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余り語られない撮影所のあれこれ  作者: 元東△映助
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余り語られない撮影所のあれこれ(167) 「作品世界に於ける『設定』と現実」

★余り語られない撮影所のあれこれ(167)

「作品世界に於ける『設定』と現実」


●様々な「設定」

映画や映像作品をはじめ、様々なフィクション作品には「設定」というモノが存在します。

「設定」がなくては何も始まらないと言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、本当に「設定」無しでは何も始まらないのです。

例えば、ひとつのキャラクターを作ろうとした場合、そこには様々な「設定」が必要となります。

まずは人間なのか?身長は?体重は?容姿は?名前は?性別は?様々な疑問が「設定」というモノを基に架空のキャラクターを決定付けて行く訳です。

今回は、様々な「設定」に関する事を語って行きたいと思います。


尚、例によって情報のほとんどが約30年前です。

今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。

また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在します。

その点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。

そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。

東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点も予めご理解ご了承下さい。


●「設定」とは?

「設定」と呼ばれるものは本当に多岐にわたります。時代・場所・登場人物やその人間関係などが主な例として挙げられます。

これらの「設定」は、ほんの僅かしか出番のない登場人物や場所であっても確立する事が必要で、それを基にストーリーの構築が行われることになります。


つまり、「設定」とは、ストーリー=物語を構築する作業の中で最も初期の段階で行われる、基盤作りもしくは基盤そのものを意味するのです。


また、現実とは違った架空世界が舞台である場合には、その世界と現実世界との相違点や、世界における一般常識、歴史なども設定として含められます。

それらは、先に挙げた時代や場所等を含めて「世界観」と称する場合もありますが、厳密に言えばこの場合「世界観」という語の使用は誤用です。


改めて言えば、「設定」がないと物語は全く進行しないことになります。

例えば、登場人物が2人いて相手の名前を呼ぶだけでも「名前」という「設定」が必要ですし、2人が居る背景がどこであるかも「設定」で決めなければなりません。

更に、2人の服装や装飾品を決めるためには「時代設定」や「人物設定」という「設定」が必要になってきます。

「時代設定」には、地理的な「設定」や年代的な「設定」を基本にして「設定」されますが、これがフィクションであれば、その基本的なことまでもが「設定」しなければならなくなります。

更に「人物設定」には、その人物の性別や性格、趣味、趣好なども「設定」の対象となり、「時代設定」とも絡んできます。


良く状況を説明するのに「5W1H」が必要といわれますが、この「When(いつ)」「Where(どこで)」「Who(だれが)」「What(なにを)」「Why(なぜ)」「How(どのように)」という要素も全て「設定」しなくては物語は進まないのです。


「設定」は、物語の構成を決める上で重要な項目であることから、一度「設定」をしたものは、少なくとも同じ物語の中では気軽には変えることができません。

何故ならば、物語の脈絡とは関係無く「時代設定」や「人物設定」や「背景設定」などを途中でいきなり変えてしまっては、物語の整合性が取れなくなり、物語そのものが破綻してしまうことになるからです。


そんな整合性が取れなくなってしまった物語では、整合性を取るために後から「設定」が加えられたり、無かったことにされたりする場合もあります。

それは一般的に「後付け設定」と言われています。

この「後付け設定」は、こじつけや唐突感が否めなく、あまり印象が良いとは言えません。


●現実と「設定」の違い

昨今、「この作品の『怪獣』は、本当の『怪獣』ではない」とか、「こんな銃の撃ち方は存在しない」とか、「こんな刀の振り方は間違っている」とか、「中世ヨーロッパでは、こんな事はしない」といった作品の内容を批判する投稿を見かける様になりました。 その作品がノンフィクションや、ノンフィクションを忠実に再現しようとした作品であれば、何ら問題はないでしょう。

しかし、フィクションであれば話は変わってきます。

そこにある「現実」の様に見えているモノですらフィクションの中での「設定」に他ならないのです。

例えば、幾ら「中世ヨーロッパ風」であっても「中世ヨーロッパ」を扱うノンフィクションでなければ、それは「設定」でしかなく、鎧や剣の種類、食事や風習、時代的な錯誤に至るまで「中世ヨーロッパらしい設定」であっても「中世ヨーロッパ」の「設定」ではないのです。

しかし、この「ノンフィクションの『設定』」と「フィクションの『設定』」の差異を理解出来ていない方々が少なからず居て、大きな声を張り上げがちなのです。


●怪獣という「設定」

所謂「怪獣映画」をはじめとした「怪獣」が出現する特撮作品やアニメやマンガなどは、「怪獣」が出てくる時点でフィクションです。

だから、少なくとも「現実」ではなくて、その「怪獣」自体「設定」の産物でしかありませんから、そこに「現実味」を見出そうとする事自体が良くない事です。

しかし、「設定」に全く「現実味」がなくなれば、視聴者に対して「臨場感」が無くなりますから、現実の視聴者の世界と「怪獣世界」を橋渡しする「現実味のありそうな設定」が付与されます。

しかし、これはあくまでも「その『特別に設定』された『怪獣が居る世界』の中での『設定』」であり、現実ではありません。

更に「怪獣」という「設定」された生物は、その世界での固有の生物であって、例えば他の世界で「怪獣」が出現しようとも「設定」が同一のモノではない為に、二足歩行も四足歩行も飛行も攻撃方法も、更には脚の数や体型、身長の大小に至るまで全く様々な「設定」による生物としての「怪獣」という事になります。


平たく言ってしまえば、「怪獣」なんて「設定」の数だけ存在する様々な生物なのです。

いや、生物ですらないモノも含めて、「怪獣」と「設定」されたのであれば、どんなモノでも「怪獣」と呼称しても良いのです。

だって、それは「この物語の中で『怪獣』と『設定』されたモノ」に他ならないからです。


つまり、生物では有り得ない「火を吹く」、翼もないのに「宙に浮く」、質量保存の法則を無視して「巨大化する」、といった「現実味」はなくても「怪獣」では当たり前なのです。

たから「怪獣」だと「設定」されたモノは、「怪獣」なのです。


●ヒーローという「設定」

ヒーローという「設定」も多種多様なモノが存在します。

人型だけにとどまらず、生物ですらないモノでもヒーローとして「設定」されたならば、それはヒーローなのです。

現実世界にみえる様に「設定」された世界で、現実世界とは異なる常識を見せます。

それが現実世界に居ないであろうヒーローという存在を「設定」する為に必要であるモノであれば尚更です。

現実世界では有り得ない能力や攻撃方法も、「設定」によっては作品内の現実として存在します。

何処から出したの?と思ってしまう道具や武器の数々も、フィクションだからこそ「設定」として作品内では現実化出来てしまうのです。


●アニメの「設定」

アニメとなれば、「設定」を差し置いても現実的ではないモノはたくさん存在します。

特撮作品の様な実写作品ではないだけに、キャラクター達の頭身をはじめとした身体的特徴はアニメ特有の「設定」によって、現実世界とは大きく異なったモノであろうと存在する事が出来ます。

その上に、そんな現実世界では特異なキャラクターがアニメ特有のディフォルメとして一般に受け入れられる傾向にあります。


例えば、瞳の大きさなどはアニメでは現実とはかけ離れて大きくなる傾向にありますし、急に身体や顔の一部が巨大化したり小さくなったり、手や足が伸びたり、背景に薔薇が散ったり、殴られると地平の彼方に跳ばされたりといった現実世界では不思議な状態が当たり前に存在します。

これらの「設定」を「現実とは違う」と言うことはないでしょう。

しかしながら、アニメという「現実」とは違った世界で見せられる事で、本当に「現実的」なモノでも「現実」としては観てもらえないというジレンマはあります。


銃が弾切れを起こさないのはオカシイ。

確かに「現実」では有り得ません。

しかし、そのアニメの世界の中では当たり前かもしれません。

もしかしたら「演出」としての「敢えて忘れる」事による「無限給弾」という「御都合主義的『設定』」なのかもしれません。

しかし、そんな現実的ではない「設定」も表現された時点で、その作品の世界では「現実」となってしまうのです。


●言葉の「設定」

言葉を1から「設定」した事で有名なのが「ロード・オブ・ザ・リング」です。日本的には「指輪物語」のタイトルで知られる作品です。

「中つ国」と呼ばれる架空の異世界で、言語大系を文字を始め単語や文章に至るまで「設定」した事で有名な作品です。

この様な未知の言語や多種の言語が入り乱れる様な場合、文章上では翻訳文やルビを打ったりして対応しますが、映像化した際には視聴者に対して負担をかける事にもなりますから、早々に通常の言語で話が出来る様にしてしまいます。


この未知の言語大系を作品の中盤まで証さずに1年間映像として表現した、子供向け特撮作品があります。

「仮面ライダークウガ」です。

文字と言語を作品の為だけに「設定」したのです。


勿論、その他にも言語や文字を「設定」した作品はあります。

何処かで見たり聴いたような文字や言語もありますが、少なくともその作品の中の文字や言語と、現実の文字や言語が「たまたま類似」していただけで、その作品の世界の中で「設定」された文字や言語は、その作品のオリジナルとなっているのです。

だって、現実の世界でも「類似した文字や言語」は、普通にあるのですから。


●原作と「設定」

小説やマンガ、エッセイ。そしてアニメやTVドラマや映画等の他の映像作品といったモノまで様々な「原作」に成り得る作品というモノはあります。

その「原作」にも「設定」は存在します。

フィクションならば必ずといって「設定」は存在します。

そして、その「原作」から様々な制約を受けつつも、他メディアの作品として成立する為の「設定」の修正が行われます。

その「設定」の修正が、大きな問題となる場合があります。

流石に作品の基本的な世界「設定」を修正するのには「原作」サイドに抵抗が出てきます。

登場人物やそのキャラクター性の「設定」を修正するのも大きな抵抗が出ます。

それに対して、セリフの一部修正やストーリーの一部修正等は、比較的受け入れ易いという状況があります。

しかし、「原作」を他メディアへ置き換える際には、そのメディア特有の制約や修正がどうしても必要になる場合があります。

特に映像化や舞台化においては、コンプライアンスの問題や物理的な問題から公共に向けてのセリフやキャラクターの行動等に制限を設けなければならなくなります。

例えば、常に空を飛んでいるキャラクターを舞台化の際にどう表現するのか?遠隔攻撃や変身等の表現はどうするのか?ヴィランのセリフをどこまで「原作」に忠実に出来るのか?

様々な他メディア特有の制限がある中で、「原作」をどこまで修正しないで視聴者や観客等に届けられるのかが、「原作」サイドと制作サイドのせめぎ合いになってくるのです。


また、「原作」では曖昧であった部分も他メディアでは「設定」しなければならなくなる場合があります。

例えば、小説等の文章からマンガやアニメ等の映像化をする際には、キャラクター等のビジュアルを「設定」しなければなりませんが、これも「原作」サイドの思い描くイメージと制作サイドの思い描くイメージのギャップが大きい程紆余曲折が出てきます。

ひとりのキャラクターを文章「原作」からビジュアル化するだけで少なくとも、どんな顔?髪型は?髪は何色?どんな服装なのか?靴は?どんなものを持っているのか?他の全てのキャラクターとの身長の対比は?歩き方や走り方は?喋り方は?といった「設定」が必要となります。

特に文章「原作」の場合には、想像の領域に助けを借りていた部分を、メディア化する際には白日の下に晒して一目瞭然の状態にしなければならなくなるのです。

決めなければならない「設定」が多い程、そして「原作」サイドがこだわる部分が多い程、ぶつかり昇華する為の時間を要します。

そこに時間をかけられるのかどうかが、作品の正否にも関わって来ます。

この中で、「原作」サイドと制作サイドの間に起こる「伝言ゲーム」に於ける意思疎通の危うさという問題があるのも、また事実だと思われます。

架空の話にはなりますが、アニメ「SHIROBAKO」や「推しの子」の中でもこの「伝言ゲーム」が弊害となっている事が描かれています。

だからこそ、漫画家協会理事の里中満智子先生は「原作の終了を待ってあげてください」と提唱しています。

「原作」の人気を利用したい制作サイドは、「原作」の旬を逃したくないので、「原作」から使用権利を得たならば直ぐに他メディア化をしたがりますが、最後がどうなるのかも分からないのでは、ストーリーやキャラクターの着地点が見えずに尻切れトンボになってしまいます。

良い例としては「鋼の錬金術師」のアニメ化にあたり、「原作」が完結していなかったどころか、完結の目処もたっていなかった為に、序盤は同じであるものの途中からは「原作」者の意向もあり、アニメ完全オリジナルとなり、「原作」とは違った着地点に帰結しなければならなくなりました。

その後、「原作」が完結した後に「鋼の錬金術師フルメタルアルケミスト」として最初からもう一度再アニメ化をして「原作」に沿った結末に持って行ったという例があります。

「原作と全く同じならアニメという別メディアに乗せる必要は無いと思うので」とは「鋼の錬金術師」の「原作」者の荒川弘先生の言葉ですが、この言葉もあり、この場合は、幸いにも最初のアニメ化に対しての大きな批判も出ませんでした。


多くの読者や視聴者を既に持っている「原作」は、他メディア化をしようと思う制作サイドにとっては、それだけで魅力的なコンテンツです。

しかし、「原作」の持つ読者や視聴者が魅力的と感じている部分を取りこぼさず、「原作」サイドの了解を得て修正する困難さも合わせて抱える事になります。

ですから、最初から「原作」を持たない、もしくは最小限に出来る、制作の「オリジナル」の「設定」は、時間を多くかけずに「原作」の修正という困難さから開放された道を選ぶ方法のひとつとなります。

しかし、この場合には読者や視聴者に受け入れられるのかという別の困難さを抱える事になるのです。


●提供と「設定」

通常、メディアコンテンツには「出資元」である「スポンサー」が必要となります。

所謂「提供」と呼ばれる方々です。

法人だったり個人だったりはしますが、普通は既に「設定」されたメディアコンテンツに対して「スポンサー」となって何らかの権利を得ようとする方々です。

法人イメージだったり、商品化だったりするのが一般的です。

中には商品化するにあたり「設定」を提示する「スポンサー」もいらっしゃいます。

既にある「設定」ではなく、「設定」の最初からとなると「原作」があるモノでは介入出来ないのが通常ですから、「原作」のない作品への提示となります。

この様な場合は、作品自体の根幹にも関わりますから一般的な「スポンサー」では介入ができません。

つまり、「設定」の出来る「スポンサー」とは、多大な「出資」によって「設定」の出来る権利を主張できる立場を得た方々という事になります。


●多種多様な「設定」の捉え方

幾度となく同じ流れの中で「設定」されるモノの中には、「暗黙の了解」というモノや「縛り」が出てくるモノもあります。

これは、長年コンテンツとして視聴者に提供されつつも、毎年の様に「設定」を変えて制作されるドラマに多く見られます。

TVドラマでは「相棒」シリーズや「科捜研の女」シリーズ等の長期シリーズがコレにあたります。

どちらも主人公のキャラクター「設定」に変更を加える事の出来ない「縛り」を有していますし、警察や法医学の範囲という「縛り」もあります。

しかし、シリーズを加えるとドラマとしてのマンネリ化が出てきます。

ですから、「設定」を変えられない主人公ではなく、周りの「設定」を少し変えるのです。

「相棒」では、相棒となるキャラクターを変更するという「設定」変更を行ったり、「科捜研の女」ではチームメンバーの入れ替えを行ったりしています。


特撮作品や子供向け作品では、この様な「設定」変更とは違った難しさがあります。

毎年の様に主人公やストーリーも変わりますから、大きく「設定」が変わっている状態の「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」に於いても、「仮面ライダー」という名前を冠しているからこそ「あのデザインは仮面ライダーじゃない」と言われますし、「バイクに乗らないのにライダーと名乗るのはおかしい」という意見も出てきます。

また、「スーパー戦隊シリーズ」に於いても「あんなストーリー展開はスーパー戦隊らしくない」とかといった「らしい、らしくない」という意見が出てきます。

これらは「仮面ライダー」とか「スーパー戦隊」というコンテンツが、長年の間に視聴者にとっての様々な「らしい」という「設定」として浸透しているからだと思われますが、その「設定」が「らしい」という曖昧な「設定」によって定義されてしまっている為に、様々な意見となってしまう要因となっているのです。


コレに比べて、「プリキュアシリーズ」も毎年「設定」が変わりますが、何故か余り批判的な意見が出ず、驚きや好意的な意見が多いと思われます。


この様に、「設定」を固有のキャラクターや世界や作品に対してだけを対象とするのではなく、「シリーズ」としての「設定」というモノも存在するのです。

また、メディアの壁も越えて、更には制作サイドや原作サイドまでもが意図しない「受け手側としての『設定』」というモノも派生する状況となっているのです。


●あとがき

まだまだ書き足りない事がたくさんあります。

それは、「原作」と「制作」の話、「出資元」との絡みや「制作」の上層部や「脚本家」の話などですが、それは今回の「設定」の話で掘り下げるのには少し違っていますので、さわりだけに留めさせて頂きました。


「怪獣8号」の中に出てくる怪獣は、「怪獣」と「設定」されているのですから、少なくとも「あの世界」では「怪獣」です。

山本弘著でドラマ化もされた「MM9(=モンスターマグニチュード9)」の中では「妖怪」や「心霊」も「モンスター(=怪獣)」の一種「MM1以下」として「設定」されています。

所謂「エメゴジ」と呼ばれる「ゴジラ」も、「ゴジラ」の権利者が「ゴジラ」としての「設定」として認めているのであれば「ゴジラ」です。


「設定」は、その作品の根幹であり生命線です。

「原作」があるのならば、「設定」はメディア的な「窓口」ですし、「原作」がないのであれば「設定」は、「存在証明」そのものと言っても過言ではないモノなのです。

批判的な意見や異なった意見を唱える方もいらっしゃるでしょうが、作品の中で「設定」されているのであれば、おかしかろうが「現実」とはかけ離れていようが、ソレはソレなのです。

例え「原作」と違っていても、「原作」サイドが「認めている『設定』」ならば、ソレは「原作」と同じ高みにまで引き上げられた「まごうことなき『設定』」なのです。


だからと言って、批判的な意見が止まない様にしてもらいたい。

その意見も「設定」に対する様々な見方のひとつなのですから。

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