70 平和な朝
この感じも久しぶりのような気がする。
腕の重みも、身体の重みも……
メイプルの頭の下からそっと腕を抜き、代わりに枕を差し込む。
上に乗っているシアをそっと横に寝かせて、メイプルの服を掴ませてやる。
サンディーとディアーナは起きていたが、さすがに疲れていたのか、クロエは枕元で身体を丸めて眠っていた。
俺も昨日は……いや、昨日もいろいろあって、とにかく疲れていた。
だから、かなり早めに眠ったのだが、そのおかげなのか、この場所が居心地がいいからなのか、ぐっすりと眠れたようで、すっかり回復していた。
みんなを起こさないように、静かに起き上がると、まずは手洗いへと向かう。
「ディアーナ、珍しく今日は実体化してるんだな」
「幽霊やと睡眠も食事も必要あらへんけど、その分、アニさまから精気を吸ってまうからなぁ。今日はアニさまの晴れの日やし、万全でいてもらわんと。せやったら、ウチは実体化して眠って食べたほうがええかなって」
「そうか。気を使わせたな」
「ウチが好きでやってることやし、構へんよ。アニさまが、目的を果たすんが一番やからね」
「期待に応えられるようにがんばるよ。……で、どこまで付いてくる気だ?」
「なんやアニさまの近くにおったら、すっごく安心するんえ。それに……さっき、フェルミンさんも行くぅゆぅてはりましたから、あんまり急がんほうがええよ」
慌てて、ドアノブに伸ばした手を引っ込める。
あぶなかった。
そのまま一部屋分ぐらい廊下を戻ってから、ディアーナに礼を言う。
「助かった。ディアーナ、ありがとう。今ので完全に目が覚めたよ」
「そんな、慌てんでもええのに。アニさまは、ホンマにおもろいなぁ」
もちろん、髪を梳かしたり、化粧をしたりと身支度を整えているだけの可能性は高いが、だからって、誰もそんな所は見られたくないだろう。
人数が多いと、こういうことが起こる。
妹たちはまだいい。
マリーさんへの注意は真っ先に払うのだが、どうもフェルミンさんに対しては、そういう警戒心が薄れがちだ。
ガチャリと音がして扉が開く。
「あっ、フェルミンさん、おはようございます」
「ふわぁ~、おはよぅ……。ハルキ、ゆっくり、眠れた?」
「はい、しっかりと休ませていただきました。……フェルミンさんは眠そうですね。何かあったんですか?」
「ん~、ちょっとね。あ~、でも、心配しなくてもいいわよぉ。騒動絡みで、ちょこっと夜中に呼び出されただけだからぁ」
さすが、特命官ともなると多忙なようだ。
夜中に呼び出されて仕事だとは、本当に頭が下がる。
「お疲れ様です。じゃあ、今日は俺、ひとりで行きましょうか?」
「ん~、そうねぇ。じゃあ、黒狼を貸してあげるわぁ」
「あー、はい。助かります」
本当に眠そうだ。
フラフラしたフェルミンさんが、部屋に戻るのを見届けてから、俺も急いで身支度を整える。
部屋を出ると、ディアーナが待っていた。
「なんだ……待っててくれたのか」
使うつもりだったのか……と言いかけたが、何とか踏みとどまることができた。さすがに、その発言は配慮に欠ける。
「おお、そうだ。そろそろクロエに起きてもらわないと。なんせ、今日の主役は黒猫姿のクロエだからな。少しは打ち合わせをしないと……」
そう言って、先に部屋へと戻る。
何か縫物をしていたサンディーに、ディアーナの様子が少しおかしいから、困ってるようなら相談に乗ってやってくれと、お願いする。
幽霊だと俺の精気を吸ってしまうから実体化してるらしいが、長く実体化しているのが不慣れなんだろう……という言葉を添えて。
ゴーンと朝の壱つ鐘が鳴った。
ディアーナのことはサンディーに任せ、俺はメイプルたちを起こして身支度を整えさせる。
クロエは横になっていたが、目は覚めていたようだ。
シアは熟睡していたが、朝食を食べに行くと言ったら、すぐに起きた。
この中で、一番お寝坊なのは、メイプルだ。
半分寝ぼけたまま歩くメイプルの世話を、クロエに頼む。
「あっ……」
フェルミンさんは爆睡しているが、少しは寝具を片付けたほうがいいだろう。
いつもは誰かが……たぶん、サンディーが片付けてくれているので、たまには俺がと思ったのだが、やりかたが分からない。
仕方がないからサンディーに、念話で教えを乞うたのだが「放っておいていいよ」と言われ、それよりも……と、ディアーナの事を教えてくれた。
どうやら、手洗いの使い方が分からなかったらしい。
全く分からないってわけじゃないのだが、実際に使ったことがないだけに、間違っていたらどうしようかと不安だったようだ。
それだけではない。他の物や道具に関しても同じで、見よう見まねでやったりしているが、常に不安だったらしい。
だからサンディーは、身近な道具について、いろいろと教えているのだそうだ。
戻ってきた下の三人組が着替え始める。
未だに寝ぼけているメイプルの着替えを手伝いながら、分かる範囲だけだが、できるだけ部屋を片付ける。
なんとも騒々しいが、いつもの日常が戻ってきたようでホッとする。
「クロエ、今日の試験、頼むぞ」
「兄者、お任せ下さい。必ずやお役に立ってみせます」
「一番苦手なクロエに見せ物のようなことをさせるのは悪いと思うが、動物になれるのはクロエだけだからな」
「承知しております。兄者の命ならば、たとえ晒し者になろうとも立派にやり遂げてみせます」
「ありがとう、クロエ。お披露目はそれでいいとして、問題は実技試験だな。場合によっては、みんなにも助けてもらうことになるから、その時は頼むぞ」
「うん、がんばる」
「ふぁい、お任せください」
なんとか三人の身だしなみは整ったが、俺では髪を結うことはできない。それは、後でサンディーに任せることにする。
遠慮していたとはいえ、そこそこ騒々しかったはずなのに、全く起きる気配のないフェルミンさんを残して部屋を出た。
朝食を終え、軽く体を動かしてから、試験に向かう準備を整える。
試験の開始は、朝の弐つ鐘だが、途中で何があるか分からないので、かなり早めに向かうことにした。
すでに黒狼は、玄関で待っていた。
「よう、ハルキ。準備はできたか?」
「ああ、大丈夫だ。ニック、今日はよろしく」
「おう、任せておけ。しっかり送り届けてやる。さあ、背中に乗れ」
「えっ? 乗っていいの?」
「お前さんはマスターのお気に入りだからな。特別だ」
もしこの場面を、他人が見ていたらどう思うだろうか……
メイドや子供たちに見送られ、立派なお屋敷から出てきたのは、古の狩人のような召喚術士服に身を包み、肩に黒猫を乗せ、立派な黒狼にまたがる男。
なんだか昔話から抜け出たようで、目立つことこの上ない。
あまりに異常な状況に、不安や羞恥よりも、なんだか楽しくなってきた。
黒猫に懐へ入るよう指示すると、身体を前に倒して速度を上げた。




