余り語られない撮影所のあれこれ(42) 監督列伝vol.1 特撮作品の監督その1「東條昭平」
★監督列伝vol.1
特撮作品の監督その1
「東條昭平」
今回は、私が関われた監督を取り上げてみたいと思います。
第1回は誰をおいても「東條昭平監督」。
「石田秀範監督」は?と言われそうですが、石田さんが監督をやっている現場を私の現役中には経験していないので、後回しですww
尚、例によって情報のほとんどが30年前ですw
今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在しますwwその点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。
●基本データ
東條昭平(本名)
1939年12月5日生まれ、現在80歳。
福島県出身。
細身で長身。メガネと口髭が特徴的。
撮影中はキャップハットとタバコがトレードマークでした。
※タバコは撮影中でも咥えている程でした。今では健康増進法の影響で難しいでしょうねw
●特撮作品を股に掛ける
先ずは東條監督のプロフィールがわりに、監督として携わった特撮作品をあげてみます。
戦え!マイティジャック(1968年)
チビラくん (1970年)
帰ってきたウルトラマン(1971年)
ミラーマン(1971年)
ウルトラマンタロウ(1973年)
ジャンボーグA(1973年)
ウルトラマンレオ(1974年)
少年探偵団(1975年)
プロレスの星アステカイザー(1976年)
小さなスーパーマン ガンバロン(1977年)
恐竜大戦争アイゼンボーグ(1977年)
恐竜戦隊コセイドン(1978年)
メガロマン(1979年)
ウルトラマン80(1980年)
太陽戦隊サンバルカン(1981年)
大戦隊ゴーグルファイブ(1982年)
科学戦隊ダイナマン(1983年)
星雲仮面マシンマン(1984年)
兄弟拳バイクロッサー(1985年)
巨獣特捜ジャスピオン(1985年)
超新星フラッシュマン(1986年)
光戦隊マスクマン(1987年)
超獣戦隊ライブマン(1988年)
高速戦隊ターボレンジャー(1989年)
地球戦隊ファイブマン(1990年)
特警ウインスペクター(1990年)
鳥人戦隊ジェットマン(1991年)
恐竜戦隊ジュウレンジャー(1992年)
五星戦隊ダイレンジャー(1993年)
忍者戦隊カクレンジャー(1994年)
超力戦隊オーレンジャー(1995年)
ビーファイターカブト(1996年)
円谷プロで初監督をされたのを皮切りに、東映テレビプロではスーパー戦隊をメインにメタルヒーローシリーズの監督までを勤めあげられました。
私が助監督に成る前からお名前を知っていて、お会いしたことのある数少ない特撮番組の監督さんである満田かずほ監督の計らいで監督に成られたらしく、個人的には少し運命を感じていましたw
ウルトラマンシリーズ等の円谷作品は、基本的に本編と呼ばれるドラマ部分と特撮部分を別に撮影していました。
これは、特撮部分とドラマ部分が同時に撮影される場合が少ない怪獣モノだからこその仕様でした。
ですから、特撮部分とドラマ部分の監督は基本的に違いました。
ドラマ部分は監督ですが、特撮部分は特撮監督と呼ばれていました。
東條監督は、この本編撮影と特撮撮影の両方を助監督を皮切りに監督まで経験されました。
東映ではアクション部分とドラマ部分を同じ監督で撮影します。アクションの組み立てはアクション監督に任されますが、基本的な演出は監督になります。
そして、アクション部分には特撮撮影も多く含まれます。更に、スーパー戦隊等の巨大ロボットの戦闘シーン等にしても基本的には、本編(=ドラマ部分)の監督がアクション監督と協力して作り上げます。
そういう意味からも一般的な作品でドラマ部分だけを監督してきた方には、東映の特撮作品の演出は難しいということになります。
東條監督は、円谷作品で本編も特撮も監督をされたという土台があるからこそ、東映の特撮作品の監督であっても難なく演出できたのではないかと思います。
事実、円谷にいらっしゃった際にも東映の演出を参考にされようと研究されていたともおっしゃられていました。
●監督の顔と普段の顔
東條監督の演出に関わった役者さんやスタッフには、「怖い」という印象を持たれる方が多かったと思います。
特に新人には厳しい方でした。
監督という人物が全て怖い訳ではありませんが、往々にして良い作品を残される監督の演出家としての顔は「怖い」方が多いのも事実です。
東條監督の場合は、演出中の顔と演出を離れた普段の顔が大きく違うという印象を受ける方が多いと思います。
それは、演出に関して妥協が少なく、新人はおろか子役にまで厳しく演出されていたからであり、スタッフに対しても自分の演出プランを形に出来ないと厳しくされていた様に思います。
流石に東映に移られてからは、手をあげることも無く言葉だけでしたが、罵詈雑言でシゴクという今では問題が出てくるようなスタイルでした。
そして、感情が高ぶって来ると福島弁が強くなり、普段側に居るスタッフですらも言葉の内容が伝わらない場合がありましたw
言葉の内容が伝わらないと声が更に荒くなるという悪循環な状態になる場合すらありました。
東條監督とすれば、自分の演出プランを形に出来ないもどかしさの要因を役者やスタッフに対してぶつけているだけなのです。
但し、監督のその演出プランを理解できれば、言葉の内容に対して理不尽なモノは無く、府に落ちるモノばかりであったことも事実でした。
台詞や所作といった芝居的な部分は基より、日常的な動きや些細な言葉の抑揚や訛り等までにチェックが入る状態だったのです。
更に、自分の演出プランを妨げる要因を作ってしまっている故に厳しくする役者やスタッフに、上下の差もしがらみも何もありませんでした。
その反面、演出から離れると一気に映画好きの優しいおじさんという印象がありました。
些細なことに対しての質問にも真剣に答えて頂けましたし、また、熱心に向かってくる役者やスタッフには、面倒な顔のひとつも表さずに真摯に応えてくれました。
福島弁は変わりませんが、演出中から比べるとまだ理解可能な標準語寄りの軽いモノでしたw
●アクションシーンの編集の妙
東條監督の編集には定評がありました。
特にアクションシーンの編集にかけては、素晴らしいモノがありした。
元来、円谷作品と東映作品ではカットの長さという点が違っています。
円谷作品では、ゆったりとした長いカットが多く、従来のドラマ作品のカットを踏襲したかの様なモノが基本です。
これは、重厚感のあるリアルな演出を主軸としているからです。
これに対して東映は、短いカットの積み重ねによる作品づくりが基本です。
これは、テンポの良いスピーディーさを作り上げることができるアクションを中心とした作品づくりが基本だからです。
東條監督は、このテンポ良いスピーディーさを出す演出であったり編集が得意でした。
編集は、演出する者にとって苦渋の決断の連続です。
自分が納得して撮影したシーンを尺(=放送時間の長さ)の関係上カットせざるをえない決断や、スピーディーさを追求してのカットの決断を何回もするのが編集作業です。
しかし、良いシーンだからとそのままにすると、作品の流れとして間延びをしたり前後の繋がりから取り残されたりと弊害を生じさせてしまう場合が多いのです。
特に演出にこだわる監督には、現場で必要以上の長さやカットを撮影して、編集でどう組み立てるのかを考える方もいらっしゃいました。
撮影する芝居の長さ自体を変えてみたり、撮影方向や演出方法自体を変えてみたりと、編集でカットしてしまう部分の方が作品の長さの何倍にもなるという演出家もいらっしゃいました。
しかし、東條監督は最初から演出プランが綿密な為に撮影する長さやカット数も余り必要以上は撮影しませんでした。
だからこそ、編集は更に研ぎ澄まされたモノとなります。
1フレーム(=フィルムの1コマ)単位での取捨選択になるのです。
●弟子
東條監督は、1996年のメタルヒーローシリーズの演出を最後に演出業としての活躍はされていません。
そして、東條監督に明確な弟子もいらっしゃいません。
しかし、その演出力に裏打ちされた厳しいシゴキと普段の優しい顔を経験すると、キャストだろうがスタッフだろうが東條監督の弟子になったつもりになってしまいますw
私も師匠として側に居て演出を学ぶのならば、東條監督を置いて他にいないと思える程でした。
それは、東條監督が円谷から東映まで幅広く演出されて来た方だからとか、私の大好きな「怪獣使いと少年」の監督であったとかということは関係なく(=むしろ、当時は東條監督の過去の仕事の知識がありませんでしたww)純粋に現場で一緒に仕事をして「仕事の出来る人」でありながら「人の話を聞く耳を持っている」と感じたからに他なりませんでした。
この両方を兼ね備えている人は、そう多くはありません。
大抵は前者を得れば後者を置き去りにするからです。
例えそれが後者を実践した結果であったとしても、前者を得れば後者が見えなくなってしまいます。
そして、私はそんな「仕事の出来る人」でありながら「人の話を聞く耳を持っている」方々の側に居るのが好きでした。
演出家として素晴らしいと思える監督には厳しさもあります。
他を寄せ付けない雲の上の人としての存在感や威圧感がある方もいらっしゃいました。
仕事上は素晴らしいけれども人間としては側に居たくない方もいらっしゃいました。
そして、東條監督は雲の上から簡単に降りて来て頂ける方でした。
だからこそ、私は勝手に「心の師」と思っていたりするのです。




