二年次に、遠方の国から留学生がやって来た。
同じクラスになった彼女は、令嬢を見てひどく驚いた。
「ごめんなさい、こんなに驚いてしまって。
貴女の髪も目も、あまりに綺麗な色だったから」
それから彼女は、よく話しかけてくれるようになり、令嬢は初めての友人を持った。
休日の外出にもよく誘われた。
街の人々の反応は、いつも通りだったが、その度、彼女は言ってくれたのだ。
「気にすることないわ。貴女は綺麗よ」
そうして、二月ほどが過ぎた。
「ピクニック?」
「ええ、クラスのピクニックがあるのでしょう?
一緒に行きましょう」
「わたし……今まで一度も、そういう催しに参加したことがなくて」
学園でも、授業中以外は居場所がないように感じるのだ。
休日の催しとなれば、行っても虚しいだけ。
「今年はわたしがいるでしょう? ね、一緒に楽しみましょうよ」
「そうね。行ってみましょうか」
「ええ、是非」
彼女の微笑みは、とても優しげだった。
国で一番澄んだ水を湛えることで有名な湖。
その湖を囲む森は、ピクニックの名所になっている。
令嬢は、初めて参加したクラスの催しに少しだけ期待していた。
しかし、やはりクラスメートの態度は変わらず、あからさまに彼女の参加を訝しむ視線を寄越す者もあった。
「不愉快ね。少し、二人きりにならない?」
彼女はそう言って、令嬢を湖のほとりに誘った。
クラスメートたちは、まだ、この辺りには来ていない。
湖の際まで来た時、彼女は言った。
「この国の人たちは、皆、優しいのね。
貴女の、その色を見逃せるなんて。
わたしの国では、貴方のような色の人間は悪魔と見なされるわ。
辺境へ追放されてしまうのよ」
「悪魔の色?」
「ええ、宗教的に認められないの。
古くから、悪魔の色を持つ者を側に置いてはならない、と禁じられているのよ。
この国は変ね。
貴女の色を、誰も受け入れていないのに、野放しにしている。
不思議だわ」
「……わたしは何も、悪いことはしていないもの。
追放される理由がないわ」
「どうして?
悪魔の色は、人々を不安で不快にさせている。
それだけで、十分な理由ではないかしら?
だから、こうしましょう」
令嬢は一瞬、何が起こったかわからなかった。
気付けば、水の中に居たのだ。
泳いだ経験など無いし、湖の底は深く、足がつかない。
友人が握ったオールにすがろうと手を伸ばしても、後わずかで届かない。
「さよなら」
真顔で言われた言葉に、令嬢は悟った。
友人らしい態度は、自分の境遇を確かめるためだったのだ。
外国から来た彼女にとって、悪魔の色を纏う令嬢は追放すべき存在だった。
しかし、この国では違うようだと、周囲の反応を探っていた。
学園内で、街の中で、誰も令嬢に温かな視線などよこさないことを確認していた。
一度、近くまで来たからと、突然に令嬢の家を訪れた時も、家族から使用人から、どのように思われているのかを見極めていたのだ。
友人と思っていた彼女は、いつもドレスの中に、信ずる宗教の印をかたどったペンダントを付けていた。
ふと気付くと、学園の中でも清浄な場所に佇み、胸に手を当てて神に祈る姿が見られた。
令嬢が見ていることに気付くと、一瞬、憎悪の表情を浮かべたことがあった。
二度は無かったので、見間違いかと思っていたのだ。
だが、けして、自分に見せることのなかったペンダントのことを考えれば、あの憎悪こそが、彼女の本心だったのだろう。
他人に受け入れられたことのない令嬢の走馬灯は、友人だと誤解していた彼女のことばかり。
それに気付いて、少し笑えそうな気がしたが、もう息が続かない。
令嬢は湖の底をめがけて、緩やかに沈んでいった。
「まったく。人間というのは無意味な行動ばかりするな」
気付けば、逞しい男性に抱かれている。
見上げた彼の髪は黒、目は紅。令嬢と同じ色だ。
「……あ、わたし、ドレスが濡れて……」
「濡れてなどいない、ただ、お前は疲れているようだな」
「疲れて?」
「眠りなさい」
そう言われると同時に、令嬢は深い眠りに落ちた。
再び目覚めると、メイドに声をかけられた。
メイドは褐色の肌に、金茶の目。
初めて見る色合いだった。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「……あなたは? ここはどこ?」
「わたしは貴女付きのメイドでございます。
ご用があれば何なりと。
私でお答えできないことは、ご主人様とお話しください」
メイドはてきぱきと支度をしてくれ、主人が待つという談話室に案内された。
「気分はどうだ?」
そんなこと、家族にも言ってもらったことが無い。
驚いて、令嬢は返事を返せなかった。
「大丈夫そうなら、少し私の話を聞いてくれるか?」
令嬢は頷き、誘われるまま、彼の隣りに腰を下ろした。
「ここは魔族の世界。
今までお前が居た、人間の世界とは違う場所だ。
あの湖は元々、魔族の世界と人間の世界の接点だった」
この屋敷の主人である男性は、若く見えるがもう千年以上生きているのだという。
「湖は気まぐれに世界を繋ぐことがある。
そのせいで、私のたった一人の妹は人間の男と出会ってしまった」
そして、彼の妹は男に請われるまま、人間の世界へ嫁ぐと決めた。
「大事な妹さんだったのですね」
「……いや、どうだったかな?
あまりに昔のことで、忘れてしまった」
「そうなのですか……」
「人間界に行けば、魔族といえども人間の理に従わねばならぬ。
魔法も使えず、寿命も短くなってしまうのに物好きだとは思ったな。
そうしたら妹は、魔族の長い寿命に飽き飽きしたと言った。
人間どもを見聞しつつ、パッと散るのもいいだろう、と」
「潔い方だったのですね」
「私は呆れたが、それでも一応、兄として心配していた。
覗き窓として、この湖を澄ませておいたのだが、あの子が亡くなった後もそのままにしていた」
「時々、偲んでらしたのですか?」
「あの子の血筋が残ったのでな。
あの子の産んだ子のうち、一人だけに魔族の血が残り、その一人から繋がった子供がまた一人だけ血を継いで……
お前は、その流れを継ぐ娘だ」
「わたしが、魔族の血を?」
「ああ。そのせいで、お前は辛い思いもしたようだが。
お前なら、こちらの世界でも生きられる。寿命も延びる。
どうだ、こちらで暮らすか?」
「よろしいのですか?」
「死んではいないのだ。戻ることも出来るが、戻りたいか?」
「いいえ。わたしが帰っても、喜ぶ者はおりません」
「ならば、我が血族として迎えよう。 名は?」
「人間に付けられた名は、捨てようと思います。
お手間でなければ、名を付けてくださいませんか?」
「では、我が妹の名を継ぐがよい」
「ありがとうございます」
屋敷の主人は、配下たちに命じた。
「皆のもの、今宵は宴だ。
人間界から、妹の血筋の者が戻った」
「おめでとうございます」
「とびきりのご馳走を、ご用意いたしましょう」
「では、お嬢様、宴のためにお召し替えをいたしましょう」
「よろしくね」
自分に挨拶をし、メイドに連れられて行く令嬢を、屋敷の主人は微笑んで見送った。
「あの湖は、もう、澄ませておく必要は無いな。
元に戻しておこう」
屋敷の主人が口にした途端、湖は元の湖に戻って行った。
魔力を通され、抑えつけられていた瘴気は数百年分。
それが一気に溢れ出し、湖を囲む森までも真っ黒に染めていく。
何の害も及ぼすことがなかった、色合いの違う魔族の血族。
彼等を忌み嫌った人間たちの心から溢れていったもの、それが瘴気となって溜まっていたのだ。
「フフフ」
宴の席で隣り合う、屋敷の主人に、令嬢が尋ねた。
「どうなさいました?」
「いや、人間界との繋がりを絶っただけで、よい礼になったと思ってな」
「礼?」
「お前が気にすることではない」
「畏まりました。……あの」
令嬢はおずおずと言葉を繋ぐ。
「なんだ?」
「あなた様のことを、どうお呼びすればいいのでしょうか?」
「我が一族の血を継ぎ、我が妹の名を継いだお前だ。
よければ、兄と呼ぶがいい」
「ありがとうございます」
「ああ。……よく帰って来てくれた」
もらった名前に対して言われたのだとしても、それは令嬢が初めて聞いた、心からの温かな言葉だった。
だから、自然と返す言葉が出た。
「お兄様、ただ今戻りました」
「もう、いなくなってはいけないよ」
「はい」
妹の名をもらった娘は目を閉じ、兄と呼ばれた男は彼女を、しっかりと腕の中に抱きしめた。