魔女の焔
――あなたなんかいなけりゃよかった
「あぁそうですか」
――私の才能を食べてまで生まれてきた子が4属性の内のひとつ、火をまともに使えないなんて
「いらないのは……子を子だとすら分からない頭」
――あなたみたいな落ちこぼれは出て行って
「こんな記憶、私から出て行って」
月は朧気に輝き、夜空に滲んでいた。忌まわしい記憶が奈々美の頭を駆け巡る。涼しく薄い色をした月すら眩しく見えて仕方がなかった。夜の世界は空の深海の底で眠るように起きている暗くて昏い感情の好物だった。
☆
星が薄い膜のように広がり夜空のカーテンとなっていた。星たちに閉ざされた世界の中で〈東の魔女〉東院 奈々美は古びた箒にまたがって飛んでいた。奈々美が進んでいるのか、風が吹いて星が飛ばされているのか分からなくなってしまいそうな目印もない空の下の空中。奈々美は星屑の泡たちに見とれていた。あまりにも壮大な輝きは箒の進みも心すらも呼び止めてしまう。
――きれい、とってもステキ
魔女の瞳すら虜にしてしまう美しさ、曇りなき空の輝きの中で奈々美は曇りなき想いの輝きを言葉にした。
「そうね、一緒に見たいものね。待ってて、なゆきち」
昨日の感情は這うことを忘れているのだろう。永遠に忘れていて欲しい。奈々美の心の隅に残る記憶にそっぽを向いて暗闇に閉ざされた地を眺めて那雪の家を探して素早く向かってゆく。動くと決めたからには風となって進む。愛しの『キミ』に会うために。
やがてたどり着いたそこは一軒の家。あまり大きいとはいえない家は目立たず隠れず見事に町の中に収まっていた。
奈々美は二階の窓を優しく叩く。沈黙はどれだけの間続いただろう。知らない分からない。やがてカーテンは開かれてひとりの少女が目を擦りながら窓を開いた。眼鏡をかけて奈々美を見つめる薄緑のパジャマ姿の少女に奈々美はガラスのように澄んだ美しい微笑みを向けて出迎えた。
「行こう、なゆきち。きれいな星空が広がっているの」
魔女に手招きされた少女、唐津 那雪は起きたばかりの枯れた声で「待って、今から準備をするから」と答えて着がえを始める。殆ど膨らみのない胸も全体的に肉のついていない身体もどうしてか奈々美の心を波立たせる。ざわめく想い、那雪のことをひとりの女として見ていてもなお収まらないときめき、自分は普通ではないのだと諦めるほかなかった。
那雪は地味な白いブラウスに着替えて玄関から靴を取って来て、奈々美の箒にまたがり奈々美の身体に身を預けた。窓を閉めればふたりにとってこの世のなによりも温かなお出かけの始まり。星空はふたりを笑顔で待っていた。闇に飲み込まれて吐き出されて、闇夜に隠れて明るみに出て。ふたりを待ち構えていた星空のカーテンに見とれていた。黒と白の輝きに彩られた幕は簡素な色彩でありながらこの上なく美しい。奈々美は季節に似合わない紺色のローブに手を突っ込んで懐中時計を取り出した。0時を迎えるのか迎えたのか、闇に閉ざされた視界の中ではイマイチ分からない。
「日付けは跨いだかしら、なゆきち見える?」
そう訊ねられて那雪は肩にかけたポシェットから小さな箱を取り出し、中に眠る小さな棒を指ではさむ。
「マッチをどう使うつもり? 明かりには弱すぎるわ」
「こう使うよ」
箱の側面を擦って火をつけて、那雪は瞳を閉じて祈るように言葉を口にした。
「お願い、私の炎」
マッチに灯る頼りない火はみるみるうちに大きくなって立派な炎へと成長を遂げた。
「魔法なんていつ覚えたの、私はなゆきちにはこんな世界に踏み入れて欲しくなかったのに」
那雪はめいっぱいの笑みを咲かせる。奈々美は戸惑いに心を揺られつつもその表情の愛おしさにもまた心を揺さぶられていた。
「奈々美と再会する時に覚えてしまった」
奈々美と再会するために麻海の力を借りて開いたあの魔法、奈々美と触れ合うために炎を使いこなしたあの時のこと。ただそれだけ、あの日以来、那雪の炎は手中に収まっているように思えて仕方がなかった。
「あの一日で……なゆきちはこんなもの覚えなくていいのに、魔法の世界なんかに足を踏み入れて……」
「私は嬉しいよ。例え苦しいところだとしても、ここが奈々美が住む世界だから」
目的は何であっただろうか、那雪はその炎で懐中時計を照らして時間を確認した。
「11時くらい」
「そう……夜はよく見えないものね」
不確実な視界の見立てより一時間も早かった。
――なら、大丈夫みたいね
安堵のため息をついて、箒に隣り合うように腰掛ける姿勢へと向き直り、浮いた頼りない椅子として使って那雪の手を握る。
「私より指が長いのね、細いし羨ましいわ」
「そう……みたい?」
絡められた那雪の指は確かに何処か少しだけ余っているような感触を貪っていた。奈々美の目には星という美しい背景の中ですぐ隣りに座る那雪という本人にとっては凄く素敵なものが映されていた。那雪にとってはきらめく星空の中、そこそこの美人がみすぼらしい自分に嫉妬しているという凄く不思議なことが映されていた。
「でも奈々美みたいにかわいくない」
「かわいい。その表情が大好きなの、ちょっと目を伏せた自信のない控えめななゆきちの顔、本当は似合うって分かっているのでしょ?」
「ええ、分からない」
那雪はただ疑問を夜空に漂わせて感情の波の状態を見失ってしまわないように気を付けるだけ。
「今更言うけれどなゆきちが炎の魔法が使えるなんて意外だったわ、まるで私に足りないものを持ってるみたいね」
奈々美に足りないものなんて、そう言おうとして思い留まる。きっとそんな言葉は誰も幸せになどしてはくれない。代わりに那雪は違った言葉を夜空に漂わせる。
「奈々美の助けになれるならとても嬉しい」
それから視界いっぱいに広がる綺麗な星を瞳におさめて心ゆくまで味わい続ける。飽きることを知らないのか、いつまでも眺め続けるふたり。空に散りばめられた輝きの中に那雪は違和感を見つけた。
「星と星の間に線……?」
奈々美は瞳を見開いて、那雪が見つめている方に注意を向ける。星と星を結んで曲がってほかの星ともつながって。そうして出来上がった幾何学模様は最も突き出た頂点たちを結ぶように引かれた大きな円に囲まれた。
「もしかして……魔法を使っているのかしら」
その余裕の表情は取り繕ってできたもの。那雪のために隠していたはずの綻びは、見事に見抜かれていた。
「大丈夫?」
無言で一度だけ頷いた。そして箒に跨る姿勢に戻り、那雪にしっかりとつかまるように促して素早く飛び始める。目的地は大きな陣が大まかに示していた。星たちは海に漂う泡のようにゆらめきながら上へのぼり、海底のように空に沈んだ町が奈々美たちの元へと近付いて。
そこは闇の底、人々の住まう小さな町。なにもないはずの場所にできたひび割れ、空間に現れた荒々しく禍々しいそこからあふれ始める蒼黒い水。向かい合って立つ存在、それは暗い顔をした少女。
少女は指をあげて素早く星をなぞり、陣を描いていく。輝きを放つ空からひときわ大きな輝きが現れて、落ちてくる。
「隕石!?」
那雪は恐ろしくも美しい魔法から目が離せなかった。輝く赤い星は尾を引きながら落ちて墜ちて、蒼黒い水に飲み込まれ消えゆく。蒼黒い水は煙を上げながら泡を吹いて膨らんでゆく。
「ダメ! ふたりとも、アレを出させちゃダメ」
膨らむ水は吸い込まれ、中の何かが水に覆われたまま大きくなってゆく。
「私〈星の魔女〉星見ヶ丘 光莉の占い、『夜に裂けた世界からあふれ出す破滅の水がクラゲを生み、月を囲むとき、そこにきらめく知性は残されていないであろう』まさに今、人類が滅びるかどうかの戦いが始まっているの」
目の前の水の存在に心を折られてしまった奈々美。どうするべきなのか分かってはいたが、分かっていたからこその絶望だった。
「自然と人の魔力の調和の焔、魔女の焔がいい……けれど、私に炎は使えない」
破滅に対抗するための人の意志と自然の力、自然に漂う魔力と自身の魔力を掛け合わせた魔女の魔法。それが破滅を止めるために必要な力、絶望を蒸発させるための希望。奈々美の頭の中は自身への憎しみと世界の破滅への悲しみ、那雪の顔に声に心に、もう触れられないという事実への絶望たち。数々の闇にかき乱されて、もうなにも考えることができなかった。
――あぁ、全て終わり
「……なゆきち、愛してるわ。世界の最期が訪れてもそれでも」
奈々美の肩に細くて長い指が、那雪の手が優しく置かれた。奈々美の瞳に映る那雪の表情は優しい微笑みと強い意志で彩られていた。
「大丈夫、ふたりの力でどうにかできる」
奈々美の瞳は驚きの膨らみとともに見開かれた。
「どうやって」
「栞から魔法を使った時と同じ、奈々美の魔女の魔力と私の魔法で」
「まさか、私が操る自然の魔力をなゆきちが使って。そんなこと……死んじゃうかもしれない、いけないわ」
しかし、奈々美の震える声では那雪の固い心を崩すことなど叶いやしなかった。
「成功させるよ。任せて」
奈々美には紡ぐ言葉などなくて口を噤む。那雪は奈々美の肩に置いている手に力を入れて、言葉を続けた。
「四大元素の欠けたひとつは、私が担うから」
水は膨れながら海月のかたちをなしてゆく。奈々美は那雪の手を握って目を閉じる。手のひかえめな柔らかさと軽い温かさは奈々美が迷わないための道しるべ。奈々美の左手が上がる。周りの自然はざわめいていた。風が大地が水が、植物や動物、空に浮かぶ星までもが笑って泣いて怒って、その様は世界に感情を宿して描かれた絵画のよう。
「なゆきち、あとは任せたわ」
「大丈夫、私は奈々美のことはもう……見失わないから」
練り上げられた魔力を那雪の魔法と重ねて交ぜて織ってゆく。出来上がった炎は破滅の水を蒸発させ、絶望を浄化する。これが奈々美ひとりでは扱えなかった魔女の焔。海月の姿をした水は溶けるように蒸発して湯気となって空間の裂けめの中へとかえって行った。
☆
星があまりにも遠い固い地、レンガのような道路で奈々美の苦しみを分かち合っていた。
「なゆきちと初めて会った時なのだけど、私も親にひどい事言われて家を駆けだしたときのことだったの。『火属性もまともに使えないのか』って」
那雪はただ、奈々美の瞳を覗き込む。伏した瞳に映されているのはつらい過去なのかそこから逃げ出したための今なのか、分かることはなく。
「なゆきちのことを励ましながら『絶対一緒に幸せになる』なんて、自分勝手よね」
那雪は悟った。目の前の美しき魔女は未だ過去に苦しめられているのだと。白い手は美しさに似合わぬかわいらしい手を包み込む。
「そうだね。でもね、その自分勝手に救われた人もいるの。それだけは忘れないで」
闇に隠されたふたりのみっともない想いのやり取り、綺麗とは言い難い自分勝手の交わり。それは夜空に浮かぶ星の輝きよりもなによりも美しかった。