訪問と解錠
帰り道、見慣れない道を、過去の道のりを遡るように反対向きに辿ってみては大きなため息をついていた。襲い来る強烈な孤独感を避けようと麻海に真奈女が、そして奈々美のことを思い出しては追憶に浸ってはみたものの、どのような方法もどのような処にでも孤独の虚しさは待ち受けていた。
今だけは何もかもを諦めてただ歩いて。見えない地面の感触は固くて今はアスファルトを踏んでいるのだと実感させられた。空も空間も、何もかもがアスファルト顔負けの黒に染まったこの場所では街灯や家の灯り、信号機の色を変える輝きといったモノだけが愉快に騒ぎ立てていた。世間はほとんどが静まり返り、時たまテレビ越しの奇妙な発言とそれによる生の笑い声が家の中から聞こえて来るのみ。もはや那雪にとってはいないも同然。
そんな何もかもが空っぽの帰り道で自分の行ないを悔いる那雪がそこにいた。昔から強くあろうとしなかった罪、激しい主張で周りから見下されないよう取り繕うことすらしなかった罪、いじめられても尚歯向かうことさえしなかった罪。
怠慢だろうか、結局自分のことを大切にしなかったのは那雪本人だろうか。
空に輝く星々は遠く、これまで出会ってきた様々な人々の姿に重なる。那雪が手を伸ばしても届くことのない人々。離された距離は永遠に縮まる気がしなかった。
「なゆきち」
突然声が届いた。静寂の暗黒に響いた愛しい声は何よりも美しく想えて、何よりも欲しかったものなのだと改めて見返し奈々美に飛びついた。
「どこ行ってたの、星見ヶ丘さんの家ね、この辺りって言ったら」
行き先など分かっていた。それでも探すのに苦労したのは時のすれ違いというモノなのだろう。
「奈々美、寂しかったよ。愛してる」
急な愛の告白に対して奈々美はどのような表情を浮かべたものだろう。見えないものの、きっと悪い物ではないだろう。
「私も愛してるよ」
返した言葉はまさに那雪の虚しさを埋めるこの世で最も美しい魔法だった。
歩きながら那雪は語る。この世界の誰もが見過ごしてしまいそうな小さなひとつの物語を。那雪という所詮は目立つことのひとつもない少女の話を。同じ時を共有した者の殆どが忘れ去ってしまった、その程度の人物の生き様を。
「イジメ抜かれて次には私が悪いんだけど誰も反応してくれなくて、今でもみんな接し方が分からないみたいでなんだか微妙な気分」
みんな今の今までいないも同然の印象だった少女、必要な時以外は何故だか意識が逸れてしまっていたそんな人物が突然クラスに溶け込んだことに戸惑い、中には罪悪感を背負っている者も在り、那雪本人まで申し訳なさを感じているという今の教室の雰囲気は時として非常に重たいものとなるのだという。誰もが後ろめたさに引きずられた高校最後の一年の大きな出来事。
そんなことを奈々美に聞かせては次のことを声に出し、想いを纏め上げる。
「そんな学校生活でいつも実感するの。私、全く人と一緒に過ごしてこなかったんだねって。まるでみんなこの星々みたいに遠くて手を伸ばしても届かなくて。私置いて行かれてしまったみたい」
手を伸ばす那雪の姿は日が暮れても未だに開き続ける店の灯りによって微かに照らされていた。そんな姿をどう思うだろう。奈々美はその手を優しくつかんで目を那雪の顔に向けた。
「そっか、だったら私も一緒みたい。私も世間知らずで学校でみんなが話すドラマもアイドルのことも分からなくってね、浮いてたの」
流行りものを追うことは社会に溶け込むためには必要、この暗闇のように先の視えない世界の中で人々を繋ぐひとつの灯火になるそれは知っていることと知らない事では大きな違いが現れるように思えた。
「それから卒業して魔女たちのいるところに行ってたんだけど、そこでも酷かった。みんな取り繕った笑顔ばっかりで誰も普通にすら接してくれなかったよ」
魔女たちの中でも注目されていた〈東の魔女〉が本来扱えるはずの四大元素の内の炎を扱うことすら出来ない。ただそれだけのことがどれだけ彼女らを失望させてしまったことだろう。
「裏で陰口言ってるのも見たし私のごはんもこっそりメニューひとつ抜き取られていたり、たまに教材捨てられてたりしたの」
過酷のひと言しか感想は浮かばない。あまりにも酷い仕打ちを恋人が受けていたのだという事実に那雪は耐えられず頭を抱えていた。零れ落ちる雫を暗闇の中に隠していた。
「もう嫌になってね、毎日ストレス発散とか言ってお菓子バクバク食べてたらどんどん太っちゃって、見違えたでしょ」
隣にいる彼女が途端に近く感じられた。星のように遠いキミ、そう思っていつまでも届くことはないのだと勝手に決めつけていたその手は途端に奈々美に届いた。そんな気がした。
「奈々美も大変だったんだね」
この世界の広い居場所の中、本当の居場所はあまりにも狭くて息苦しい、ふたり揃ってそう思い知らされていた。
「でもなゆきちとふたりならツラくも寂しくもないよ」
「私も」
そんな狭い世界の中で、小さな居場所の中くらいでは心地よくあろう、そう思えた。
☆
ひとりひとりの感情は時として現実というものに裏切られる。それも事によっては大多数の人間の想いを無視して進められ、誰彼構わず意志を折られる。そこには身分も人種も挟まり様はなく。言葉にすれば綺麗な平等ではあるものの、それはつまり誰にも悲劇は起こり得るのだということ。
那雪には思い通りに事が運んだ経験というモノが殆どなかった。今日もまた、数学の公式を頭に叩き込んでいたはずが全くもって役に立たなかった。そのまま数字を当てはめたつもりでも何処かが異なるのだ。これはあまりにも不可解な謎に思えるものの、きっと一定以上の成績を収める者からすれば単に努力不足か知能が人間以下でしかないのだと鼻で笑うべき出来事なのだろう。
あまりにも分からない。きっと勉学と共に進む未来にて待ち続ける結果など悪いことしかない。既に直感が訴えていた。
最低でも卒業までたどり着きたい。ただそれだけ。入学当時から平均の偏差値よりも5以上の高みを目指す授業など受け続けて心が折れかけていた。那雪の入学は比較的下振れ。8近くは離れてしまっているのだから努力も人との関わりも足りないままでは点数も上がってくれはしない。
重々しい現実に頭が乱されつつもどうにか切り抜けた。
放課後という時間の空気がこの上なく澄んだものに見えていた。心の澱みなど学校の隅に置いて忘れてしまおう。そう誓って学校を出てみたものの、どうにも忘れることも出来ずに心は沈みっぱなしだった。果たしてこれは現実を見ていると言えるのだろうか。現実と言えば目の前の景色すら見ていない、そんな感覚に陥れられていた。
やがて那雪の中から別の話題を探そうと躍起になり始めていた。そう、やはり現実逃避でしかなかったのだった。
逃げながら這いずり回りながら、どうにか暗闇の出口を見つけるように、柄r単打別の話題。それは学校とは異なる話題でしかなかった。
「そういえば、麻海さんに報告してなかった」
もしかすると奈々美が報告してくれているかも知れない、心に結果は留めつつも会いに行きたいという欲に駆られていた。人と関わるということを求めていた。良い変化なのだろうか、それともあまり褒められたものではないのだろうか。
そうした問いに結論を提出することもなくただ那雪は歩き出した。
市街地を抜けて出て来たそこは小さな山へと続く森に沿った道路。コンクリートで固められた壁は人の手による自然への侵食のよう。森というよりも竹藪に見えてしまうのはきっと表面しか見ていないからだろう。森林の深海は奥深く、今立っているこの道路はあくまでも砂浜のようなもの。そこから続く向こう側は、壁の上にそびえる竹藪は森の浅瀬といった所だろうか。
進み続ける。那雪の中に思い浮かぶものはある日の思い出。淡くありながらも輝かしいあのやり取り。奈々美と共に同じ道を通ったあの日の景色を見ていた。
きっと普通の恋人同士であれば、同性であれ異性であれここまで浸ることもなかっただろう。
那雪にとってはそうした日常の中に溶けて混ざり込んだワンシーンでさえも宝物のように見えていた。
どれだけ進み続けただろうか。きっとあまり速くはない歩み。それでもそこまで時を砕いてしまうことなくたどり着けたのはきっと純粋な距離の問題だろう。
古びた家の戸を引いて、見慣れない聞き慣れない、そんな懐かしさとともに那雪を出迎えた壁や柱はどこかくたびれていた。
彼女を歓迎する者、たったひとりの女子高生でも受け入れてくれるものだと確認するだけでも明るい気持ちを持つことが出来た。
「いらっしゃい。今日は那雪ちゃんおひとりかねえ」
気の抜けた瞳、それは素のカッコよさを覆い隠してみせようと薄い雰囲気の幕を張っていた。レース地のカーテンのように薄っぺらで透き通る雰囲気の転換などあまり役には立っていなかった。
そんな麻海は力を抜いたどころか気を抜いてさえいる指に挟んだパイプに口を当てて煙を吸ってはどことなくただ空気中に吹き出して天井にぶら下げたカラフルなくもの巣の姿をしたお守りを見つめながら口を開く。
「安心しな、おひとり様でもアタシは大歓迎なのさ」
それを聞いてほっと胸を撫で下ろした。例えこうなることが分かっていたとしても受け入れてもらえるまでは不安が薄く広がり続けていた。人と関わる事に於いてはあまりにも不慣れなせいだろうか。拒絶されることが恐ろしくて仕方がなかった。実際は異なったとしても孤独の世界に落とされてしまったように感じられて、そこにいることが罪に感じられてしまう事態にはならなかった。
「ありがとうございます」
普通に受け入れ普通に話す、そんなごくごく普通のはずの態度にさえ感謝の心を覚えていた。
一方で麻海の方はと言えば再びパイプに口を付け、煙を吸っては空気の中に漂わせていた。
「そんな礼なんか言われてもねえ、大袈裟じゃありゃしないかい」
全くもってその通りだと思い直してはそれでも嬉しさは溢れて止まらない。
那雪は安らぎの微笑みを一瞬浮かべつつもすぐさま崩しては真剣な表情に貌を染めて話を進めて行った。
「実は昨日〈星の魔女〉の星見ヶ丘 光莉さんに会って来たんです」
「なに……教えていただこうじゃないかい」
「会ったというより向こうから近付いて来たんですけど」
それから語られたのはあくまで事実。那雪の感情など加えられない単純な言葉だけで紡がれたそれは麻海の耳にそのまま届くだけのこと。光莉から人と関わる事で大切な人の新しい魅力が見つかるという話から家にたどり着いた途端、天使の一片の翼を持った透き通る水色の鍵を使って鍵を開いたこと、しっかりと開いたはずのドアだったが陽炎のようなドアの残滓が見て取れたこと。
那雪の派内を始終無言で聞いていた麻海は大きく頷いてそこから話の橋を架けた。
「なるほどなあ、アンタよくちゃんと見ていたものだね、透き通る片翼の道具とはねえ。恐らくあれが天使」
結論は今ここに下された。天使という存在。自らの目的の為に動くが為に人を滅ばしてしまおうとする存在。元々が人であるにもかかわらず人のことなど考えも出来ないという異界に昇りしモノ。
「そうかいそうかい、既に出会ってしまっていたみたいでいいじゃないかい。しっかりみてなけりゃ真実も見つかりゃしないってものさ」
那雪は目を丸くして大きく広げて見せた。向こうから寄ってきた。それはつまり如何なる意図であろうか。考えても思いを煮詰めても、理解が湧いてくることなどなかった。
「向こうからの接触ねえ、アタシには分かりゃしないねえ。もしやして誰にも分からないものと違うものかねえ」
どうにも天使というモノは人類には理解の及ばない思想を持っているようだった。
「向こうも何故かわかんないものだけども人サマのことを理解できないみたいでねえ、忘れてしまってんのかねえ。出来る会話なんて昔の感情や思い出を弄って出してみせることくらいなものさ」
人の姿をしてはいるものの、そこに在るのは動物と変わらない。否、人と同じ知性を持ち人と異なる感性を閑静な心で動かす分非常にタチが悪い。同じ思考に隔たりの大きな思想。崖は深く広く、理解の橋を架けようにも届くことは決してない。救いようも救われようもない関係に那雪は勢いのついたため息をついた。
「そう、それでいい。諦めな、あれはもう、人ではありゃしないし人にとっては無感情も同然のものさ」
諦めが早い。那雪はそこから麻海の天使との関りの数々を思い浮かべた。きっと天使との戦いを長く行ないひたすら仲間になれないという現実を突きつけられたものだろう。
そんな想像を見て取ったのかそれとも本人の中の諦めの感情が積年のせき止めに耐え切れずににじみ出てきたものだろうか。前者であれば人の経験、後者であれば己の経験が人の言葉に引き出されたというだけのこと。麻海の口は開かれ言葉がひねり出されるように現れ出た。
「とはいえアタシは天使と関わった他人さまの話を耳にしただけのこと。天使との戦いに於いては異邦人のようなもの」
「は、はあ」
天使とは案外社会の中に溶け込んでいるものだろうか。一度も関わっていなくとも小耳に挟むということ、そもそも人とは違う価値観だと断定できるなら個体差だと考えないということなら既に幾つもの接触を経てのことだろう。
「初めて聞きつけてからもう八十八夜のおおよそ三百六十五倍。長かったねえ、それまで一切アタシの前には姿を見せてくれない恥ずかしがり屋さんめ」
その魔女は、年齢をも、人生の道筋をも煙に撒いていた。きっと履歴書にはいつでもいつまでも二十代前半として書かれるものだろう。
「アタシは死ねない。これはアタシに勝手に惚れて勝手に願った者が勝手に与えた贈り物」
願ってもいない不老不死。パイプから昇る煙は不二の山のにて燃やした薬の煙を想わせる。不死の山を、望んでもいない不死の肉体を得た女は果たして幸せなのだろうか。
「二十の折り返しすら見届けることなく死の運命を見ようとしたアタシにとってははた迷惑なものでね」
愛する者とともにいられない世界で不死でいる意味などない、そう切り捨てて不死の薬を焼いた人物すらいたということ。ましてやこの世にいる意味さえ失った人物に望まない不老不死など迷惑の極み。
「ああ、この不死はアタシにかけられた呪いだった。想いの欠片さえ向けない相手から無理に贈りつけられた想いなど、嫌がらせ以外の何者でもありゃしない」
決して叶わない恋が想い人の死によって完成されようとした時、その命を自ら差し出してまでも片想いの相手を生かした者。想うことが出来なくなってしまうとしても、想い人に不要な救いを与えたその男。この世界の神秘のチカラを扱った正義面した大罪人は今でも満足の情をこの世の過去に刻み付けたまま。
「確かにアタシは結果としては真奈女と出会えて今は幸せだろう。まさか同性との恋こそがホンモノだったなんてねえ」
それは本人にも想定外だろう。那雪の恋心すら当時の那雪の想像をはるかに超えてきたものだから。
麻海は煙を吹き出しながら伏し目で続きを紡ぎ出し煙に織り交ぜた。
「それも刹那、彼女が死したらまた一人、この恋を上回るモノなんてありゃしない、アタシの米寿祝いとは言いやしないけど鍛え上げられて頂戴した勘だね」
そんな語りの果ては消え入るように薄い森の情景に浮かぶ煙のよう。
そこから突如話題は引き戻された。
「兎にも角にも天使と会話で解決してめでたしめでたし、なんて考え持ったらいけないよ。次会ったらもしかしたら戦いになるかも分からないね」
麻海の声は那雪の耳へと何ひとつ引っ掛かりなく入り込み、染み渡って行く。光莉は、天使は果たしてどこへと帰宅したのだろうか、行き先は分からない。あの女はいったい何を考えながら那雪にあのような話をしたのだろうか。人の心が分からなくなってしまったのならばあの出来事はどのような心境で行なわれたものだろう。生前の余韻が幾重にも重なり波打ちながら人間性の襞となって那雪との会話に擬態しただけのものなのだろうか。
「それにしてもアンタを選んで接触なすったってことはこれからもきっと何かが起きるものと思って構いやしないね。アンタに構って守ることも必要かも分かんないね」
その瞳には何が見えているのだろう。鋭い目元と目尻は未だに麗しい黄金の瞳をしっかりと彩っていた。そんな眼に映る景色、長年煙を眺めても曇ることないその眼。衰えを知らない頭。更にそれを覆ってうねる金髪。何もかもが浮世から離れた印象を与えて思考の底を煙に撒いているように思えた。
「次の接触に備えてアタシと奈々美はこそりと後をつける、アタシのこと不死にした男とおんなじ動きなんて不本意でしかありゃしないのだけども見つかって警戒されるのも良くないかも分かんないからね」
ストーキング、麻海の予告する行動をひと言で現すならぴったりと当てはまるひとつの言葉だった。
那雪の心の芯に熱いものが走る。この上なく暑い悪寒が駆け巡っては抜けていく。しかしどのような想いを抱いていたところで解決のためならばと認める他なかった。あの深淵を自ら開いた人物なのだとしたらあまりにも危険な存在だった。
「安心しな、流石に授業だの休憩時間だのそう言ったものまで覗きやしないから」
それを聞いて安心に胸を撫で下ろす。解釈次第、それはストーキングではない、みんなで行なう捜査のようなもの、そう言いつけて自身を納得させた。
「分かりました。明日はよろしくお願いします」
その答えを見せた貌はどこまでも晴れ渡った爽やかな笑顔をしていた。
☆
その時は来た。那雪は授業という時間を消化して今という時間を歩む。放課後の教室は賑わっていてキラキラと輝いていた。人の波というものはまさに光を散らした大海原だった。
下駄箱を開いて姿だけは立派な皮の靴に履き替えて、その場を飛び出して校門へと向かう。
那雪に狙いを絞って話しかけていたあの女は果たして今日も近付いてくれるだろうか。もしかすると既に敵ではない、警戒するに値しないといった評価を下されているかもしれない。その可能性が頭に張り付いて離れない。既に脅威にもならないと思ったならば近付く理由などもう残されてはいない。
心臓の鼓動が不安を形にしていた。早まって、内側に潜もうとする心に響いて更に強く濃く打ち付けて。
不安はいったいどのような音色をしているだろう。聞きながらにしてどこか理解できない音色だった。今もなお身体中で鳴り続けているそれはどうにも分からない。
そんな音色が息苦しさを読んだとほぼ同時のことだった。
「なきちゃんお疲れ、待っててくれたんだね嬉しいよ」
飛んできた明るい声に幼さを残した明るい顔立ち、灰色の髪に茶色の瞳。まさに今会いたいと思っていたあの人だった。駆け寄って、那雪の隣にて立ち止まり顔を微かに傾けて微笑みを明るみに晒してみせた。
「今日はなきちゃんの好きなものとか聞かせて欲しいな」
好きな人や友だち、そう言った人物からの話題であればどれほど嬉しかっただろう。しかしながら隣に立つ人物はあくまでもそうした態度で常人には分からない思想を隠し持った人物。気分は暗闇と呼ばれし大気の墨に浸されていた。
「好きな物……あじさいの花、とか紅葉とか」
「紫陽花には毒がある。もみじの方があなたの毒気に似合うとの判断」
打って変わってその態度。那雪は目を見開いた。光莉の声には先ほどまでの抑揚が見当たらなかった。そう、これまでの陽だまりの明るみを体現したような貌は、態度は現れることもなく、本人の微笑みには歪みひとつ見られない。本人にはその違いが分かっていないのだということ。
季節外れの寒気が那雪の身を包む。そんな中でもどうにか平静を装って言葉をひねり出した。
「そういうことじゃないと思う。やんちゃな人が桜を好きって言うかも知れないし、あじさいに毒があったとしても私みたいなのが好きでもおかしくないと思うよ」
言葉はきっと何ひとつ響かないだろう。あの女の人への理解はもはや空虚そのものでしかなかった。
そうしたどこかにズレが見られる会話に対する不満をどうにか抑え込んでたどり着いた星見ヶ丘家。そこで昨日同様に光莉は家の鍵を開け、陽炎にも似た歪みを持ったドアを開く。
やがてドアは閉じられてひとり残された那雪は大きく息を吸っては吐いて心を落ち着かせる。きっと引き返すことは出来なくなるだろう。一歩進んだ先の闇に落ちる恐怖はその手を、細長い指を震え上がらせていた。
それでもと進み続けよと言い聞かせながら決意の動きに身を任せて呼び鈴を押した。数秒の沈黙は果たしてどのような結末へと繋がるだろう。
やがてインターホン越しに声が流れ出てきた。
「はい、星見ヶ丘です」
「あのすみません、光莉さんの同級生の那雪です」
そこから一瞬の沈黙が挟まれて、返答が突撃してきた。
「光莉、ウチにはいませんけど」
「すみません、別のお家でした」
そうして会話は切られた。麻海の言った通り、光莉はこの家の者などではなかった。その事実を確認しつつ、予想できていたとはいえ人間違えのような有り様に恥ずかしさを覚え、表情に困惑の色を浮かべて立ち尽くす。
そんな那雪の背後に突然声が響き出した。
「あーあ、知っちゃった。知らなければまだ、平和に過ごせたのに」
振り返る那雪を出迎えたのはあの明るい顔をした女などではなかった。明らかに身長は大幅に伸びていて顔も大人のもの。そんな女が、天使が先ほどと比べて大きく変わり果てた低い声を晩秋の風になびかせた。
「それはアナタが開いた鍵、運命の扉、私はこれから私の鍵で扉を開く」
言葉が紡がれると共に水色の鍵が右手に握られた。左の頭からは翼を想わせる薄水色の輝きを放ち、その口から開戦の開錠が示された。
「私は『開錠せし者』全ての鍵を開く者」
そのひと言と共に鍵は開錠の動きを示し、那雪の視界を闇に閉ざした。