天使の仕業
夜は目の前から逃げていく。星々の海は夜闇に吸い込まれて消え去るように透明に変わって行ってやがて訪れる朝日の中に煌びやかな景色など残されていなかった。
「綺麗な星だったのにね」
那雪の中に残されたあの光景、星空の下、人の世にぽっかりと空いた虚無の裂け目、そこから溢れ出ようとしていたあのクラゲは破滅なのだという。
星を見つめる魔女がそこから見通した未来に本当も嘘もあったものだろうか、那雪は自身の中で何度か問いかけてみたもののそこに出る答えなど虚無そのものでしかなかった。
背伸びして欠伸を噛み締め押し込めて着替える。そんな自分の仕草ひとつで数年前のことが今のもののように思い出されて現れる。那雪が手で口を隠しながら欠伸をしていた時、奈々美はよく「ねこみたい」と空に仄かな桃色を混ぜたような微笑みを見せてくれた。窓の向こうに広がる空に流れ去ってしまったあの日々を思い描きながら、届くことのないあの景色へと手を伸ばして。あの時に届くことはない。そう悟って空白の距離にため息を捨てるようについて。
いつまで想いに更けていただろう。ふと辺りを見回してようやく部屋を出る。そんな彼女を出迎えたのはいつもの母の堂々とした輝き溢れる笑顔と奈々美の澄んだ笑顔だった。那雪は奈々美の笑顔が好きで堪らない。あの笑顔は空と海が溶け合ったような涼しさと水中に広がる晴れ空という言葉が似合う様をしていた。明るさの中に優しさを、涼しさはあれども影が差し込まない、そんな塩梅が那雪の心をしっかりと潤してくれる。
「おはよう」
「お母さん」
「おはよう、なゆきち」
「え、いつからいたの」
それは当然の疑問だった。昨日はこそりと窓から入って奈々美が飛び立ち闇に溶け入る姿をしっかりと見送った。つまり早朝からお邪魔しているということに他ならない。
早くから家にいたなんて、もっと早く顔が見たかったのに
日が昇る頃には既に居た、母が目を覚まして新聞を郵便受けから取り出している時に訪れたのだという。
「え、ええ」
驚きのあまりつい口走ってしまいそうになる事実を奈々美は柔らかな手で抑える。優しさで塞がれた那雪の口から言葉が出ることはなく、奈々美は那雪の耳元で地声交じりに囁いてみせた。
「昨日のことは、内緒よ」
言葉の端に軽い笑い声を乗せてさえずりを漂わせる奈々美はこの上なく艶やかで妖しい。その目は心なしかいつもより細められているように思えた。昨日はほとんど寝ていない。時間や境遇のすり合わせに奈々美の表情が加わって分かりやすい答えを示していた。海と空の混ざり合った雰囲気に細い光の雨が射し込む。そんな想像を抱かせる奈々美に対して那雪の目は大きく見開かれていた。
「ふたりとも恋人みたいにくっついちゃって、那雪もいいお友だちを持ったのね」
友だちなんかじゃない、言葉にしたくても出来ない想いは白い花。母にはきっと理解してもらえない。女の子同士で抱き合う想いなんて、その想いを形にした口付けなんて、普通じゃないと言われて遠ざけられるに決まってる。
実は恋人同士です。言えるはずもなかった。
そうして閉じられた関係はいつまでも絶えず細い糸同士で絡み合っていた。熱い関係の糸は血管のよう、共に注ぎ合う想いは血液のようで、そんな連想、こんな幻想、誰にも語ることは許されなかった。
那雪が食パンにマーガリンを塗って口へと運んでいる間、奈々美はゆっくりとティーカップを口へと運んでは紅茶を啜るだけ。ただそれだけの所作に惹かれながら味わう食パンは美味を感じさせつつも無味を広げていた。そんなパンをすぐさま平らげてコーヒーを啜りつつメガネの曇りに想いを重ねていた。薄っすらとぼやけた景色は恋する自分の視界のようで、昇る湯気は恋の温度のよう。
「ねえなゆきち、コーヒーひと口ちょうだい。私の紅茶をひと口どうぞ」
味わいだろうか、もしかするとただ単にシェアしたいだけなのかも知れない。那雪は控えめな微笑みと共に首を微かに傾けてコーヒーカップを差し出してティーカップを受け取る。ひと口啜り舌に絡めて染み渡らせる温もりは紅茶の温もりであり奈々美の温もりでもあり。
それを想うだけで途端に頬に強い熱が迸る。そう、奈々美が口を付けた紅茶を口にするということ。奈々美の方へと目を運び、伏し目の流し目を見せるという形。奈々美の方はただ瞳を閉じて頬に手を当ててコーヒーを堪能していた。
そんなふたりの振る舞いを見て母はどう思っただろう。想像するだけで恥が花を咲かせて風にそよがれて那雪の心を動かし続ける。母の方へと顔を向けるもそこに在る姿は新聞に目を通して世間を見つめるという大人そのもの。まさにいつの日かあるべき手本のようなものだった。
世間の印象によって捩じれた恋を全身で浴びるふたりと冷静に新聞を読む母。精神の距離は果たしてどのように広がっているのだろう。どちらが何処へより進んでいるのか、深さはどのようなものだろう、奥行きは果たして。何も見えない見せない、人によって何もかもが異なるものこそが世界の本当の姿だった。
互いにカップに注がれた飲み物を空にして、那雪の部屋へと向かう。彼女の中に生まれるひとつの物語、人生という唯一無二の物語の中に魔法という分野が挟み込まれる。
「なゆきち、私たちは今から魔法のセカイ、なゆきちが触れて来なかった戦いの話になるけどそれでも一緒に進んでくれるかしら」
人生の中に魔法というページを縫い付ける質問は非日常への入り口。きっといつでも隣に立っていたこと、奈々美が常に触れていたこと。那雪はあくまで日常の中で奈々美が扱っていたものを目にして肌で味わい聞いて香りを感じていただけの話。それがいつの間にか戦いという形で降りかかってしまっていた。
「大丈夫、奈々美とならどこまでも行けるから」
大きく頷きながら贈る言葉は一切選び抜かれていない本心そのもの。例え那雪にとって苦しい出来事だったとしても奈々美の願いなら考える時間など、ためらう想いなど必要なかった。
「昨日の占い魔女さん〈星の魔女〉の言葉が気になるの」
「うん、確か世界がどうだこうだって」
一体これからどのような経緯で世界が滅びるのだろう、夜闇よりも暗い世界の裂け目、クラゲが現れるあの空間とどのような関係にあるのだろう。奈々美は短くて可愛らしい人差し指を立てながら続きを声にした。
「いいかしら、これからなゆきちの知り合いでもあるあの〈煙の魔女〉五島 麻海に会いに行くけど、ついて来てくれるかな」
返す答えなど初めから決まり切っていた、とびっきりの笑顔を、顔からはみ出すほどの甘い色彩を滲ませながら大きく頷いて見せた。
「決まりね、これからすぐ向かうわ」
外出準備、那雪が気に入りの灰色の服を取り出したその時、奈々美はじっと那雪の姿を見つめていた。
「ゴメン、恥ずかしいから着替え見ないで」
「男に見られても平気なくせに私にはダメなの」
「何で知ってるの」
体育が終わった後、男子生徒が数人入り込んで来たにもかかわらず何食わぬ顔で着替えていた数人がいた、その内のひとりだということを何故知っているのだろう。驚きしか残されていなかった。顔を赤くして熱に浸る那雪の顎に指を這わせて優しくつまむように掴んで笑みを浮かべていた。もはやそれは微笑みというよりニヤけと呼ぶのが相応しい、そんな有り様だった。
那雪の顎から離れた指を口元に当てて沈黙を貫いてはいたものの、那雪には概ね分かっていた。訊くまでもなく疑問の霧が晴れていて、答えはきっと背徳的な行ないが呼び込んだ結末なのだろう。
那雪は顔に強い熱を感じながら感情に流され目を伏せながら、部屋を出るように促す。
流石にそのような態度を見せられても尚諦めない人物ではなかった。好きな人の気持ちをしっかりと汲んで奈々美は一足先に部屋を後にした。
☆
街を歩き続けたその後にふたりを迎え入れるは木々に覆われた山。そんな街の外れ、山の手前に家として未だに機能している建物があった。屋根は痛み、壁もヒビが入っているそこは秋雨と名乗る魔法古道具店。年季が入りに入った看板はボロボロというよりも貫禄を備えていて古ぼけた建物と共に在り。そんな建物は通る者見る者全てに堅くて埃被った印象を焼き付けにかかっていた。
晴れた空に草木に彩られた緑の空におんぼろ家屋の埃の雨。
奈々美は息を詰まらせながらも戸を引いて中へと身を放り込む。その様子を見つめてきょろきょろと辺りを見回す那雪からは躊躇いの気持ちがにじみ出ていたものの、やはり続いて中へと身を滑り込ませた。
中にて待っていたのは外と変わりのない質感の壁に画鋲で留められ吊るされたカラフルなくもの巣を思わせる悪夢除け、テーブルには幸運を呼ぶ赤みがかった茶色の豆にガラスで作られたペン、厄除けのお札など和洋問わず様々な縁起物が置かれていた。
そうした物の殆どが売り物ではなく店主の私物。古道具を扱うからには呪いや憑き物が付き者で、そうした禍々しい術や存在から身を護るために備えているのだという。
売り物は壁を囲むように設置された木の棚に収められていて、こうした部分に目を当ててみては家というより納屋を思わせる建物。それがこの店の持つ世界観だった。
異界のような神秘、そこの住人は椅子に腰かけてはくつろいでパイプに口を付けては煙を吐いて気怠さ全開の瞳でふたりを見つめていた。
「麻海ったら相変わらず嫌な顔してるのね」
奈々美に向ける黄金の目は睨みの姿勢を取っていた。瞳を収めて有り余った白目が余計に力を感じさせる。この女の手によって、このおんぼろの店の存在によって那雪は救われたのだと改めて確認して那雪の内は感謝の気持ちで溢れかえっていた。
「嫌な顔ならさ、疾く失せな」
始まりから追い払うつもりだった。来るもの拒む態度は接客のものとしては最悪という言葉を当てはめる他なかった。一方で奈々美は瞳いっぱいのきらめきを零しながら麗しい笑顔を浮かべる。
「そんな顔しないでほら笑顔笑顔、笑うものは服を着る」
「笑う門には福来たる」
それはあまりにも鮮やかな訂正だった。麻海の声は冷たさを感じさせてその顔は全てを流し見しているだけにしか見えない。そういった人物なのだろう。那雪が以前会った時と何ひとつ変わっていなかった。
「ところでそこのメガネは久しぶりじゃないかい。どうして今の今まで来てくださらなかったことか」
「私が悪いの」
ばつの悪い。そんな言葉が当てはまる顔を浮かべる奈々美の肩に手を置いて那雪は麻海の目を見つめ、ぶっきらぼうな貌で返した。
「別に奈々美は悪くありません。私が勝手に奈々美が魔法に近付かないで欲しいって言葉を真に受けて勝手に近寄らなかっただけです」
「本心だから」
麻海は眼を細めて那雪の眼鏡越しの瞳を見つめ、盛大にため息を吐いた。
「お礼くらい来てくれてもよかっただろうに。アタシだって人、それも寂しがりだっていうものだからねえ、会いたくはあったものさ」
那雪の表情は途端に崩れ落ちた。中から現れたのは弱さそのもので、人々が口々に弱そうだのイジメたくなるだのすぐ傷付きそうで話しかけ難いなどと語るその顔がそこにはあった。
「優しいものね、罪悪感の受信は完璧でしかありゃしないね」
麻海は立ち上がり、首だけ振り向かせてある名を呼ぶ。
「真奈女、出てきて構いやしないからアタシに構っておくれ」
それから一秒と待たずに現れた姿は水色の髪をした少女、きっと那雪とはそこまで変わらない歳なのだろう。駆け寄って、麻海にしがみつくように絡みつくように抱き締める。くびれ辺りに腕を回す様はあまりにも手慣れていた。
「なあに、今回のお客さんはいい人だったんだね」
「ああ、真奈女が抱きたくなる子しかいやしないよ」
真奈女、そう名乗る女は大学生なのだと語った。そう、那雪より年が上。中学生にしか見えないその童顔は、あまりにも若々しくて瑞々しかった。
「ホント、ふたりとも良い人そうだね」
そう言った基準で決まっているのだと学んだ。那雪よりも少しだけ長い人生の中、自身からすら目を逸らしてきた那雪の何倍もの人々を目にしていたに違いない。それ故に人を見る目は肥えているようで、その事実ひとつで人生の先輩なのだと理解を得た。
「那雪ちゃんは繊細そうだね、ちょっとこっち来て」
言いたい事でもあるのだろうか、特に考えも無しに従い真奈女の方へと近付く。少しばかり歳上の少女に顔を寄せる。
大きな目とふっくらとした丸い顔はあどけなさを余すことなく愛おしさの色付けに使っていた、程よく膨らんだ胸に細くありながら柔らかさを持ち合わせたお腹。ただただ痩せこけた那雪とは大違いの少女。もはや別の生き物だと感じさせてしまう程に綺麗な印象を漂わせた人だった。
そんな真奈女が那雪の耳元で悪戯な微笑みを浮かべながら声を潜めて伝える。
「私と一緒で逃げてきたんだね」
那雪が受けた印象は一気に真っ逆さま。見えない心の深淵へと落ちて行った。彼女もまた魔法のチカラで逃げてしまった者なのだという。
「私はいとこのティーカップに飲まれて魔法のセカイに逃げたんだけど、でもね。それって私の願望と彼女の悲しみが重なったからなんだ」
眼を見開く。目を疑う。その目に映る少女は那雪とあまり変わらない運命に飲まれたことがあるようでそれが自然と那雪の口を開かせた。
「そっか、私もそうなんです。奈々美にもらった栞が願いを聞き届けてしまったみたいで、私、しばらく自分の世界に、ほぼひとりぼっちでした。社会的に存在してるだけで心は言葉は誰にも聞いてもらえなかったので」
心に根深く刺さった痛々しい影は未だに朽ち果てることなく破片を残しては時として痛みを与える。いつになったらなくなってくれるのだろう、そう思いつつもいつまでもそこにあって欲しい、そう願う自分もいた。きっとこうして受けた痛みを忘れてはならない、誰と話すにしても誰を見るにしても、気持ちは考えなければならない。そうしたことへの理解の証。
「ふふっ、似た者同士だね、でも麻海は渡さない」
「私には既に心に決めてる人がいるので」
そう伝えて奈々美の手を引いて腕同士を絡め合っては甘酸っぱい微笑みを浮かべて見せていた。
「で、何の用かい。まさか〈東の魔女〉に彼女が出来ました、一族はここで御終いですけどお祝い申し上げ下さい、みたいなことじゃありゃしないだろうね」
まさかまさか、そうした言葉を軽い笑いに乗せて飛ばしながら那雪と顔を寄せ合いながら訊ねる。
「昨日〈星の魔女〉が占いで世界が滅びるって言ってたの。それになにか裂け目が出来てそこからクラゲが出てきて」
「クラゲ、おやおや、この世も末か」
目を見開いては驚きの感情を言葉に添えて差し出す金髪の女は那雪が見る限り最も感情的に見えた。
「そいつは驚きだね、真奈女との関りに手慣れて心地よくなってきた今となってはもうこれ以上感情揺れないかなあと思っていたものだけどねえ」
地上を、空中を漂うクラゲの存在がそれ程までに、明らかに数々の不思議を見てきた魔女からしても驚くほどのものだろうか。那雪の理解は追いつかない、あまりにもどんくさい頭だと自身を責めていた。
「さて、世が滅ぶ。その前に真奈女と一緒に存在を煙にでも撒いて別の世界にでも旅立とうか」
諦めの気持ちがこもっていただろうか、麻海はパイプに口を付けて思い切り煙を吸っては空気に向けて吐きつける。更に万年筆を取り出して構えて。魔法を使うつもり、それが目に見えていた。漂う煙を万年筆でなぞり引き寄せて魔法を扱う、そんな摩訶不思議な光景を那雪は一度目撃していた。
「それは早いんじゃないでしょうか」
那雪の言葉が誰の心を捕らえられるだろうか。これから続ける言葉への反応がそのまま答えとなる。
「私たちの住む世界はここだけですし、違う世界でこんにちはしたところでそれはまた違った私たちなんです」
そう、他の世界にいるその人は同じ姿を持った別の人。例え彼女たちが何かしらの思い出を持っていたとしても他の人は思い出のひとつもない。目の前で眉を顰めて困り果てた顔を浮かべているこの少女と同じ顔に同じ声、同じ表情に同じような言葉を届けて来る別の人物が同じでありながら異なる心を持っている。想像するだけで真奈女の内から声が湧いて出てしまった。
「せっかく出会ったのにお別れ……いやだよ、麻海」
那雪の言葉に悲しみを覚えた真奈女が言葉を扱って麻海に懇願を、素直な気持ちを授ける。人と人の繋がり、それこそが恐ろしく強力な魔法と成り麻海の心を動かした。
「そうかい、真奈女が嫌なら……出来る限りアンタらに古びたねこの手でもお貸ししてしんぜようかねえ」
古びたねこの手。果たして幾つの年を重ねてきた者なのだろう。那雪にはその人生に積もった埃の量も色も重みのひとつも見通すことは叶わなかった。
「そう、〈煙の魔女〉が手伝ってくれるなら心強いことこの上ないわね」
奈々美は頷いて、顔をかたむけて再び頷いて、メガネをかけた少女の肩にしっかりと頭を乗せては夢見心地の幸せを露わにしたような貌を零していた。
「ありがとう、麻海。私、那雪ちゃんと奈々美さん大好きかも知れないから」
なに故に断定できないのだろう、何が彼女自身の心を見通す目を曇らせるのだろう。時間の経過だろうか、関係の浅瀬が深海に変わるまでの間だからだろうか。分からないもののそれはそのままとしておくことにした。
「それで、クラゲの対策はふたりで出来るとしても、クラゲが現れる原因は理解できるものかい」
麻海の質問にふたりは言葉を詰まらせた。回答は曇り空、惑いの雨が今にも降り出してしまいそうでとてもではないが声には出来なかった。彼女たちの思考には迷いの霧が蔓延っているものだった。
「だいたいあれらを呼び出したいのは天使さ。世界の闇を葬り天使が天に置いて来た感情を持ち込んで住むことの出来るセカイを作り上げ領土をさらに広げる」
天使という存在はどこが天使なのだろうか、真奈女の方がよほど天使めいている、那雪の中ではそんな感想が響いていた。
「天の想いはまさにニンゲン様の敵でしかありゃしないってワケさ」
大きな世界ひとつが敵としてそこに在り。そんな事実が魔法使いの間では知れ渡っているのだという。
「まあとはいえ元凶なんて見通せない、もしやして自然現象かも分からないし」
自然現象で世界が滅びる。それがどれだけ理不尽で防ぎようのないことか、那雪には分かっていた。人類がいつでも手を煩わせているもののひとつ、それが自然災害だった。
「とりあえず手始めに〈星の魔女〉とやらに会ってみてはいかがなものか」
そう、預言をもたらした者、那雪と奈々美に人類滅亡の危機を告げた本人はこの街に住んでいる。
「なるほど、星見ヶ丘 光莉って言ってたかな、あの子を探せばいいのね」
奈々美の言葉を耳にして麻海は一瞬だけ貌を曇らせた。湿り気を纏った感情に表面は曇ったものの、すぐさま晴れた表情を貼り付けた。
「そうだねえ、探してみる他ないんじゃないかい」
奈々美に対して少し那雪を借りると断りを入れて奈々美の腕から那雪を引きはがし、ふたりきりで奥へと入って行く。
この場所でふたり、薄暗い部屋の中で麻海の金色の瞳がしっかりと那雪を捉える。その黄金は、暗がりの中では薄い影のかかった琥珀のよう。
「ひとつだけ、素人のアンタに言っとくことがあんだけどさ」
「は、はい」
消え行ってしまう返事、尻すぼみの細い繋がりは那雪の身体のよう。麻海はパイプに口をつけ、離しては煙を吐いていた。
「星見ヶ丘 光莉って言ってたか、そんな人物いやしないのさ、奈々美は無知でもアタシの魔法への目は言葉を拾い上げる地獄耳は誤魔化せやしない」
そう告げられたところで那雪には信じることが出来なかった。確かに彼女はそう名乗った。星を落としてクラゲを鎮めようとしていた。あの行ないは、あの名前は、一体どのような真実を隠し持っているものだろう。
「もし星見ヶ丘を名乗っていたのがホントなれば、その女には充分な警戒網を張っておくように」
左手で万年筆を握り、茶色がかった緑の衣を揺らしながら筆で円を描いて煙を拾い上げ、煙を文字に変えてメモ用紙へと書き留める。そうして口は再び開かれた。
「安心しな、アタシは今のとこアンタらの味方さ」
そうして幾何学模様と読み取ることの出来ない記号が綴られたメモ用紙を手渡し、鋭い瞳に仄かな光を添えて彼女なりの明るさを含んだ微笑みを撒いた。