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サイトウサチコはヘビである。
と書くとここまでこの小説を読んでいただいた諸氏は「ははぁなるほど、このサイトウサチコなる人物は徹頭徹尾ヘビであり、生物学的見地からまごうことなきヘビであり、実際に嘘偽りなくヘビなんだな」と考えるであろう。人語を喋るカエルが主人公の世界観ならこういったヘビが出てきても不思議ではないし、さらにナメクジが登場する可能性すらも視野にはいり、あるいは『カエルのために鐘は鳴る』というタイトルを思い出してノスタルジィに浸るかもしれない。
ところがサイトウサチコは正真正銘の人間であった。当たり前だ、人の言葉を話すヘビなんているはずないでしょ?
それでもサイトウサチコ、の姿を一目見ればなぜだかヘビを思い起こさないわけにはいかない不思議な雰囲気を持っていた。
黒目がちの真ん丸でくりっとした瞳、控えめな鼻、横から見たらすこーしだけ前方に長い顔の輪郭、小顔だけどそれにしては大きな口が笑顔を作っている。細身だけどメリハリの無い体つき。お辞儀をする動きが妙に滑らかで、なんというか「関節が多い?」みたいな印象を抱かせる。
それらが相まってサイトウサチコを初めて見た人は漏れなく「あ、ヘビだ」という感想を持つことになる。きっとその脳裏にはコーンスネークと呼ばれるペットとしても有名な種類の爬虫類が頭に浮かんでいるだろう。
ムラエダ氏はわけもわからず彼女を凝視している。視線を外そうにもどこかに逃げ出そうにも、体がピクリとも動かない。動けないのか動きたくないのか、見てしまうのか見ていたいのか、ムラエダ氏自身にもそれがわからない。なんにせよ彼女の姿をじぃと見つめ続けていなければならない義務感のようなものに駆られている。
「ムラちゃん、おーい」
急に肩を揺さぶられ、金縛りから解放されたムラエダ氏は乾いた眼球に舌を伸ばしてべろりと舐めた。
「ツジしゃん」
「なに?新入社員?なんて人?つってもムラちゃんが覚えてるわけ」
遅刻してきたツジがいかにも最初からここにいましたよ、という顔でムラエダ氏の後ろに立っていた。
「サイトウ」
「サイトウさん、っていうの?ふぅーん……」
ツジは驚く。人の名前を覚えるのにとてつもなく時間のかかるムラエダ氏が何の引っ掛かりもなく、しかも明瞭に新入社員の名前を答えたことに首をひねり、改めて前方に視線を戻す。
「おっよく見ると結構カワイイじゃん。まぁ俺はもっとこう乳のデカいほうが好みだけど」
ムラエダ氏は喉の奥で「ケロッ」と小さく鳴く。ツジが女性の乳房に関して話すのはいつものことで、その時に彼が口にするアルファベットが何を意味しているのか、ムラエダ氏にはとんとわからない。だから普段はツジが女性をどう評しようが気にすることは無かった。
しかしいまムラエダ氏はなんとも表現しがたいものがお腹にあるような気がしている。人間ならばこの正体不明の気分を正確に言い表せるのだろうかと考えるのだが、考えたところで自分の持ち合わせていないものはどうしようもない。強いて言うならお腹が空いているときに強いお酒を飲んで、氷砂糖をばりばりと噛み砕いたあとに真冬の深夜に外で寝転んでいるような心持ちだ。けれどもそれが一体全体なにを意味しているのがまったくわからない。
ムラエダ氏が戸惑っていようが仕事はそれと関係なく始まる。いつも通りにラインの最後尾で流れてくるバネとかネジから形のおかしいものを弾く、とはいってもこの工場の精度では1000本に1本あるかないかだ。だからこそ余計な考えが邪魔をして見逃してしまう人間より、ただ朴訥に監視を続けれるカエルの方がこの仕事には適性があるとも言えた。
「サイトウです、よろしくおねがいします」
唸る機械の音をかいくぐってその声が耳に届いた瞬間、ムラエダ氏は硬直する。工場の案内をされがてら挨拶に回ってきたサイトウサチコが、がしゃあんがしゃあんと派手に動く装置に少し怯えながら頭をさげる。
「えーと手前から、中村さんに高さん、加藤くんチャリーヒくん白石くん、木野さん辻くんそれに……ムラエダくん。彼のことは聞いてる?」
「あ、はい一応は……」
写真も見せられたし朝礼のときも一番後ろに立っているのは見えた、それでも「ウチの従業員にはカエルがいるから」という説明をそのまま受け入れられるほど、サイトウサチコは常識外れではない。かといって目の前に実物として存在しているものから目を背けるほど愚かでもなかった。
サイトウサチコはひとりひとりに挨拶をして回る。
(たぶんこのちょっと偉い人っぽい中村さん、大陸系の高さんはにこやかな笑顔を浮かべている、ボソボソと喋る加藤さん、東南アジアからきたチャリーヒさんはわざわざ手を止めて挨拶を返しそれを白石さんが困った顔で注意してる。木野さんはこのラインで一番若い女性だが、ずっと眉間に皺を寄せていて「きっと色んな苦労があるに違いない」と誰もが思うだろう。辻さんは良く言えば明るい、悪く言えばチャラい……とはいってもギャル男的ではなく「軽薄」と呼ぶのが一番近いだろうか。その軽さのおかげか嫌な感じはしない。それで……)
「よろしくおねがいします」
隣に立ったサイトウサチコから声をかけられたムラエダ氏は置物のように硬直する。目を見開いて口はぱかりと開き、小さく前へならえをしているように両手を体にぴったりと押し付けたまま直立した。
「ムラちゃん?おーい、ムラちゃんて」
ツジがムラエダ氏の脇腹を突くが、金縛りにあったままのムラエダ氏はピクリとも動かない。
「……いや普段はちゃんとしえるんスけどね、まぁ悪いヤツじゃないんでよろしくね」
ツジの困惑っぷりから本当に「悪いヤツじゃない」のだろうということが伝わってきて、サイトウサチコは思わず笑みをこぼしてしまう。
(こうやってフォローしてもらえるということは、きっとこのカエルさんは本当に良い人なのだろうな)
人間ではないけれどこうやって働いてるのはきっと大変なのだろう、それでもこうやって助けてくれる人がいる。この二人を見てサイトウサチコは初出勤の緊張がほぐれていくような心持になった。
事務に新人が来たからといって製造ラインの仕事がなにか変化するわけでもなく、いつも通りの工程がいつも通りの時間に終了する。ちょっと前だったら新人歓迎会にかこつけた飲み会が行われるのだが、昨今の事情もあり事務方の少人数で小さく食事会が開かれるだけである。
ムラエダ氏はツジと居酒屋にいた。普段はウイスキーか焼酎の水割りばかりなのだが、いまは珍しくハイボールなどを口に含み炭酸の刺激に目を白黒させている。
「キャバクラじゃないんえすあ」
仕事上がりにツジが「今日は普通に飲みにいこうぜ」と言われ、誘われるまま安居酒屋の暖簾をくぐった。ムラエダ氏はキャバクラが好きではあるが、ツジの提案に反対するほどではないし何となく普通の飲み屋に誘われるのは自分自身に食事を共にする価値があると言われてるようで、くすぐったい嬉しさがあった。
「んーおう、その、ムラちゃん今日ちょっと変だったじゃん?」
変温動物であるカエルに汗腺はない。けどもムラエダ氏は背中に冷や汗としか表現できない悪寒が走るのを感じた。何か仕事で失敗していまから怒られるのだな、という予感が走る。
「すいませんえす……」
「いやいやいや違くて!」
ツジがぶんぶんと手を振る。
「新人のサイトウちゃん?だっけ、挨拶来たとき固まってたっしょ?あれどしたの」
「わかんないえす。あんなおはじめてれ」
「ヘビっぽいから……とか?」
子供のころ祖母から聞いた「カエルはヘビに睨まれると動けなくなる」という話を記憶の底から引っ張り出したツジは、他人のことを「ヘビ」と称していいのか迷いながらそう言った。ムラエダ氏が人間に見えなくもないくらいには、サイトウサチコはヘビに見えなくもない。
「そうなんえすかえ?」
カエルの天敵がヘビだということをムラエダ氏は知識として知ってはいるが、それを実感として得たことは無い。小さなヘビなら幾度も、一度だけ片腕ぐらいはある大きなアオダイショウと遭遇したこともあるが、これといって恐怖を感じたこともなく、ましてや動けなくなる経験など皆無であった。
「それとも一目惚れ、とか?」
ツジは厭らしい笑みを口の端に浮かべながら、けれども反応を探るようにゆっくりと問いかけた。
「ひとめ?なんれす?それ?」
疑問文だけで構成された返事をしてムラエダ氏の胸は高鳴った。ひとつもわからないことがあるということは、新しいことが知れるということだ。少しワクワクしている自分を発見してムラエダ氏はぷうと頬を膨らませる。
「えーと、好きになった?ってこと」
「はあ」
偉く簡単に言い換えられてしまったのを残念に思いながらムラエダ氏は考える。
(すき、すき……)
好きは知っている、それは先生から教えてもらった。先生は好き、ゆで卵は好き、乾いた肌に浴びる水は好き、ツジは好き、お酒は好き、サイトウサチコは……。
「わからないえす」
よく知らないものを好きとは言えないだろう。ムラエダ氏はもごもごと長い舌を口の中で動かしてそう答えた。
「まぁそりゃそうか」
「でも」
「でも?」
サイトウサチコの姿を見るとなぜか全身が強張り、身動きがとれず、目が吸い寄せられたまま顔を背けることすらできないのは、特別だった。いままで出会ったどんな生き物とも違っていて、自分のなかにその不可解な行動を起こす「何か」があることを考えると、不安と高揚がいっぺんに襲ってくる。もしかするとこれには名前があるのかもしれないし、人間にとってはありふれた出来事なのかもしれない。だけど自分にはわからないのだ、とムラエダ氏は首をかしげる。
「いや……やっぱりわからないえす」
「ふうん……」
「でも」
「でも?」
ツジは目を細めてムラエダ氏の言葉を待つ。実のところツジはこのわずかな時間が好きである。ツジの友人たちは明るく活動的で騒がしいヤツばかりで、ツジ自身もそういった付き合いを好んでいた。それでも全部が全部そうだと時々嫌になってしまう。
ゆっくりと不明瞭な言葉で考え考え喋るムラエダ氏との会話は、新鮮で緩やかで、他の友人とでは決して賄えないものを埋めてくれるような気がしていた。もしかするともっと頭のいい人なら、こういう楽しさを持っているのかもしれないと考えることがあるが、なんというか「そこまではいらない」とも思う。だからツジにとってムラエダ氏は一番丁度いい相手で、代わりの効かない貴重な友人だった。
「わかりたいえすね……」
ふはっ、とツジは笑い声をもらす。
「へん、れすか?」
「いやいやそうじゃなくてな」
ムラエダ氏が自分から何かしたいと言うのを聞くのが、ツジにとって初めての経験である。誘えばついてくるけど、カエルである彼が楽しんで一緒にいるのかそれとも別の理由があるのかツジにはわからない。
だからこうやって自分の意志を表明したムラエダ氏に協力したいと思ったし、一方的に自分が楽しんでいるのかもしれないと感じていたツジにとっては非常に嬉しいことである。
(なんとかしてやろう)
グラスのハイボールを一気に飲み干しツジは決意する。それを真似したムラエダ氏は炭酸の泡で頬をぱんぱんに膨らませていた。
つづきます。