余り語られない撮影所のあれこれ(143) 「作品への『評価』とは」
★余り語られない撮影所のあれこれ(143)「作品への『評価』とは」
●評価
文学、絵画、彫刻、音楽、映画、多くの人々に届けられるどんな作品にも、その作品への「評価」が付きまといます。
作品を読んだり観たり聴いたりして感じた者と共感する「好評」、拒絶する「酷評」、どのような名画やクラッシック音楽に対しても、鑑賞する者が居る限りこの相反する「評価」は付いて来ます。
今回は、特に映像作品を世に出した後になって下される「評価」というモノを取り巻くあれこれを考察してみたいと思います。
尚、例によって情報のほとんどが約30年前ですw
今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在しますww
その点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。
そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。
東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点を予めご理解ご了承下さい。
●先ずは観てから
「百聞は一見に如かず」と良く言われます。
いくら周りから「評価」を聞いても映像作品においては「観てみないと判らない」のが「自分の評価」です。
何故ならば、個人の感じる感性は千差万別であり個々の人間の価値観が寸分違わず同じなんて事は無いからです。
そういう意味からも「先ずは自分の眼で観てから評価して欲しい」と思うのです。
そして、自分の「感性」で「評価」を下して欲しいのです。
周りが「酷評」しているから観に行かない。というのであれば、「他人の評価」を借りて「自分の評価」の様に語らないで欲しいのです。
勿論、これは「好評」に於いても同じことが言えます。
「自分の感性」から導き出される「自分の評価」をこそ語って欲しいのです。
●評価対象
「評価」の対象になる事は、本当に千差万別です。
それは、鑑賞する方の過去や感性等の個々の「想い入れ」や「感心が置かれる点」等が異なっているからだと思われるからです。
「評価対象」の主たるものだけでも以下の様に数多く挙げられます。
「ストーリー」「映像」「音」「演技」「オマージュ」「アクション」「監督」「制作会社」「主演俳優」「助演俳優」
原作がある作品ならば、その関心から映像を鑑賞するでしょうし、監督の名前や制作会社の名前で鑑賞する場合もあるでしょう。俳優さん目当てという方もいらっしゃいます。
例えば、主演俳優が好きで鑑賞した人は、主演俳優の演技やアクションや映像に関心が向き、その点は「好評価」を下されます。しかし、主演俳優の作品内の扱いに対しては監督や制作会社を「酷評」する場合もあります。
だからこそ、自分が思っている部分で「酷評」を考えていても、他の部分では自分の中で「好評」を得られる部分があるかもしれません。
また、その逆も有り得ます。
まさに、そのバランスがどちらに傾くかで「評価」は左右されるのです。
他人が自分と違った「評価」を選択していても、その対象となる部分が本当に自分と同じか?どのぐらいの割合による「評価」なのか?を見極める必要があるのです。
もしも他者との「評価」が違っていたとしても、自分と違った「価値観」に「好奇心」を持って触れてみるのも良いのかもしれません。
それは、自分に無かった「考え」や「想い」は、貴方に新たな発見をもたらせてくれるかもしれないからです。
●好評と悪評
実は、映像業界には「酷評は拡がるが、好評は拡がりにくい」という感覚があります。
これは、「好評と思っている方はそこで満足して発言しないけれど、酷評と思っている方は意見を発言する」という心理的な状態が影響しています。
しかし、昔はその声はなかなか撮影現場には聞こえて来ませんでした。
その中で撮影現場に届くのは、多くの声である「酷評」でした。
勿論、「好評」もファンレターや売り上げという形で示されてはいましたが、その声の何倍もの「酷評」が聞こえて来ていたのです。
その「酷評」は、映像制作会社にとっては問題点や改善点を示して頂ける貴重な意見でした。
そして、近年のSNS時代の個人発信の波に載って「酷評」の数は増しましたが、「好評」の声も撮影現場に届く様になりました。
この声は撮影現場には「励み」となりました。
既に撮影が終了している作品であっても、次回の作品造りへのモチベーションとなっていたのは疑いようもありません。
現代に於いては、過去の「評価」など噂話程度であったのではないかと思われる様に、昔よりも詳細で具体的で数多くの「酷評」と「好評」が、作品に対して寄せられているのです。
そんな世になっても、「酷評」と「好評」の挙がってくる割合に大きな差はありません。
しかし、昔と大きく違うのは「評価」されるのが現在公開中や放送中の作品だけでは無く、「過去の作品」に対しても再評価が下され新たな「好評」や「酷評」が下されるという点にあります。
それは、時にはカウンターパンチの様に響いてくる事もあります。
再評価される事で、再考察が為される場合もあるのです。
●監督と評価
殆どの作品に対しての「評価」は、作品を造ったとされる「監督」が負うのが通例となっています。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
作品の造り上げるには、多くのキャストとスタッフが関わっています。
ですが、「評価」を下す鑑賞者としては、キャストの名前や顔は当たり前に知っているとしても、スタッフの中で名前や顔に関心のある者は「監督」ぐらいだと思われます。
それは、「監督」が最終的な作品造りの責任を負っているからに他ならないからなのですが、「監督」の本来の姿は「脚本」を如何に映像化するかという点に集約されるのです。
つまり、「監督」は「脚本」からの大きな逸脱をする事は出来ないのです。
では、「脚本」を書いた「脚本家」に「評価」対象を移すのが良いのかと言われれば「否」なのです。
それは、殆どの「脚本」は「脚本家」だけが創ったモノではないからです。
「脚本」とは簡単に言えば「プロデューサー」「スポンサー」「監督」「脚本家」が話し合って創り上げた、「制作会社のヒットさせたい意向」と「できるだけ少ない資金の投資で最大の利益を生みたい意向」と「映像の実現性という現場的な意向」と「話として成立する様に纏めたい意向」とのせめぎ合いによって生まれた産物なのです。
この「せめぎ合い」は、力関係や妥協や信頼関係によっては「作品の意図せぬ方向」に変更を余儀なくされます。
「プロデューサー」や「スポンサー」の意向が強過ぎれば作品が無難過ぎて意欲的な作品は生まれず、「監督」や「脚本家」の意向が強過ぎれば、意欲的過ぎて興行的には恵まれないという風にバランスを崩した作品が生まれてきてしまうのです。
「ヒットさせたい」という想いは、それぞれ同じなのですが、「作品に対する思惑」が異なる為に「妥協点」を見出さざるを得ないのです。
ですから、「企画」という「脚本」の前段階で練られた構想にすら手を付ける事もあり得るのです。
お陰で、稀ではありますが「企画」段階とは全く違う映像作品が出来上がってしまう事すらあるのです。
そういった意味でも「全ては監督の責任」というのが疑問視される作品もあるのです。
面白い話として、「酷評」の殆どは「監督」が受けるのですが、「好評」の場合は「監督」以外のスタッフにもスポットが当てられる場合があるという点でしょうか。
そして、「酷評」はいつしか「評価」対象者であった「監督」の名前から「作品名」へと変化していきます。
何れにせよ、鑑賞者としては責任者として表に名前が出てくる「監督」を「評価」対象にするしかない訳ですし、責任の一端を負う「監督」は「私だけの責任ではない」とは言えず、それを受けざるを得ないのです。
「監督」の過去の作品の「評価」によって、現在の作品の「評価」を左右させる場合が、観客にはあります。
「あの監督の作品だから良いものだろう」「あの監督の作品は期待出来ない」「畑違いの監督が撮った作品なんて良いものである筈がない」といった意見です。
確かにそういった面もあるかもしれませんが、作品は先入観に囚われずに個々に「評価」して欲しいと思うのです。
過去にヒット作品に恵まれた「監督」は、「制作会社」や「スポンサー」から「ヒットして当たり前」という「重責」を担っています。
そんな「期待」に応えようとする「重責」と、「ヒットしなければ、次の作品は無い」といった「強迫観念」が「監督」の頭の中では渦巻いています。
だからといって、「無難」なものは造れないのも確かです。
「期待」は仕方無いでしょうが、鑑賞される作品を過去の作品とは切り離して新たな「評価」を下して貰えればと思います。
●賛否両論
「酷評」と「好評」は「賛否両論」となってくれるのが好ましいと私は考えています。
「好評」だけの作品では、満足する事で作品に携わったスタッフやキャストの今後の成長が見込めないですし、「酷評」が過ぎてもリベンジへの気持ちを薙ぐのですから、「興行的には成功だが問題点が無かった訳ではない」という「賛否両論」が一番好ましい「評価」ではないのかと思っているのです。
つまり、「キャストの演技は素晴らしいが、あの演出は頂けない」とか「映像美は綺麗だが音楽が合っていない」とかといった「酷評」と「好評」をどちらも同時に述べて貰えるのが有り難いのです。
映像作品も人間の「評価」と同じで、叱ってばかりでも褒めてばかりでも成長が見込めないのですから、「賛否両論」ぐらいが丁度良いのではないかと思っているのです。
●リメイクや原作もの
昔から多く見られるものに、過去のヒット作品の「リメイク作品」やヒットしているマンガや小説の「原作もの」の映像化といったジャンルがあります。
「リメイク作品」のオリジナル作品を「原作」とするならば、ヒットした「原作のある作品」となります。
そこには所謂「二匹目のドジョウ」を見ている処がありますから、「原作」からは大きく逸脱は出来ません。
ましてや「原作者」の意向も働きます。
しかし、映像作品には上映媒体による「上映時間」という制限や「映像化不可能な表現」や「配役」や「どう動かすのか」といった様々な制約が付いてまわります。
つまり、「原作」をどの程度の映像化とするのかが重要なのです。
ですから「リメイク作品」や「原作もの」の鑑賞をする場合、私は「別作品」として観る様にしています。
「どの様な見せ方にしたかったのか?」「カメラアングルや音楽も含めた映像的解釈はどうか?」「原作との違いを何処まで攻めたのか?」「原作を大切にしているのか?」等の要素を「原作」を下敷きに置きつつも「別作品」として「評価」する様にしているのです。
何故ならば、「評価」を下す私という鑑賞者が「原作」にあまりにも傾倒してしまっていては、正当な「評価」が下せないと思っているからなのです。
●あとがき
とある作品の助監督としてついた時でした。
珍しく早い段階で準備としてスタッフ参加したのですが、「脚本」が「準備稿」と書かれたモノでした。
その後、「準備稿・改訂版」「準備稿・再改訂版」を経て「決定稿」が我々スタッフの手元に配られました。更に「決定稿・改訂版」が「決定稿」に挿し込まれる事になった頃には、「準備稿」とは殆ど違った内容にまでになっていたのです。
後に「監督」が意図した内容が色濃く示されていた「準備稿」が、「決定稿」に至る前に「脚本家」まで変わってしまい、「プロデューサー」や「スポンサー」の意図する方向へ変わってしまったという事が判明します。
そして、内容的には話は通っているのですが観客に訴えかける「感動」が見つからないモノとなってしまいました。
結果的に作品の興行的成功は無く、「評価」も惨憺たるモノとなりました。
力の無い「監督」ではなかったのですが、「製作費」が大きくなり過ぎて、内容の改変が必要になってしまったのが原因の様でした。
「監督」と「脚本家」が求めた意欲的な内容をそのまま映像化出来ていれば、「評価」も興行的成功も手に入っていたのかは疑問ですが、少なくとも「決定稿」よりは良い作品となっていたのではないかと思えて仕方ないのです。
「監督」も「プロデューサー」も「酷評」されても「言い訳」をしないものです。
それは、どの様な作品でも自分達が創り上げた作品に「責任」がある為です。
「好評」には感謝を述べる場合がありますが、「酷評」には反論を述べません。
それはSNS時代になってもそうです。
遠い過去となってしまった作品に対して「監督」をはじめとするスタッフやキャストが制作意図や裏話を語る事はあってもそれは「責任回避」ではありません。
何故ならば、作品を創ったという「責任」に「時効」は無いのですから…
そして、我々鑑賞者は自分と違う「評価」を否定するのではなく、「そんな見方もあるのか…」といった自分の更なる「鑑賞者としての眼を養う糧」として貰いたいと思うのです。
他覚的な「評価」も時には為になるものなのですから…