余り語られない撮影所のあれこれ(88) 監督列伝vol.5 特撮作品の監督その5 「小笠原猛」
★監督列伝vol.5 特撮作品の監督その5
「小笠原猛」
●監督列伝
実は、ご存命の監督ばかりを取り上げてきた監督列伝において、初めてお亡くなりになった方のご紹介になります。
それも没後10年を迎える年に語ることになるとは思ってもいませんでした。
今回は、「メタルヒーローシリーズ」の基礎を作った「宇宙刑事シリーズ」の監督として有名を馳せた「小笠原猛」監督のことを語ってみたいと思います。
尚、例によって情報のほとんどが約30年前ですw
今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在しますwwその点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。
そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。
東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点を予めご理解ご了承下さい。
●基本データ
小笠原猛(本名)
1941年8月18日~2011年12月26日、享年70歳(ご存命ならば80歳)
東京都出身。
ハンチングハットに度入りの淡い色のサングラス。
スラックスにジャンバーというコーディネートは、いつの季節も変わらずのスタイルで、季節によってジャンバーの生地素材を変えられていた様に思います。
また、色もカーキやダークブラウン等の茶系色で纏められていた様な印象があります。
タバコも酒も嗜み、タバコを片手に豪快に笑っていました。
更に、ガニ股で歩く姿も印象的で、椅子に座る際も大股を開いて背を保たれかけるように座るといった「荒い」イメージがありました。
●思い入れのある監督
小笠原監督は、私にとっては思い入れのある監督です。
「宇宙刑事シリーズ」が好きだった私にとって、「小笠原猛」という名前は「小林義明」監督と並んで憧れの監督でした。
私が初めてサード助監督を務めた「機動刑事ジバン」の話数は、小西通雄監督の43話と44話の撮影の途中からでした。そして、45話と46話は岡本明久監督でした。
小西監督の名前も岡本監督の名前も、後に「メタルヒーローシリーズ」と呼ばれる作品群の監督として存じ上げていましたが、過去の作品の「小笠原猛」監督の放送回が好きだった私は、次の47話と48話の台本の監督名を見て「やっと小笠原猛監督にお会い出来る」と心の中ではしゃいだものでしたw
そして、向かえた小笠原監督との第一印象ですが……
それまでが、小西監督や岡本監督といった比較的大人しい監督とのお仕事が続きましたので、小笠原監督との出会いは「豪快な人」という印象でした。
●東映一筋
小笠原監督は、1962年に撮影所へ入った助監督時代からずっと東映テレビ・プロダクションの契約社員でした。
助監督時代が長く、助監督歴19年での初監督は、当時としても長かったと思われます。
映画業界では、生涯職業助監督といった方もいらっしゃるらしいですが、テレビ作品の撮影現場での助監督20年近くは長いですねぇ。
10年前後までには何某かの作品の監督を担当するモノなのです。
想像ですが、チーフ助監督時代の段取りや差配が優秀過ぎて、次のチーフ助監督がなかなか育たなかったのかもしれません。
もしくは、あえて監督への昇格を断っていた可能性もあります。
助監督の仕事が楽しかったのか、監督業への不安か。
今となっては確認のしようもありませんが……
〇助監督時代
ザ・ボディガード(1974年)
特別機動捜査隊(1961~77年)
忍者キャプター(1976年)
快傑ズバット(1977年)
特捜最前線(1977~87年)
鉄道公安官(1979年)
〇監督時代
それゆけ!レッドビッキーズ(1980年)初監督作品(1981年)
宇宙刑事ギャバン(1982年)
宇宙刑事シャリバン(1983年)
宇宙刑事シャイダー(1984年)
星雲仮面マシンマン(1984年)初メイン監督
兄弟拳バイクロッサー(1985年)
巨獣特捜ジャスピオン(1985年)
時空戦士スピルバン(1986年)
超人機メタルダー(1987年)
仮面ライダーBLACK(1987年)
仮面ライダーBLACK RX(1988年)
機動刑事ジバン(1989年)
特警ウインスペクター(1990年)
特救指令ソルブレイン(1991年)
恐竜戦隊ジュウレンジャー(1992年)
五星戦隊ダイレンジャー(1993年)
忍者戦隊カクレンジャー(1994年)
超力戦隊オーレンジャー(1995年)
監督としては子供向け番組が殆どで、それも「メタルヒーローシリーズ」「仮面ライダーシリーズ」「スーパー戦隊シリーズ」といった東映テレビプロの特撮作品の主だったシリーズの監督として名を馳せました。
言い換えれば、吉川進プロデューサーの作品と言っても良いかと思います。
●「短気」「口が悪い」「豪快」
豪快に笑い、明け透けに話し、怖いイメージが先行する小笠原監督は、若手のキャストからは敬遠されがちでした。
しかし、撮影が終わってプライベートになると、酒が大好きで自分より下の者達が大好きで、飲める口のキャストは良く誘われていた様です。
でも、不思議とスタッフが誘われるというよりはキャストが誘われていた様で、キャスト達との小笠原監督なりのコミュニケーションだったのかもしれません。
撮影現場でも「口が悪い」「怖い」イメージもありましたが、豪快に笑い、ガニ股で歩きキャストには親しげに肩を抱いて話しをするといった明るさの方が目立っていましたから、「人好き」なのか「生来のキャラクター」なのか「作られたキャラクター」なのかも分からない程に「豪快」でした。
特に「短気」なことと「口が悪い」こととでは有名でした。
「口が悪い」ことで定評wのある「石田秀範監督」でも、「口が悪い」なぁと思われるのは撮影中ぐらいであり、普段は比較的冗談の多い監督です。
そして、「短気」だと言われる「東條昭平監督」でも、「短気」なのは撮影中ぐらいでした。
それに対して小笠原監督は、普段から「短気」で普段から「口が悪い」という、良く言えば「表裏のない性格」でしたw
「うるせいっ!」は、小笠原監督のモノマネをするという奇特な方が居るのであれば必須のセリフですw
しかし、その「短気」も尾を引きませんでしたし、「口の悪さ」も半分笑いながらという冗談混じりの言葉でした。
つまり「陰湿さ」がカケラもありませんでした。あくまでも「明るい」モノでした。
それは、自分の「短気」と「口の悪さ」を理解した上で、どうにもならないモノだと受け止めて、向かい合った結果から導き出した周りと自分との打開策だったのかもしれません。
そういった意味でも、自分の主張は素直に口から吐き出しながらも「根は優しい」「気遣いの人」だったのだと私は思っています。
●仕事に真面目
そんな小笠原監督は、上からの通達には素直で、無理な事でもこなしてしまう様な処がありました。
吉川プロデューサーからの相談を受けて、他の監督が大幅に延ばしてしまったスケジュールの調整の為に、通常よりかなり短いスケジュールで通常分の作品を作り上げるという難題も、こなしてしまうのです。
多分、当時の監督達の中でも撮影スケジュールの調整を引き受け、またこなしてしまう監督は小笠原監督ぐらいではなかったのかと思います。
そういった処は、助監督歴が長い事で身に付いた渡世術であり、また段取りの妙であったのかもしれません。
この様な事からしても小笠原監督の根底には、撮影所のスタッフで多い職人気質のスタッフの様に自分のアイデンティティを内で主張しながらも、時にはそれを抑え込み、会社の為に真面目に仕事をこなして行くといったサラリーマン的な部分があったのかもと思いたくなります。
●新旧交代
吉川プロデューサーの定年退職に伴い、監督陣をはじめとした東映テレビプロのスタッフにも若手への交代を促すリストラ政策が取られた為に、50歳半ばで映像監督としての職から引退されます。
奇しくも現在の私の歳ですw
小笠原監督が引退された年齢と、現在の年齢が似通った東映特撮関連の現役監督を探すならば、ほぼ同じ歳の「竹本昇監督」、少し上の「田崎竜太監督」、少し下の「鈴村展弘監督」でしょうか。
いづれの監督の活躍を見ても、現在では勿体無い話です。
但し、このリストラ政策によって年配の監督陣がローテーションされていた部分へ、新しい空気が入って行くことになるので、一概には言えませんが……
●あとがき
小笠原監督に助監督とは何か?とか、監督とは?とか、演出論とかを教えて頂いたことはありません。
しかし、私達助監督の仕事が遅いと、叱りながらも自分がやってしまう様な人でもありましたから、「見て覚えろよ」という感覚だったのかもしれません。
そういった意味でも昔気質の「助監督経験の長過ぎた監督」なのかもしれません。
ですから、周りをよく見ていますし、コミュニケーションの大切さと撮影スケジュールの関連性を理解されていて、自然と良くなる方向へと実践されていたのだと思います。
演出作品的にも人物的にも所謂「名物監督」でした。
そんな小笠原監督の演出現場に立ちながらも、小笠原監督から学べることに目を向けられていなかったという事実に、私なりに「勿体無い」と今更ながらに後悔しきりです。




