余り語られない撮影所のあれこれ(136) 「自己紹介〜名前の出ない助監督〜」
★余り語られない撮影所のあれこれ(136) 「自己紹介〜名前の出ない助監督〜」
●名前は出ない
30年ほど前にはテレビ放送される番組作品であってもフィルムでの撮影が一般的でした。
その時代には、フィルム自体が節約されていて、スタッフロールであっても各部署のメインスタッフのみが表示されるという状態でした。
撮影もカメラマンだけだったり、照明も照明技師だけで助手の名前なんてテッロプされませんでした。
監督は別として、演出部は助監督としてテロップされるのはチーフ助監督だけでしたから、下っ端の自分の名前がテロップされることなど夢のまた夢でした。
そんな、なかなか名前の出ない助監督だった私が、自分というスタッフも居たのだという証明の為にも、自分の関わった作品のことや撮影所で見聞きした知識や個人的な考えなどをアーカイブする感覚で始めたのがこのコラムなのですが、今回で4年目に突入する事もあり、改めて自己紹介をさせて頂こうと思います。
面白くはないですが、お付き合い下さい。
尚、例によって情報のほとんどが約30年前ですw
今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在しますwwその点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。
そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。
東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点を予めご理解ご了承下さい。
●プロフィール
○出身
徳島県出身。
1967年5月1日生まれ。
竹宮惠子先生を高校時代に教え、大杉漣さんの実父と釣り仲間だった高校体育教師の父親と、郵便局勤務の母親との間に生まれる。
妹がひとり居たが、数年前に癌で他界。
○映像への憧れ
幼稚園・小学校は私立、中学校・高校は公立。
中学・高校とアニメ・特撮好きが高じて、高校時代に課外部活である総合アニメ部で自主制作アニメを製作する。
高校時代に特撮イベントやアニメイベントで知り合った先達に導かれて大阪のコミケや地元のコミケに顔を出し「DAICON FILM」の存在を知り、アニメ作品も特撮作品もクオリティの高い自主製作に衝撃を受ける。
地元コミケで知り合った知人として、現在アニメ監督の斎藤久さん(代表作︰バンブーブレード、怪人開発部の黒井津さん)が居る。
地元の特撮好きな人達と交流する内に、その仲間達と共に自主特撮8ミリ映画を2本製作する。
特撮作品の内1本は「伊丹グリーンリボン賞長編部門入選」であった。
高校卒業後、公務員試験を受けて国家初級公務員郵政事務職となるが、映画の夢が捨て切れず退職。
○自由な短大
大阪芸術大学を受験するも不合格。
1987年に京都芸術短期大学(=現在の京都芸術大学)情報デザイン学科映像コースに入学。
入学式後の同級生が集められた教室で「この教室には、公務員を辞めてまで入学した奴もいる」と助教授が言い放った言葉から、個人が特定されて「公務員くん」と呼ばれていた。
同級生には千家十職の跡取り息子も居たのだが、私には映像コースへ伝統工芸の跡取りが入学している事の方が驚きだった。
芸術系大学の自由さには驚きであった。
丸坊主の女子、日常が和装の生徒、流石に今で言うレイヤー姿のままの生徒はいなかったが、自己を主張する生徒が大半であった。
私も坂本龍馬が好きなことから、黒いジーパンに黒のMA-1を着込み、扇子を刀代わりにベルトに差して現代風龍馬という解釈で長髪にしようと髪を伸ばしていたくらいだった。
但し、通学用バイクは「TDF-PO1」とウルトラ警備隊マークのステッカーをガソリンタンクに貼ったシルバーのGSX-250Eであった。
映画監督の松本俊夫教授やアニメーション作家の相原信洋教授に師事。
実験映像作品が中心の大学のカラーの中、同級生の浅生マサヒロと二人だけは商業映画の道を目指していた。
浅生マサヒロ氏は、現在映画監督(代表作︰破門、捨て犬、下町任侠伝鷹シリーズ)。
同級生には、他にも映像作家兼大学教授やイラストレーター、映像制作会社代表などが居たりする。
○アルバイトも交流の場
短大当時は、一条寺の風呂無し共同トイレの昭和なアパートに下宿し、側の商店街にある古本屋でアルバイトをしていた。
古本屋とはいえ店主が古物商なので、ゲームソフトやレコード等も取り扱っていた。
この古本屋では、同世代の常連客と親しくなり、元来ゲーム好きで中学時代からボードゲームのシミュレーションゲームをやっていた私は、まんまとTRPGの世界に誘い込まれる。
○運命の留年
短大を単位ひとつの為に半年留年。
留年期間を利用して東映太秦映画村にアルバイトを見つけ、映画村での観光客や車輌の整理の後に、短大が映像コース在席という事から東映京都撮影所のビデオ撮影の助手や制作進行助手のアルバイトに回される。
半年留年を終え卒業の矢先に、卒業後に撮影所のスタッフとして誘われる。
特撮作品のスタッフがやりたかった私は、「時代劇ではなくて現代劇がやりたい」と時代劇の聖地である東映京都撮影所で言い放ったにも関わらず、「じゃあ、こっちで居ても仕方ないから、大泉に行きなさい」と、寛容にも東映東京撮影所へ紹介してもらう。
バブル景気が残り、製作本数は増えるがスタッフの数が居ない1989年だからこその寛容さだったのかもしれない。
半年留年がなければ、撮影所に入る事もなかった訳で、何が幸いするかは判らないモノである。
○数奇なステップアップ
撮影所のスタッフとしては、東映作品を中心に撮影スタッフを斡旋する派遣会社に勤務する「個人事業主」だった。
派遣会社での面談の際に「特撮作品に関わりたいです。演出部希望です。」と言った事が、メタルヒーローシリーズのサード助監督に回されるきっかけだった。
1989年10月当時は「仮面ライダーBLACK RX」の撮影が終了し、特撮作品としては「機動刑事ジバン」と「高速戦隊ターボレンジャー」か製作されているだけだった。
そして「高速戦隊ターボレンジャー」には、同年4月に竹本昇監督が同じくサード助監督として配属されたばかりだった。
派遣社員だから、基本的には自分で仕事を取ってくるという事はなかった。
但し、経験がモノを言う世界でもあったので、様々な経験をした者程にステップアップした撮影現場に回された。
特に当時の助監督は、特撮作品の補助とカチンコの打ち方、もしくはビデオ作品の補助とカチンコの打ち方、そして同時録音フィルム作品の補助とカチンコの打ち方、という感じでステップアップして行くのが一般的だった。
私は、「特警ウインスペクター」の途中で体調を崩して静養が必要となったが、3ヶ月もせずに撮影所へ復帰した。
しかし、既に「特警ウインスペクター」には後任スタッフが入っていたから、他の撮影現場に回される事になった。
それが東映Vシネマ初の特撮作品「女バトルコップ」だった。
特撮作品のスタッフは経験していたが、ビデオ作品のスタッフは初めてだった。
このビデオ作品への参加が、後の2時間ドラマのビデオ作品へのステップアップでもあった。
その後の「土曜ワイド劇場」が同時録音フィルム作品でしたから、一気に「特撮」「ビデオ」「同時録音」のカチンコが打てる派遣会社としては便利な派遣社員が出来上がったのだった。
私の年齢としては、再びの体調不良で撮影所を去る間の22歳〜26歳を撮影所で過ごす事になった訳だ。
●撮影所スタッフとしての仕事履歴
△は制作進行助手(学生アルバイト)
〇は助監督
(〇内の数字は助監督のポジション。1=チーフ、2=セカンド、3=サード)
□は操演助手。
◆はキャスト出演
◇は内トラ(=スタッフ内エキストラ)
★はスタッフロールに名前を確認できる作品。
()内は放送年。
放送年後の数字は関わった話。
△時代劇スペシャル・子連れ狼 冥府魔道の刺客人 母恋し大五郎絶唱!
③機動刑事ジバン(1989年)43~48
③特警ウインスペクター(1990年)1~18
③女バトルコップ(1990年)★
③土曜ワイド劇場・高橋英樹の船長シリーズ「超豪華フェリー殺人事件」(1990年)
③火曜ミステリー劇場「美人女子大生妻探偵と田舎刑事」(1990年)
③◇ドラマチック22「高田純次の無責任社員物語・接待編」(1990年)★
③◇火曜ミステリー劇場 西村京太郎スペシャル・十津川警部シリーズ「十津川警部の挑戦」(1990年)★
②不思議少女ナイルなトトメス(1991年)15~20
③はぐれ刑事純情派(1991年)第4シリーズ11~14
③◆旅情サスペンス「松江・道後 竜神になった女」(1991年)★
③土曜ワイド劇場「国境の女」(1991年)
③特捜エクシードラフト(1992年)1~14
②うたう!大竜宮城(1992年)3~10
③大予言/復活の巨神(1992年)★
①□◆BATTLE & BATTLE クローンカプセル CLONE CAPSULE(1992)★
③髑髏戦士ザ・スカルソルジャー復讐の美学(1992年)★
○仮面ライダーZO(1992年)※ノーギャラ助っ人
③セビリア万博日本館廻廊シアター用出展映像(1992年)
②水戸黄門 第21部(1992年)2~3
③◇続こちら凡人組(1992年)★
③金曜ドラマシアター「お久しぶりね」(1992年)
□映画「奇跡の山 さよなら、名犬平治」(1992年)★
③特選!黒のサスペンス「視線・証拠無し」(1993年)
①□◆REINA -レイナ-(1993)★
連ドラ58本(内訳:特撮52本、時代劇2本、刑事ドラマ4本)、2時間番組9本、ビデオ作品4本、映画2本。
4年近くのスタッフ生活としては、他の助監督と比べると非常に多岐に渡るらしい。
●帰郷とその後
撮影所を去った私は帰郷する。
しかし、郷里には撮影所での経験を活かせる仕事はなかった。
イベント会社のアルバイトスタッフなども経験しましたが、郷里は田舎ですからイベントも同じイベント会社では多くはない。
ですから、サラリーマンとしての就職先を探して地元限定の求人雑誌の編集部へ潜り込む。
その編集部から営業部へ出向し、会社の倒産に伴い退社。
暫くはパチンコ店でアルバイトをしていたが、営業職の経験を活かして地元食品製造会社(地元味噌メーカー)の営業部へ転職。最初は商品を知るために製造部へも勤務した。
その会社も3年後に自分に喘息が出てしまい、病院通いが始まる。
再三の病院通いは、自分の結婚式の仲人まで引き受けて頂いた食品会社の社長にも悪いからと、昼から出勤が出来る地元の塾の講師の職に転職する。
最初は、講師ではなくて広報担当のチラシやテストの作成担当だったのだが、英語以外の高校1年生くらいまでの教科ならば指導できる学力をかわれて講師も兼任する事になった。
しかし、この塾も通信制高校への転進に伴い、高校の教育免許を持っていない私は、身を引く事になった。
その塾に勤めていた間に長女と次女が誕生し、次の仕事先を早急に探す必要があったのだが、塾に出入りしていた文具屋さんの紹介から、現在も勤務する地元の廃棄物業者の営業として再就職ができた。
●もう一度東京へ
実は今の会社は、全国にチェーン展開する企業とも取り引きがあり、コロナ禍前となる6年前から全国会議が東京で開催される様になっていた。
旅費・宿泊費を会社持ちの実質無料で、古巣である東京撮影所へ訪れる事も可能という状況の中、撮影所時代にお世話になったり一緒に遊んだりした方々にお会いする御礼行脚が始まった。
勿論、仕事を終えたプライベートな時間にはなったが…
奇しくも撮影所に入った年から30年記念となる2019年を最後に、コロナ禍という状況下でリモート会議という新たな発想によって、出張が無くなる事になる。
しかし、この東京への出張は、「30年も前のスタッフロールにもなかなか載らないスタッフは、顔もおろか名前も覚えていて貰えない」「自分が撮影所に居た証明をしたい」という気持ちになったきっかけでもあった。
それが、このコラムというアーカイブに繋がった訳なのです。
●あとがき
Twitterのアカウントの開設と共に、様々な方々と繋がる事ができました。
大学時代の友人。
撮影所時代の友人やお世話になった方々。
昔の作品のファンの方々。
撮影所時代にはファンレター以外には知る事のなかった作品への熱い想いを抱いた方々。
全て有り難い限りです!
そして、Twitterでの呟きは、私が高校時代に憧れていた「日本SF大会」へゲスト招待という形で開花する事になりました。
本当に有り難い限りです。
また近年では、撮影所時代にお世話になっていた「國米修市」氏の監督する特撮作品に、東京まではお手伝いに行けないものの文章書きとして協力出来た事も、まだ特撮作品と関わっていると感じられて嬉しい事でした。
近頃では、Twitterでの内容をアーカイブする形で「小説家になろう」で展開しているコラム記事も、1日に1000件を超えるアクセスを頂く事もあります。
名前もなかなかテロップされなかった下っ端ですが、守秘義務はあるものの、これからも出来るだけ余り語られる事のない撮影現場の話を紡いで行こうと思います。
宜しくお願い致します。