人でなし聖女は人の心を勉強中【後編】
『人でなし聖女は人の心を勉強中』の続きというかおまけになります。
(それにともない、タイトルに【前編・後編】とつけました)
もし前作を読んでいただける場合、作品の「小説情報」から前作をぜひお読みください。
(前作を読んでいることを前提に作ったため、多分この作品のみだと意味が分からないと思います)
「これで今週何度目の襲撃だ、ディアース」
「知らん。まあ、愛する者を取り戻したいのなら当然だろう」
聖女の屋敷に向かって叫ぶ民の声を聞きながら、ミスラッドは聖女ディアースの手当てをしている。
大概の怪我はディアース自ら治せてしまうが、それでも心配だから確認という形でそれを行っていた。
今までもディアースは民から恨まれて何度も襲われている。
今回襲ってきたのだって聖女の館から戻らない子供を取り返しにきた母親だ。
きっともう子供は、生きてはいないだろう。
大怪我や病が原因で聖女の館に運ばれるということは、基本的にそういうことだ。
ミスラッドが知る限りでも、生きて聖女の屋敷を出た患者はいない。
聖女はこの館に検体として運ばれてきた者を使って実験を行える特権を持っている。
そしてその特権は国が保証し、全ての国民に知らせられている。
だが、それでも納得できないものはごまんといた。
それがこういう事件に積み重なっているのだ。
「嫌だとは思わないのか」
目の下の隈、つやのない髪。
身に纏う白い聖女の衣装だけは豪華だが、それが逆に彼女の不健康さを際立たせた。
一応ミスラッドも毎日聖女の手入れはしているが、それでも間に合わないやつれ具合に心が痛む。
おそらく、これは幾度と受けたディアースへの仕打ちによるものだろう。
もちろん実験を昼夜関係なく行って無理をしているのも含まれていると思う。
ただ、それにしても廊下で倒れていたのを見たときは血の気が引いたが。
しかしそのような年頃の娘が受けてるべきではない行いを、ディアースは気にしない。
「もちろん、聖女なのだからな」
ディアースは、それを受けるのが当たり前だと考えている。
そして聖女を呪う声は今日も途切れない。
(そう思っていたのに)
そうではないとディアースが突きつけられたのはミスラッドが検体として運ばれてきた時の事だった。
どうやら度重なる襲撃にもかかわらずディアースを傷つけられないと踏んだ者が、標的を変えたらしい。
(まだ、息はある)
検体を載せる台に横たえられている彼の口元に手を当てると、湿った呼吸が当たる。
幸い、彼はまだ殺されてはいなかった。
だがここに運ばれてきた以上はもう彼も、今までの者達と同じ『検体』として扱わなければならない。
今までと同じように体を調べて、実験をして、それで。
それなのに。
(体が拒否していている)
いつもは効率よく動く腕が、今日は少しも動かない。
それどころか体は振るえ、立っていることすらおぼつかなくなる。
(自分だけ都合は通せないのに)
なんとか彼にいつもどおりの魔法を施そうとしても、何一つ体は自分のいうとことを聞いてくれない。
しかしディアースの感情は未発達ではあるが、決してないではない。
だから自身のその症状を診て、自身がどうして行動に移れないかに思い当たった。
(傷つけたくない、のか)
だがしかしそれは、今まで人体実験を行ってきたものとして許せるものではなかった。
もうディアースも数えてはいないが、相当な数の実験を彼女はこなしている。
つまり、彼女はそれほどの数の人間に手を掛けているのだ。
(けれど、聖女として検体を無駄にするわけにはいかない)
このまま立ち尽くしていても何も変わらないし、検体の状態だって変化していく。
幸いすぐにミスラッドが死ぬようなことはなさそうだが、彼を救う事は彼女には許されない。
そしてディアースの頭は、一つの答えを弾き出した。
(なら、自分が動けなくなればいいんじゃないか)
聖女が実験不能な状態になれば、実験できなくても問題はないだろう。
不足した頭で考えた、不完全な解答。
それでも二つの考えを両立できるから、ディアースは簡単に受け入れた。
「うっ」
聖女の衣装についていた飾りの中から鋭いものを選び取り、ディアースは自身の腹部に突き刺す。
他者からの攻撃を聖女の魔法は簡単に守るが、それは当然魔法陣を描けばの話である。
何からも守られていない腹から血を流したディアースは、それでも安心したように息を吐く。
だが今度は、漏れ出た小さな悲鳴でミスラッドが起きてしまった。
「ディ、ディアース!?」
「あぁ、起きたのか。良かった」
白い衣装を髪と揃わせたディアースを見て、ミスラッドは声を上ずらせる。
だが、ミスラッドが声をあげたのはそれが理由ではない。
治せる治せないに関わらず、細腕で負わせた傷は大したことない。
だが彼は、ディアースの瞳を見て察してしまったのだ。
彼女が恐れを抱いていることに。
(状況を見る限り、俺が引き金か)
ディアースは大なり小なり傷を負い慣れているし、その程度で感情を揺らしはしない。
だからこそ、原因が自分にあるという事は簡単に想像がついた。
しかも今、ミスラッドはいつも検体が乗せられている台に横たわっていた。
ということは恐らく自分が検体に選ばれ、それにディアースが動揺したということだろう。
何も説明はされないが、状況を見ればミスラッドもその程度の考察は行える。
しかし、問題は彼女だ。
今までは人らしい心を得ることを妨害してきたから彼女は罪悪感を抱かなかったし、自分含めて周りもそのようにしてきた。
鈍感さを造りあげ、彼女を守る壁としてきた。
それなのに。
(よりによって自分が人の心を呼び覚ますなんて)
今までなんだかんだと理由をつけて、守るふりをしていただけだった報いがまわってきたとしか言いようがない。
それも妨害していた自分にではなく、彼女に傷を負わせる形で。
考えうる限りでは最も悪い展開だ。
「もう国外に逃げよう、お前はがんばったよ」
もうこうなってしまえば、ミスラッドにできる事は亡命しかなくなる。
聖女も何も関係のない土地に、彼女をさらうしかない。
だが体にも心にも傷を負っているはずの聖女は、それでも逃げることを拒否する。
「それはできない、次の聖女が生まれてしまう」
その言葉に、ミスラッドの動きが止まる。
もちろんそのことはミスラッドも理解していた。
次の聖女が出てくるという事は、必然的にこの苦しみを享受するものが出てくるということ。
もしかしたら罪悪感を何も持たないものが聖女に選ばれるかもしれないが、それではそもそも聖女の条件に適合しない可能性がある。
感情がないわけではないが、薄い。
そのように造られたディアースのみが、なんとか聖女として職務を全うしているのが現状だ。
他の者が早々に役目をこなせるとは考えづらい。
「なら、聖女になりたい人間に譲るのはいかが?」
聞いたことのある、けれど聞き馴染みのない声が耳を打つ。
いつから入ってきたのか、二人は分からなかった。
もしかしたらかなり早い段階からいたのかもしれない。
「……ディザイア」
振り向くと、そこにはこの国の侯爵令嬢がいた。
聖女活動に出資している家の令嬢で、二人は幾度か彼女に出会っている。
匂い立つような巻き毛の美人で、派手なドレスを着ているのに下品にはならない。
だが、ミスラッドは不快感を隠せなかった。
「聖女は私がなってみせるわ。彼女がなくなればお前は私のものだしね」
ディザイアがミスラッドに近づいて、ディアースから引き離すように腰に手を回す。
実はミスラッドはディアースがいあにところでこの明け透けなアプローチを何度も受けていた。
もちろん、その度に断っていたが。
高位の娘との大事は避けたかったし、できればディアースに知られたくなかったから。
「ディザイアはミスラッドが好きなのか」
「そうよ、前に貴方の館に来た時に見てから恋をしたの」
ディザイアの様子を見たディアースが問うと、ディザイアは蠱惑的に笑って返事を返す。
どうやら挑発しているらしい。
残念なのはディアースがその挑発に乗れるほど、恐らく情緒が発達していないだろうということだが。
そして同時にミスラッドは気づく、恐らく自分を襲撃したのはこの女だと。
ミスラッドは聖女の従者であるため、最低限の護身術や魔法は使える。
それにミスラッドは襲撃された際に、聖女の館の中にいた。
この屋敷の中には、聖女が認めた人物しか出入りはできない。
聖女、従者である自分、そして保護をしている王族や聖女に出資している貴族と、それらに付き従う従者。
そして今日はその貴族の娘である彼女とその従者しか来訪はしていない。
ここ最近の民の襲撃で思い込んでいたが、彼女が従者か何かを使ってミスラッドを襲撃した可能性は高い。
もちろんそこまで分かっても、聖女の館に出資している貴族の娘に直接言う事はできないが。
「それは光栄。だが侯爵令嬢に誘惑される程、俺は魅力的はないはずですが」
ミスラッドはいつも通り、そっとディザイアの腕を片腕で外してお帰り願おうとする。
けれどディザイアは聖女の館に乗り込んできただけあって、いつもより覚悟が決まっているらしい。
普段ならそこそこで帰っていく彼女だが、今日は踏み入って食い下がる。
「勘違いしないで、別に顔に惹かれた訳じゃないわ。お前の奉仕精神と執着心、それに恋をしたの」
豊満な体を感じさせるように、ディザイアはミスラッドに体を擦り付ける。
すると、強烈な甘い香りがミスラッドの鼻腔をついた。
恐らく性的に興奮させる効果があるのだろう、頭に血が上って冷静さが失われていくのが分かる。
「私のものにお成り、悪いようにはしないから」
畳み掛けるように、ディザイアが口説く。
あの香りは彼女を引き立たせるためにつけられたのだろう。
普通の男なら、色気を理解した彼女に陥落していたかもしれない。
だが、残念ながらミスラッドには逆効果だ。
「お断りだ。最悪、ディアースを殺して俺も死ぬ」
確かにミスラッドは興奮した。
だがそれは性的なものではなく、ディザイアに対する苛立ちの方面にだ。
おかげでいつもは出ない、彼の荒い部分が出てしまっている。
「あら意外、ディアースは逃がすかと思っていたのに」
ミスラッドの言葉を聞いたディザイアが、思わずといったように腰から手を離す。
彼女が言うとおり、本当ならディアースだけでも逃がすべきなのだろう。
幸いディアースは力のある聖女だ、求めれば利用されるとしても保護は得られるだろう。
けれど、そうさせないのは。
「自分以外に世話されてるのは許せないんだ」
そう、ディザイアが先ほど口にした執着心が原因。
他人に世話されるくらいなら、ディアースには誰にも救われないで野たれ死んで欲しいくらいなのだ。
そして、そうでないならなら自分が殺してやると考えるくらいに。
従者にあるまじき自分勝手な考えだが、あいにく誰に許されたい訳でもない。
そもそもディアースには殺すと考えている時点で、許しを請うのは間違っているだろう。
一度ぼろが出てくると、際限なしに隠していたものが出てくる。
せめて、ディアースの前ではただ甘いだけの男として振舞いたかったのに。
だが、一通りミスラッドの言葉を聞いたディザイアは嬉しそうに声をあげた。
「そう、その思想! 私もそれに愛されたいの!」
捜していた宝物を見つけた少女のように、ディザイアは再び手を伸ばす。
けれど、苛立ちすらも抑えられなくなってきたミスラッドはディザイアの手を乱暴に振り払った。
「すまないが帰ってくれ、俺は彼女についているんだ」
原点にして最大の理由。
きっかけはともかく、現在ミスラッドは『ディアース』についているのだ。
これは彼女が聖女の役職から離れても、彼女についていくという意思表示でもある。
だが、その程度の理由でディザイアは諦めはしない。
「私を拒絶するの? まあいいわ、それなら一度死んで。死んだら私が蘇生してあげる。受け継いだ聖女の力ならそれくらいできるでしょ」
「断罪魔法……!」
ディザイアの前に現れた魔法陣が目に入った瞬間、ミスラッドはうめき声をあげる。
ディザイアが描いたのは、聖女の魔法の亜種である断罪魔法。
地位の高いものが、下位の人間に行使できる魔法だ。
罪があると認められたものが、首を刈られる魔法。
「確かに一度死んだら記憶はなくなってしまうかもね。けれど貴方の持つそれが簡単に消えるとは思わないわ」
くすくすと侯爵令嬢は笑う。
化粧に彩られたそれは、もう勝利の色に染まっていた。
「一度死んで、それから私を愛してちょうだい」
目の前にいるのは、恋する女であっても侯爵令嬢。
最低限の教育は受けているのだろう、生半可ではない魔力がそう伝えている。
まだ魔法が完全に起動したわけでもないのに、逃げ出したくなるような殺意が魔法陣に秘められているのが分かった。
けれど、逃げるわけにはいかない。
輝きを増す魔法陣を前に、ミスラッドは盾になるようにディアースを抱き竦める。
だがきっとダメだろう、肉壁程度でどうにかなる魔法でない事は本能が理解している。
けれど、もう大して動けない自分にはそれくらいしかできることはない。
「ディアース、悪いが一緒に死んでくれ」
ミスラッドはこういう形でこの言葉を言うことになるとは思っていなかった。
どちらかといえば無理心中のような形で、自分が彼女を殺す時に言うのだと思っていた。
けれどそれでも彼女は彼を罵倒しないだろう、それほどの感情を彼女は持ち合わせていないだろうから。
だから、そう考えていたミスラッドはディアースの言葉に反応が遅れてしまった。
「嫌だ」
「な、」
ディアースはミスラッドの腕を振りほどいて前に出る。
いつもだったら男であるミスラッドに叶うはずもないが、今回は虚をつかれてしまった。
「彼を庇って死ぬのね、いい子」
「やめろ! ……っうぐ」
再びミスラッドが前に出たディアースの盾になろうとするが、足を縺れさせてそのまま倒れる。
目が覚めてから展開が目まぐるしく変わっていたせいで忘れていたが、ミスラッドは検体として持ち込まれるほどの怪我を負っていた。
「ディアース!」
「貴女が死んだら、私が聖女を受け継ぐわ! そして彼の主になるのよ!」
武器も持たず、死が口を開けているような魔法陣の前にディアースは立つ。
そしていよいよ刃物を形取った魔力が、聖女目掛けて襲い掛かった。
――だが命を刈り取る魔力を浴びてなお、ディアースはそこに立っている。
「……どうして効いていないのかしら」
不思議そうに、ディザイアは問う。
これは単純に疑問なのだろう、ミスラッドだってそうだ。
絶対に殺されると思っていた。
だが盾になったはずのディアースは、何もなかったかのように自分の足で立っている。
「誰も殺していないからだな」
「殺していない? お前が?」
当然のことだと答えるディアースに、ディザイアよりも先にミスラッドが聞き返してしまった。
彼女が人体実験を行っていたのは間違いのない事実だ。
実際に彼女がそれを行っているのを、ミスラッド自身が何度も見ている。
(けれど、言われてみればそうだ。俺が思い込んでいただけだ)
ミスラッドは実験の後に死体を廃棄したことがない。
てっきり他の者にやらせているのかと考えていたが、それでも従者として不規則に聖女の館を訪れるミスラッドに全てを隠すのは難しいはずだ。
だが、
「それでも検体が死ぬような実験もたくさん含まれていたはずだわ」
そう、ディアースが行っていた実験には『検体が死んで当然』のものがいくつも含まれる。
それは今まで数多の人間に知られながらも、その犠牲を払うことを良しとしなかったせいで行われなかったものだ。
ミスラッドだって根拠なくディアーズが人を殺すような実験をしていると考えていたわけではない。
そしてそれは目の前のディザイアも同じだ。
だがディアースは二人の反応に不服だと眉をしかめる。
「殺さない方法を学んだんだ、聖女を舐めるな」
普段から鋭い目が、今まで見たことがない程に険しくなる。
そしてミスラッドは、目の隈の真実に気がついた。
ミスラッドは廊下で行き倒れるほどのストレスをディアースが受けていると考えていたが、それは大いなる研鑽の結果だったのだ。
(俺は自分が思っていた以上に、彼女を甘く見ていたんだな)
目の前の少女のあり方を見て、今まで自分は彼女を無意識に舐めていたのだと突きつけられる。
能力だけではない、これが聖女という生き物なのだと。
彼女が選ばれた理由を叩きつけられる。
「ところでお前は聖女になりたいのだったな」
真っ赤な瞳が侯爵令嬢を捉え、今度はディアースの前に魔法陣が現れる。
婚約破棄騒動にも使用された、聖女謹製の拘束魔法。
それは瞬く間に侯爵令嬢の動きを止める
だが、前回と違ってディザイアは全ての動きを止められたわけではなかった。
それに今回はそれだけではない。
「あら、光魔法? けれど残念ね、私は闇の眷属ではなくてよ」
ディアースが描く魔法陣を見て、拘束されたディザイアが笑う。
その拘束の魔法陣を縁取るように、更に魔法陣が書き足されていく。
そしてその魔法陣に、ミスラッドは見覚えがあった。
(ディアースの聖女選別の時に見たものか)
聖女の光魔法は、回復だけが能ではない。
邪なる者を打ち砕くと同時に、この魔法そのものが聖女選別の儀式でもあるのだ。
そう考えているうちに魔法陣は天井に向かって浮かび上がる。
すると、その陣は太陽が肌を焼くような魔力を放ち出した。
「お前は聖女の力を他者の為に使うか? 恨まれ、己の身を滅ぼしても」
「……やめなさい!」
自身が聖女選別に耐えられないと気づいたのだろう、ディザイアはこの場から逃げ出そうとする。
だが、もう遅い。
「お前に聖女は継がせない。私が、私だけがこの国最後の聖女だ」
恵みの雨が降るように、室内に白い光が弾けて洗礼魔法が降ってくる。
そしてそれは、侯爵令嬢の破滅の始まりでもあった。
「いやっ、だめっ、やめなさい! 今すぐやめなさい!」
視線を向けられただけで正気が揺れるような美貌が、悲鳴と共に剥がれ落ちていく。
それを見ていたミスラッドはもしかしたらあの美貌こそが、人の命を啜って得たものなのかもしれないと気づいた。
現にミスラッドも洗礼の雨が降りかかり、僅かに痛む。
この小さな痛みは、恐らく先ほど彼女を殺そうとした罰だろう。
しかし侯爵令嬢は悲鳴を上げ、目に見えるほどの苦痛を受けている。
だが人をたくさん殺してきたと考えられていたディアースは、少しも痛みを受けてはいないようだ。
(しかし、不思議だな)
事態が一段落し、気が緩んでしまったミスラッドは聖女と侯爵令嬢を見比べる。
現在のディアースとディザイアはどちらもぼろぼろだ。
髪は傷んで乱れ、瞳も穏やかで美しいとは到底言えない。
なのにディアースの美しさは損なわれなかった。
彼女は、無理をしたせいで更に白い衣装を自身の血で染めていたのに。
だが、それを見てミスラッドは思い至る。
(彼女の赤は他人の血ではなく、全て自分の血だったのか)
もちろん彼女の髪も瞳も、血で染め上げられたわけでない。
けれど悩みながら前を向き、傷つきながらも彼女が美しいと感じる理由はそれが一番腑に落ちるものだった。
「結局お前は聖女をやめないんだな」
「言っただろう、次の聖女を生ませない。私が最後の聖女になると」
そういって聖女ディアースは笑う。
あの事件からしばらくして、未だ学ぶことをやめない彼女は少しづつ笑うことが増えてきた。
それに笑うタイミングも間違えなくなってきた。
前までは不要なタイミングで不意に笑っては、おぞましいと思われていたのだ。
(どうやら婚約破棄の際もいらぬタイミングで笑って恐慌を起こしたようだし)
それを考えると随分な進化である。
そう考えながらディアースの隣に立つミスラッドもまた、今までとあり方を大きく変えていた。
理由はこれからの聖女活動のため。
今まで聖女の事は自分のみが分かっていればいいと考えていたが、それでは彼女の理解者は増えない。
というか、ミスラッド自身もディアースのことを勘違いしていたのだ。
ほとんど聖女と接しない民が彼女のことを分かるはずもない。
だからこそ人は彼女を化け物扱いするし、襲いかかる。
(けれどこれから彼女の活動を分かりやすくしていけば、協力する人も増えるだろう)
今日、彼女を知ってもらう第一歩として囚われていた人を一度解放した。
ちなみに検体が聖女の館に運ばれて来る時は、基本的に大きな傷を負っているがそれらは全て治療されて戻されている。
ディアースが彼らを帰さなかったのは研究を行うと同時に、怪我や病の状態を解析して治していたのだ。
決して傷つけず、まして命を落とすことなどないように。
そして今回の検体の解放で、婚約破棄騒動の二人と子供も元の場所に帰すことになった。
後からディアースに聞いた話になるが、地方の流行り病の対策で子供に関するものが不足していたために彼らで研究を行おうとしていたらしい。
言葉不足ではあったが彼らにも最低限の調査しかしておらず、やはり不要な傷などはつけられていなかった。
こちらは精神に多少の傷は負ったようだが。
ちなみに今回の侯爵令嬢は、検体にもされず自宅に送還された。
さすがに支援者の娘に手を出す事は、ミスラッドがやめさせた。
ただ、彼女の実家に今回の騒動の苦言を伝えたので、もうこの館に来る事はないだろう。
(ディアースは聖女らしからぬ容貌と表情だが、中身は紛れもない聖女だ)
それが今まで知られていなかったのはミスラッドの私欲による職務怠慢でもある。
だが、実は国の潔癖具合もそれを加速させていた。
この国の魔法での治療の水準は、決して低くはない。
だが、それでもやり方が限定的過ぎて既に頭打ちの状態だったのだ。
昔からこの国で人体を調べる事は、禁忌として扱われてきた。
理由としては人は神が造ったものであり、それは神の領域であると信じられていたから。
だから多少の怪我や病気は光魔法で雑に治せても、それ以上の流行り病などになってしまうと対処しようがなかった。
やはり今以上の魔法での治療を願うなら、魔法での人体実験は避けられなかったのだ。
けれどこの国の人々は信心深い、といえば良く聞こえるだろうが実際は神の罰を喰らうのが怖かったのだろう。
どうすれば自分が呪われず、人体を開くことができるのか。
(そう考えられた結果、生贄となったのが聖女という役職だった)
そしてそれからだ、時を同じくして聖女に選ばれたディアースが人体実験を行うようになったのは。
実は聖女魔法というものは昔から流行り病などを消し去ることはできていた。
だが、人間の体の方がそれに耐え切れないことの方が問題だったのだ。
それこそ流行り病を消すには、その地方一帯の人間ごと聖女魔法で蒸発させるしかない。
実際に過去、流行り病が食い止められない時はそうしていたらしい。
もちろん歴代の聖女は心を壊し、そのたびに代替わりが起こっていた。
――けれど、もうそんなことをしなくてもいいように。
どの魔法をどの程度の力で、どの箇所に当てれば効果的なのか。
そういったものを、聖女に就任したディアースはずっと自分の身も心も削って調べてきたのだ。
壊されていく心の中で、それでもなお犠牲が自身だけで良い様に。
学んで、学んで、学び続けて。
だが結局それらが巡り巡って、彼女を虐げてきた。
ディアース本人すら、自身を虐げてきたのだ。
この真実を聖女に関わる様々な人と会話してミスラッドはようやく手に入れた訳だが、知ってしまうとあまりにどうしようもない。
少なくとも、やはり人の人生を台無しにする前にもっとやりようがあっただろうと自分を含めて思ってしまう。
もちろん同じ轍を踏まないために、これからミスラッドはがんばっていくわけだが。
「そういえばなんで俺を検体にすることをあれだけ嫌がったんだ? 殺していないなら、怖がる必要はなかっただろう」
そう、これはあの騒動からしばらくしてからミスラッドが気づいたことだ。
ミスラッドは検体として運ばれてから目が覚めたときに、自身を殺さなくてはいけないからディアースが動揺していると考えていたのだ。
けれど、実際には違った。
だからこそミスラッドには余計に分からない。
するとディアースは、気まずそうにミスラッドから視線を逸らした。
「それでもお前に手を下すのは嫌だったんだ。自分だけ、そんな事許されないのに」
お前の実力でそれはないだろう。
けれどディアースにそう言われて、またミスラッドはふと気づく。
共に死んでくれ、と叫んで拒否された理由。
この考えがうぬぼれでないのなら、それは。
「なあ、『一緒に死んでくれ』って言ったときに拒否したのって」
「お前を殺したくなかったからだが」
弱々しく投げられた質問に、今度は間髪入れずに答えが返ってくる。
いっそ力強さすら感じさせるそれに、ミスラッドは思わずまた質問を投げ返してしまった。
「あれ、もしかして俺すごい好かれてる?」
「もちろん、あれだけ大切にしてくれて好きにならないはずがないだろう」
赤い瞳が、今度はまっすぐミスラッドの目を見据えて答える。
未だに血の色には見えるそれが、なんだか今日は輝いて見えた。
「……そっか」
「どうしたミスラッド」
それを見たミスラッドは思わず膝から崩れ落ちる。
隠されない好意の衝撃が思った以上に凄かったのだ。
あの一件後、侯爵令嬢から感情の出し方を学んだのか彼女は自分の感情を少しづつ自分の前に出すようになった。
もちろん今まで彼女に感情を持たせないようにしていた連中にはそんなことしていない。
なんにせよ、今の段階ではミスラッドの独り占めだ。
「けどいいのか。俺、お前を殺そうとしたんだけど」
「下手に置いていかれても困るから判断は間違っていなかったぞ」
考え込むそぶりもなく、ディアースは言い切る。
ミスラッドも自分がいなければディアースがどうにもならなくなるようにしてきた自覚はかなりあった。
だが長年それを受けてきたディアースも重度のそれに同じく毒されていたようだ。
しかもこちらはミスラッドと違って毒を飲み干す気でいる。
「だから、これからも一緒にいてくれ。それで人としての幸せを教えて欲しい」
一人では限界があるからな。
そういってディアースははじめて、ミスラッドの手に触れる。
今までディアースは自身からミスラッドに触れたことがなかった。
それは血に塗れていると噂の自分が触れて、嫌がられることが怖がったから。
もちろん、今までのことから彼がそんなことはしないと信用はしている。
が、それでも怖かったのだ。
想像するだけで耐えられないくらいに。
けれど、もうそれも今日で終わりだ。
「……俺で良ければ」
「お前がいいんだ」
ミスラッドは触れられた手を壊れないように、けれどしっかりと握り返す。
そして翳りのない好意を受け取って少しだけ気が大きくなったミスラッドは、そのまま彼女の手を引いて抱きしめてやろうかと画策した。
――だが、彼はできなかった。
握手のように握られた手と同様に、心臓まで掴まれたような感覚に陥ってしまったから。
これは今までにない感覚だ。
今までミスラッドは、一人で考えて一人で完結していたから。
けれど今は違う。ディアースが答えて、返してくれる。
でも、今度は自分の心が分からなくなってきた。
(自分がディアースに恋してることなんて、理解しきってると思ってたのに)
どくどくと波打つ心臓。
それに自分の心を理解をしていたなんて飛んだ思いあがりだと突き付けられる。
触れた指先から感情が乱されていく。
(人の心を勉強しなきゃいけないのは、俺の方かもな)
ここに来て、自分も勉強不足であることを理解する。
けれど構わない。
それはこれから彼女と共に行っていけばいいだろう。
お読みいただきありがとうございました。
評価や感想など、いただけましたら幸いです。
2020/08/22 色々加筆したり修正したりしました。本筋は変わってないです。
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以下、おまけのざっくりした説明。
ディザイア
desire(欲望)がそのまま名前になった。
色気にかなりの力を入れている人で、
ミスラッドの闇の部分を気に入った奇人。
侯爵令嬢なので、前回出ていた伯爵令息アフェアルより爵位は上。