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余り語られない撮影所のあれこれ  作者: 元東△映助
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余り語られない撮影所のあれこれ(186) 「ぼくのゲーム史」

余り語られない撮影所のあれこれ(186)

「ぼくのゲーム史」


●ゲームと撮影所

ゲームというくくりで言えば、トランプや花札などを始め麻雀などのギャンブル系の遊び=ゲームは撮影所の中でも盛んに遊ばれていました。

35年ほど前の撮影所内では、基本的に男のスタッフが多く、酒やタバコと痴話の他にギャンブルが話題の中心でした。

カードゲームとしてトランプや花札。ボードゲームとして麻雀。は当時の撮影所では基本でした。

ギャンブルとは違うところでは、囲碁や将棋が常備されているスタッフルームが多くありました。

そういった意味では携帯ゲーム機の普及はあったもののコンピュータゲーム系全般としてはまだまだ浸透しておらず、ゲームセンターで遊ぶか据え置き型のゲーム機で家で遊ぶかといった事が中心で、撮影所内でワイワイとコンピュータゲームで遊ぶとか、麻雀以外のボードゲームで遊ぶという状況は殆ど見受けられませんでした。

今回は、私の個人的なゲーム史をボードゲームとコンピュータゲームに絞って語ってみたいと思います。


尚、例によって情報のほとんどが約35年前です。

今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。

また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在します。

その点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。

そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。

東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。

その点を予めご理解ご了承下さい。


●高校時代以前(~1982)

ボードゲームとして、将棋や生き残りゲーム、野球盤、人生ゲームなどは遊んでいましたが、男兄弟の多い従兄の家や友達の家で遊ぶといった感覚で、私の家にあったのは折り曲げるタイプの簡易版の将棋とか数百円で購入できるポケットゲームぐらいのものでした。

コンピュータゲームとして早かったのは、ピンポンやテニスといった白い球を白い板状のドットで打ち返すゲームで、本体を家庭のテレビに繋いで遊ぶ据え置き型ゲームでした。

これは、1970年代後半の小学校高学年でクリスマスプレゼントにサンタクロースから頂きました。

後にアーケードゲームと呼称される「インベーダーゲーム」や「ブロック崩し」「ギャラクシアン」などのコンピューターゲームの洗礼も受けましたし、中学生ではあまり多くは遊べませんでしたが当時田舎にも出来始めたゲームセンターにも足を運んでいました。


コンピュータゲーム機はまだまだ白いドット画の画面でしたし、ゲームセンターや喫茶店などで遊ぶもので、家庭用ゲーム機は1983年を待たなくては爆発的にヒットはしていませんでした。

前途のとおり「ファミリーコンピュータ」の発売前に家庭用ゲーム機が発売はされていましたが、ゲームの種類は内臓式が殆どで、エポック社のようなカセット方式は稀でした。

勿論、サンタクロースより頂いた時代遅れになった「ピンポン」や「テニス」といったドット画を打ち返すだけの種類しかない我が家の家庭用ゲーム機は、1年と経たずに飽きられてしまっていました。


この時代、特筆すべきは「インベーダーゲーム」と「ゲーム&ウォッチ」の存在です。

「インベーダーゲーム」の中でも「スペースインベーダー」の存在は、コンピュータゲームを日本に定着させることに多大な功績を残しましたが、白いドット画にブラウン管画面に着色しただけの簡易カラー画面でした。

同じモノクロ画面でも液晶画面を用いた「ゲーム&ウォッチ」の存在は、コンピュータゲームを携帯することができることが画期的でした。

私は「ファイア」「マンホール」「オクトパス」と購入していました。

何か月かお小遣いを溜めてから購入するということが常となっていました。

中学校に「時計だから」と言って持って行っていて、後に学校全体で持ち込み禁止になったりもしていました。


この時代は、ある種「コンピュータゲームの黎明期」から「跳躍期」や「浸透期」といった時代でした。

パソコンもNECがPC6001やPC8001、PC8801といった機種を発表しましたが、プログラミング自体もBASICやC言語などを使用しなければならず、ゲーム機としての位置づけは難しいものでした。

しかし、私はピーガーとテープ音源の情報からカラーのガンダムのゲームを立ち上げるFM-7の雄姿を嬉々として眺めていた。

今となっては稚拙な絵のシミュレーション&シューティングゲームなのだが、アニメの中のキャラクターやモビルスーツのカラー絵が動きしゃべるという、シューティング中心のアーケードゲームとは違った面白みがありました。


●高校時代(1983~1985)

私の高校時代は、世間的にも自分のゲーム史的にもゲーム文化が大きく花咲いた時期でした。

パソコンはPC-8801が発売され、ゲーム機としても優秀であったことから多くのパソコンゲームが発売されると共に、パソコン通信をはじめとしたネットワークも浸透してきていた為に、現在のSNS程ではないにしても様々な情報が飛び交うこととなり、ゲーム攻略も情報戦も加速していくことになりました。


○コンピュータゲーム

 ・アーケードゲーム

この時代、何と言っても「ゼビウス」の存在は外せません。

対空と対地用の攻撃ボタンを持ち、シューティングゲームとしての完成度と隠れキャラクター等の攻略への追求度は、後の大ヒット作シューティングゲームの草分けと言っても過言ではありませんでした。

  後年の「グラディウス」、後の「ダライアス」ほどの複雑なグラフィックビジュアルは無いものの、同年代のシューティングゲームでは、他の追随を許さないほどのビジュアルのポリゴンも私がハマるには十分な仕様でした。


 ・パソコンゲーム

  私としては、光栄の「三国志」と「信長の野望」は外せません。

  当時は、地元玩具店で10分間100円でパソコンゲームがプレイ出来ていました。

  そのプレイを周りで眺めていてハマって行きましたが、スペックの高いパソコンは価格も高くなかなか購入も出来ず、ゲームも全てを堪能するという事は出来ていませんでした。

  しかし、少なくともこのパソコンゲームが、シミュレーションゲームに興味を持つきっかけであった事は否めません。


 ・家庭用ゲーム機

  高校時代に「ファミコン」は発売されていましたし、ゲームの種類もいくつかは知っていましたが、本体を購入するには至っていませんでした。


○ボードゲーム

 ・将棋、麻雀

  将棋は、今となっては「駒の動かし方を知っている程度」でした。

  ある種、ゲームの基本として既に小学生時代には覚えさせられていました。

  麻雀も同じで、伯父の家に行くと家庭麻雀を楽しんでいましたから「ちょっと座って牌を見ていてくれ」と、席を立つ伯父の家族の誰かの代わりにツモ切りしていました。

  その為に麻雀を覚えたと言っても過言ではありませんでした。


 ・シミュレーションゲーム

  前途した「三国志」や「信長の野望」等のパソコンゲームのシミュレーションゲームが、パソコン本体の購入することが困難であったことで、それよりも随分と低価格で購入できる紙製のゲームであったボードゲームのシミュレーションゲームの存在は、代替品以上の存在となりました。

そこには、自分なりのルールの追加や駒の追加ができたことや、当時既に懐かしい存在になっていたアニメや特撮をシミュレーションゲームにしたボードゲームが発売されたことがマイブームとなりました。

特にバンダイの 「if...シリーズ」のSF・アニメシリーズが、私のシミュレーションボードゲームの入門ゲームとなりました。

「ウルトラマン」「モスラ対ゴジラ」「機動戦士ガンダム」などを皮切りに、ツクダホビーの「ジャブロー戦記」「激戦!ア・バオア・クー」「ソロモン攻略戦」「ホワイトベース」といったガンダムシリーズのゲームや人気アニメ作品のシミュレーションゲームで多く遊ぶことになりました。

また、前途したように同じゲームの駒では物足りなくなった場合は、自作の駒を作ったり自作のフィールドを作って自作で拡張を繰り返していました。

勿論、エポック社の「三国志演義」や「戦国大名」も遊びましたし、アバロンヒル社の「タクティクスⅡ」を初めとした本格的なウォーゲームやシミュレーションゲームもプレイしました。

それも、同年代で一緒にプレイしてくれる仲間がいたからでした。


・TRPG(テーブルトークRPG)

偶然ではあるにせよ、前途のアニメのシミュレーションゲームを購入したつもりでプレイしていた内で、いくつかはTRPGの初歩を扱っているものでした。

しかし、この頃はまだTRPGよりもシミュレーションゲームにドハマりしていました。


●就職~大学時代(1986~1989)

○コンピュータゲーム

 ・アーケードゲーム

「ダライアス」「R-TYPE」「ハングオン」そして「テトリス」「コラムス」と、綺麗で大型化した画面によるシューティングゲーム、筐体自体に乗り込んで一体化するゲーム、やりこみ要素が深いパズルゲームとレパートリーが多く筐体が大型化した時期でもありました。

  その中でも大学時代には、大学の前を走る白川通を跨いだ所に「北白川バッティングセンター」という名前のバッティングセンターとビリヤード場とゲームセンターが一体化した巨大アミューズメントがありましたから、授業の合間や終わりに通い詰めていました。

  そのゲームセンターの奥に置いてあるATARI社のイス型筐体「スター・ウォーズ」に密かに夢中になっていました。

  余談ですが、ビリヤードもこのアミューズメントで覚えました。


 ・パソコンゲーム

  まだまだパソコン自体が高額でしたし、ウィンドウズ95の発売を待たなければプログラミング自体も大変でした。

  ですから、パソコンゲーム自体は様々なものが発売されていてタイトルも多くを知っていましたが、大学時代に友達の持っているパソコンで遊ぶぐらいでした。

  パソコン自体は大学にもありましたが、簡単なグラフィックを作成する程度でした。


 ・家庭用ゲーム機

  高校時代に発売されていた「ファミコン」でしたが、パソコンのデータ保存とかを知っていただけに、ファミコンのゲームとしての限界を感じていました。

  しかし、ファミコンの購入意欲に火を着けたのが「ドラクエ」の存在でした。

  「ドラクエ」のデータセーブの方法が衝撃で、「ふっかつのじゅもん」さえ控えておけば、ゲーム本体はおろかカセット本体が違っても自分がプレイしていたところで復活かできるということが、パソコンの知識を下敷きにしていた私にとっては不思議だったのです。

  この当時のパソコンゲームのデータセーブは、そのゲームソフト内にセーブするのが基本でした。

  ですから、友達の家でプレイした「ドラクエ」は、その本体かカセットが同じでなければ続きはプレイできないと思っていたのです。

  高校卒業後、半年だけ公務員に就職していた時のボーナスを使って、「ファミコン本体」と「ドラゴンクエスト(勿論『Ⅰ』)」の新品と「機動戦士Zガンダム ホットスクランブル」の中古を買ったのが、美術専門学校の夏期合宿講習に参加した時に立ち寄った大阪の高槻駅前の商店街でした。

  勿論、この後は「ファミコン」「スーパーファミコン」「ディスクシステム」「ツインファミコン」「PCエンジン」といった本体達と数多のカセットやソフトを大学のアルバイトで購入していきました。

  その家庭用ゲーム機のゲームタイトルの殆どは、RPGでした。

  シューティングゲームの方は、アーケードが中心であり、余り持っていませんでした。


○ボードゲーム

 シミュレーションゲームが楽しいと思っていた私は、大学時代にシミュレーションゲームを一緒にプレイしてくれる仲間を探していました。

 しかし、私の周りという名の世の中は、「D&D」に席巻されていました。


 ・TRPG(テーブルトークRPG)

  シミュレーションゲームの仲間をさがそうとしている最中、バイト中に知り合った同年代の(大学は違う)友人の誘いで「D&D」をプレイし始める事になり、これが意外にもどっぷりハマってしまう事になってしまいました。

  元来、家庭用ゲーム機でRPGは数多くプレイしていましたから、テーブルトークRPGの自由さに驚きを感じると共に「自分でゲームシナリオを作ることができる」という部分にも惹かれ、「攻略本のない自由なシナリオ」を多人数で協力してプレイするという状況にも魅力を感じてしまったのです。

  そのプレイの殆どが「D&D(現行の『クラッシック・ダンジョン&ドラゴンズ』)」の日本語版によるものでした。

  ハマってしまった事によって、「赤箱=ベーシック(日本語版)」「青箱=エキスパート(日本語版)」「緑箱=コンパニオン(日本語版)」「黒箱=マスター(英語版→日本語版)」「金箱=イモータル(英語版)」といったルールブックに加えて、モジュールと呼ばれる各レベルに合わせた「シナリオ集」を幾つかと、「アクセサリー」と呼ばれる様々な追加商品も沢山購入しました。

  NPC集「シェイディー・ドラゴン・イン」や「マスタースクリーンとⅡ」、マジックアイテムのデータ「マーベラスマジック」、モンスターのデータ集「モンスターマニュアル」をはじめ「ビギナーズガイド 」や「スペルカード」などといった物も嬉々として購入していました。

  この「D&D」の存在が、帰郷後も私の中に深く入り込む事になりました。


○ブックゲーム

 TRPGの舞台、特に中世ヨーロッパ風ファンタジー世界にハマってしまっていた私は、シナリオ造りの一助になればと様々な資料本を購入しました。

 勿論、多くの海外ファンタジーやファンタジー世界というジャンルが中世ヨーロッパ風だけだと思い込まされるかのように作られた日本のファンタジーアニメもA級と呼ばれる作品からC級やD級と揶揄される作品まで観倒しました。

 それと共に「ゲームブック」にも手を出していました。

 特に「暗黒城の魔術師」を第1巻とするJ・H・ブレナン著「グレイクエスト」シリーズ(日本では「ドラゴン・ファンタジーシリーズ」二見書房)は、その挿絵とウィットに飛んだ内容から、続巻が発売される度に購入していました。


●撮影所時代(1989~1993)

私が東映東京撮影所に居た1990年代の前後の頃は、携帯電話の普及は始まっていましたが、スマートフォンなどは影も形もない時代でした。


○コンピュータゲーム

 ・アーケードゲーム

  撮休の時に池袋に出かけたりした際には、良くゲームセンターで「アフターバーナー」をプレイしていましたが、プレイ待ちの人が居る為に、なかなか連続ではプレイできない状態でした。

  そこで、「雷電」や「パロディウス」「ツインビー」等にも夢中で課金していました。

  シューティングゲームは、家庭用ゲーム機よりもゲームセンターの方がキレイで大型画面のグラフィックと迫力の音響、そして操作のし易いジョイスティックとボタンというのが大好きでした。


 ・パソコンゲーム

  パソコン自体はまだ持っていませんでしたし、パソコンゲームを近場でプレイ出来る場所もありませんでした。

  しかし、ゲームタイトルだけは「ふ〜ん、そんなゲームが出たんだ」という感覚で見ていました。


 ・家庭用ゲーム

  流石に1989年発売の「ゲームボーイ」も1990年発売の「スーパーファミコン」「PCエンジンGT」も購入していましたが、悲しいことに仕事が忙しくてゲームをする時間が殆ど取れていませんでした。

  尚、自分で良くプレイしていたのは「ゲームボーイ」の「ウィザードリィ外伝」「スーパーロボット大戦」「ゲームボーイウィーズ」や「スーパーファミコン」のRPGタイトルでした。

  撮影所によく持って行っていたゲーム機は、「ゲームボーイ」と「PCエンジンGT」でした。

  「ゲームボーイ」は地方ロケにも持って行っていましたし、ロケバスの中でもプレイしていました。

そして、何を言ってもタイトルの種類が多いことが魅力でした。

  それに対して「PCエンジンGT」は、PCエンジンのソフトがそのまま使用可能というタイトル数とカラー液晶画面の綺麗さ、そして、何と言っても「携帯テレビ」という使用方法ができる強みがありました。

  良くスタッフルームで「PCエンジンGT」でテレビを見ていた思い出があります。

  まあ、電波がなかなかシビアで、アンテナを思いっきり立てても拾える局は少なかったと思います。


◯ボードゲーム

ボードゲームは大学から上京する際にも持参はしていましたが、一緒にする仲間が居ませんでした。

いや、仲間を募集すれば同じように好きな仲間は居たのかもしれませんが、シミュレーションゲームやテーブルトークRPGをする時間を取ることが出来ないという引け目がありましたから、もっぱらポータブルゲーム機でのソロプレイが基本でした。

それでもテーブルトークRPGの周辺グッズを揃えることはしていました。

バイクで荻窪まで走って行って大きなおもちゃ屋のボードゲームコーナーで様々なダイスを購入したり、メタルフィギュアを購入して色まで塗っていました。

たまに帰郷した際には、郷里の友人たちや帰郷途中に立ち寄る京都の旧友たちとシミュレーションゲームやテーブルトークRPGで遊んでいましたから、東京にしか売っていない最新のグッズを揃えて帰るという感覚でした。


尚、「大予言~復活の巨神~」では、私の所持していた「スーパーファミコン」に「仮面ライダーSD 出撃‼ライダーマシン」のソフトを入れてプレイする画像が使われました。

役者がテレビでゲームをしているという状況での使用でしたが、ゲームの内容に他社の版権が必要とするモノは使用できませんでしたから、東映が版権を持つタイトルを選ばなければならなかったのです。

SDキャラということで、役者の年齢設定的には子供っぽく感じるゲームタイトルになってしまいましたが、お坊ちゃまが精神的に大人になっていないという感じを出せたと現場では言われていました。


●帰郷後(1994~)

○コンピュータゲーム

 ・アーケードゲーム

  アーケードゲームの筐体が並ぶゲームセンターは勿論ですが、道に自動販売機コーナーがあると隅に小さなゲームセンターが付いている時代でもありました。

  「ストリートファイターⅡ」「バーチャロン」といったアクションゲームも大流行していましたから、ご多分に漏れずにプレイしていました。

  私は、基本的に大火力で押し込むタイプのキャラクターが好きでした。

  また、2000年ぐらいになると「カルドセプト」にもハマっていました。


 ・パソコンゲーム

「Windows95」の発売と共に自宅にもパソコンを購入しました。

  最初はデスクトップパソコンを購入していましたが、結婚を期にかみさんの実家にマスオさんをすることとなり、ノートパソコンに買い替えたりもしていました。

  そして、パソコンの購入と共にパソコンゲームも多く購入していました。

  特にパソコンゲームに興味を持ち始めた頃から好きであった光栄の「三国志」シリーズはマストで購入していました。

  また、「シムシティ」や「RPGツクール」シリーズなどの今までプレイした事のないジャンルのゲームにも手を出していました。


 ・家庭用ゲーム

  「セガサターン」「プレイステーション」「プレイステーション2」「PSP」「Wii」「WiiU」「ニンテンドーDS」「ニンテンドー3DS」「ニンテンドーSwitch」と、様々なハードを渡り歩き、「女神転生」「ドラクエ」シリーズ、「モンスターハンター」シリーズに加えて、パソコンでプレイしていた「RPGツクール」シリーズや「シムシティ」のソフトも家庭用ゲーム機の据え置き機や携帯ゲーム機で購入し直しました。

  特に「モンスターハンター」シリーズは、オープニング映像と音楽の相性が良く、アクションゲームが「ストⅡ」や「バーチャロン」といったアーケードゲーム以来にもかかわらず、恐る恐る手を出してどハマりしてしまった逸品です。


〇ボードゲーム

 ・将棋と麻雀

  将棋は、勤めていた塾の同僚に感化されて、定跡を覚え、駒もそこそこの物を購入し、将棋グッズとして定番使いの出来る棋士のサイン入り(勿論、印刷)扇子も購入していました。

  地域のアマチュア大会にも出場して、二回戦で敗退していました。

  因みに好きな定跡は「振り飛車」でした。


  麻雀は、下手の横好きでしたが、1人で小さな雀荘に通っていました。

  何がきっかけだったかは忘れましたが、週末になると徹夜で麻雀を打っていました。

  今は殆ど通っていませんが、「運」だけで打っていたと思います。

  因みに関西に近いので、三人麻雀(サンマー)でした。


 ・シミュレーションゲームとTRPG

  結婚して娘1号が産まれるまでは、郷里の友達達とシミュレーションゲームやTRPGをプレイしていました。

  最初はシミュレーションゲームが基本だったのですが、私が大学で知ったTRPGを流行らせて、それ以来、友人と会えば先ずは「D&D」でした。

  その後、友人達の間で様々なTRPGに手を出し、次第と「蓬莱学園」シリーズにハマって行きました。

  この事が、新たなゲーム「メイルゲーム」にハマる事になりました。


 ・PBM=プレイバイメール(メールゲーム)

  郵便を使い大多数で運営会社が用意したひとつのゲームをプレイして行くという「プレイバイメール」が、90年代を皮切りに密かなブームとなりました。

  プレイヤーは、運営会社に少し高めの参加料を支払い、運営会社から送られて来る新聞や自分達のプレイを小説風にした文章(リアクション)を読んで、次の展開を予想し自分のアクションを決定して運営会社へアクション内容を郵送する。

  そのプレイヤー達からのアクションを受けて、運営会社に所属するマスター達が、リアクションとして文章にして行き、プレイヤーに返信するのてます。

  というやり取りを1年間続けて、大きな物語を完成させていくというゲームなのです。

  物語の最終的な展開は、プレイヤーのアクション次第で変わる為に、運営会社側も最終着地点が予想出来ないというゲームでもありました。


  この「プレイバイメール」は「蓬莱学園」が日本の草分けとされていて、私達がプレイしていたTRPGの「蓬莱学園」シリーズは、その不思議な世界をボードゲーム化したモノだったのです。

  それを知った私と友達は、現在も「蓬莱学園」が「プレイバイメール」としてプレイされているのかを調べます。

  「蓬莱学園」は、丁度ショートプレイとして復活していました。

  そこから、同じ運営会社である「遊演体」の「プレイバイメール」や同業他社の「ホビーデータ」「コスモエンジニアリング」「M2」「エーアイスクウェア」等の「プレイバイメール」に諸処参加しました。

  

  この「プレイバイメール」は、情報の分析によるアクションが大切で、スマホのなかった時代ではパソコンによるパソコン通信による情報収集や、オフ会と呼ばれるプレイヤーの情報交換会にも参加しました。

  そして、隣県まで出かけ、交流と情報交換を何回もしていました。

  実は、この「プレイバイメール」が私達夫婦の出会いの場でもありました。

  最終的には、私も「遊演体」のマスターとしてリアクションを書きながら、他社のプレイをしてしまっていました。


〇スマホゲーム

スマートフォンの普及は、その小さな板の中で、手軽に何時でも何処でもちょっとした時間でゲームが出来るという空間を生み出しました。

ご多分に漏れず、私もスマホゲームにハマって行きました。

いやいや、スマホが登場する前のガラケーの時代から、何かしらのゲームを携帯でプレイしていました。

「黒猫クイズ」「神撃のバハムート」「モンスターストライク」「ドラクエウォーク」と渡り歩き、現在は「モンハンNOW」に夢中になっています。


●あとがき

今回のタイトル「ぼくのゲーム史」は、私が好きなドラマ「ノーコン・キッド〜ぼくらのゲーム史〜」からのリスペクトを込めたタイトルでした。

70年代から現在までゲームの洗礼を受けて来たかつての子供達は、多かれ少なかれこのドラマの中の少年少女達と同じ様なゲームタイトルと出会った事でしょう。


私も物心付いた時には、ボードゲームしかありませんでした。

少しづつ電子化が進み、簡単なゲームから一気にアーケードゲームへと進み、そこから家庭用ゲームへと私達の手元に、そして私達の家庭にゲームが戻って来ました。

今や、ゲームは持ち歩くモノという状況が当たり前となって来ています。

しかし、そこには決して個人の楽しみの為のゲームしかないとは思いたくはないのです。

ゲームは、個人でプレイすると共に、多人数と共有したいと思われる「共感のツール」でもあると私は考えながら、今日もゲームの世界で遊んでいるのです。


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― 新着の感想 ―
とても面白く拝読させていただきました。 TRPGは好きです。
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