少女の孤独、魔女との再会
目を開いた。木の机の固くて冷たい感触は那雪の温もりにあてられて和らいでいた。
周りでは生徒たちが特に中身のない会話で盛り上がり、那雪の耳を突いていた。加わろう、そのようなこと行おうともしなければ考えることもしない。今目の前にいる人々は全てが那雪のことを見ることもなければ話そうともしない。
いないも同然、そんな状態に何年晒されただろうか。初めこそはイジメを受けることもなくなって嬉しくて小躍りしたものだったが、一か月もすれば寂しくて苦しくて、いないのならば幽霊と同じだ。そう思ったが想いは誰にも届かずに、咲いては枯れて、また咲いて。
いつしか心の土壌までもが枯れ果ててしまったのだろうか。今となっては目の前の人々など興味もない映像と同じで存在そのものが白黒のようにしか感じられなかった。話しかけられるのは最低限のことだけなのだから。
周りこそが感情のない機械のようなものなのか那雪自身が存在のない幽霊と同じようなものなのか。
「別にいいんだけど……でも」
一息おいて、那雪は生徒の集団の中でみんなに聞こえる声で誰にも聞こえない言葉を、心からの言葉をお世辞にも綺麗とは言えない声で口にした。
「でも、あなただけには気付いてほしいよ、会いたいよ。奈々美」
いつ言っても何度放っても伝わらない、そんな悲しい本音がひとつ、教室の中をただただ漂い続けるだけ。
那雪は、大切な人に会えない悲しさを知った。
☆
授業を聞き流す作業を終えて流れる生徒の波を眺めて思う、やはり那雪は生徒の集団からは蚊帳の外。この世界に参加していないような孤独、眼鏡越しに見る世界は歪んでいるのだろうか。
なにもかもが嫌になり、駆け出す。行き場のない苦しみ、それは誰が原因なのだろう、なにがいけなかったのだろう。
――奈々美……今どこに
幸せの象徴の四枚の葉を貼り付けた栞を手で包み、胸に当て、祈る。しかし、なにもよくはなりそうにもなくて世界は那雪のことなど見てはいないようで。
建物の群衆、青い雑草の香り、黒くてかたい道路。全てが嫌になりそうで、それでも離れることもできない世界。
気が付いた時には那雪は木々に囲まれた家の前に立っていた。草が生い茂る地面、その中心に建つ相当年季の入った家は、世間から切り離されているように見えた。
家に打ち付けられた木の立派な看板、そこに瞳を走らせ文字を読み取る。
「雨……秋? 店具道」
そこまで読んで、ようやく逆から読むことに気が付いた。『古道具店 秋雨』それはいつごろからやっているのだろう、きっとバブルや高度経済成長期どころか文明開化の頃から歴史の流れを見届け続けた看板なのだろう。
戸を開き、店の中へと踏み込んでゆく。那雪を出迎えるそれは怪し気な像や綺麗なガラスペン、使い古されたパイプにどこかの国では幸運のお守りとされている大きな豆。あまりにも怪しい店の雰囲気に気圧されそうになってしまっていた。
「いらっしゃい、ってアンタ一般人かい。よくこんなとこまでおいでなすったものだね」
レジのカウンターを隔てて向こう側、そこに座っていた女は癖のある金髪を暴れるがままにしている目つきの鋭い若い女。女は名を『五島 麻海』と名乗った。
「私は唐津 那雪と申します」
滅多に話さなくなってしまった那雪の言葉でも会話はできたようで安堵を胸に麻海と向かい合う。麻海は豪快に笑って声を店中に響かせた。
「アンタ、胸に当ててるその手の中にある栞、それはよくないね」
曰く、気配を最大限まで薄めるといったもの。栞を中心として火を灯してできた影に隠れるように気配を消す魔法がかかっているのだそうだ。
「誰からもらったのさ」
那雪はこれまでの人生、孤独のつらさや愛しい想い出の全てを語る。思い出して自身の中を回り続ける思い出たちはつつけば壊れてしまいそうなほどに儚くて色が薄れて古びていた。
「なるほど、今の代の〈東の魔女〉は炎が使えないことは分かっていたけども、栞の魔法は炎」
パイプを手にして煙を吐き出して。麻海は那雪にパイプを向けて言い放つ。
「原因はアンタ自身さ」
「私……ですか」
驚きに目を見開く那雪に対してどこまでも冷静に言葉を続ける。
「〈東の魔女〉の栞は確かに魔力がこもっていたかも分からないけども、それだけさ。アンタ自身が炎魔法の適正があったんだろう」
そこから麻海の目は鋭くて重たい圧をかけにかかる。
「アンタはイジメから逃げたい、そう思って願ってしまった。願いを聞き答えて今この状況さ。アタシに言わせれば自業自得でしかありゃしない」
初対面の大人の口から現れた言葉は那雪の胸を刺して痛めつけるような鋭さを持っていて、那雪は眉をひそめる。
「別に逃げることが悪いなんて言ってない、逃げるばかりじゃあ何も動かないってことさ」
麻海はパイプに口を当て、煙を吸って勢いよく噴き出した。
「アンタはそろそろ動き始めるべき時が来た、それだけのこと」
左手にパイプを持ったまま、右手に万年筆を持って宙に漂う煙を掻き寄せる。そうしてカウンターに置いてあるメモパッドに煙を文字として閉じ込め幾何学模様を描いてゆく。出来上がったそれはいったい何なのか、模様の中に書かれている文字は何を意味するのか、那雪には見当もつかない。
「さて、これさえあればアンタの魔法さ煙に撒くことできるってわけよ」
魔法陣、そうだと理解して紙を受け取った。一度のお辞儀に加えてありがとうございますのひと言を残して去ろうとしたその時、戸が開いた。戸を挟んだ向こうにいる少女は初めから那雪がいないものとして進み麻海に歩み寄る。ぶつからないように避けて、外へと足を踏み出した。
戸を閉めるべく振り返ったそこで、麻海の視線が那雪に向けられていることに気が付いた。少女は麻海に近寄ってなにやら不満そうに言葉を連ねていたが、それを聞くこともなく那雪は戸を閉めた。
あの魔女は似合わぬ優しい笑みを見せていた。
☆
空は墨色暗闇の色。那雪の髪は闇に溶けて姿すら隠す。
栞とメモ用紙を重ねて、愛しい人のことを想い続ける。
奈々美、あなたに会えたおかげで中学生の私は幸せでした
三年も会えなくて寂しいよ、今どこにいますか、幸せですか
奈々美は私のこと、どう思ってるの
声を聞かせて、言葉を聴かせて
嫌いだったらもう会わないけど、そうじゃなきゃいいなあ
奈々美の心を教えてよ
どうか、会わせてください
一緒にいたいだけ。想いは果たしてどこまで伸びてゆくのだろう。那雪はただただ奈々美のことを想い続けるだけ。
あの魔女は、目の前に現れた。
「奈々美!」
炎の小さな輪の向こう、そこに見える景色は夜闇の中、奈々美の美しい顔ははっきりと見えていた。
「お願い奈々美、もう一度私と」
奈々美の手を掴もう、那雪はその手を伸ばす。奈々美の顔は怯えで崩れていた。
「炎、どうして。いや、近付かないで」
「大丈夫だから」
そう言って奈々美の手を掴む。苦しみに顔を歪める奈々美を引っ張ろうと力を入れたその時、辺りに燃え盛る紅蓮の彼岸花が咲き始めた。炎の花は数を増やして彼岸の花畑を作り出す。奈々美は今にも命が引き裂かれてしまいそうな苦しみに悲鳴を上げる。
愛しい人の耐えがたい苦しみ、那雪は目を見開いて、訊ねずにはいられなかった。
「どうして……どうしてっ!」
声はひとつたりとも届くことなく、奈々美の腕から黒い煙が上り始める。
那雪の背後、暗闇の中から炎のローブを身に纏う死神が現れ大きな鎌を構えて感情を覗くことすら許さない平坦で不気味な笑い声をあげていた。奈々美を掴むその手に遅れてついて来るように炎の手が奈々美に迫る。
なにを間違えてるの、まるで私が死のお迎えをしているよう
奈々美の腕から上る煙が那雪の脳裏にあの魔女の言葉を訴えかける。あの時はなったあの言葉。
――アンタはイジメから逃げたい、そう思って願ってしまった。願いを聞き答えて今この状況さ。アタシに言わせれば自業自得でしかありゃしない
――別に逃げることが悪いなんて言ってない、逃げるばかりじゃあ何も動かないってことさ」
――アンタはそろそろ動き始めるべき時が来た、それだけのこと
「あ、ごめ……」
ようやく気が付いた過ち。奈々美に対する行いへの罪悪感が胸を抉るように棘を伸ばして刺してくる。那雪は動くべき、止まっていては何も始まらなくて。
那雪はその手を放して一歩、また一歩、奈々美に歩み寄り始めた。
炎の輪をくぐり、炎たちを置き去りにして。
――ありがとう、おかげで助かったよ
火によって照らし伸ばされていた自らの心の影に手を振りさよならを告げて。
――でも、このままじゃいられないからもう行くね
さよなら私の逃げ場所。そう心の中に告げて、那雪は心からの言葉を目の前の愛しい魔女に捧げた。
「ただいま、奈々美」
儚い顔で、枯れたような弱々しい声で、強い想いを込めて、愛を声に乗せて。
炎が収まり突然現れた愛する人の姿を目にして驚きを隠すこともできずに目を見開く奈々美を細い腕で抱きしめた。
「さっきはごめんなさい。腕、熱かったよね」
「平気よ、なゆきち」
奈々美の身体は柔らかくて暖かくて、身を寄せるだけで幸せな気持ちにさせてくれた。
那雪のか細い身体を包むように抱きしめて、奈々美は優しく微笑んだ。
「おかえり、寂しかったでしょう」
奈々美の微笑みは満足の感情で満天の空のような爽やかなものへと変わりゆく。
「私も寂しかった、また会えてうれしいわ」
そうしてこの夜のほんのひとかけら、ささやかな時間は街が寝静まっても空が床に就いても眠らないふたりの明るい色に染め上げられた。