余り語られない撮影所のあれこれ(127) 「『目に見えないもの』を表現する事しない事〜『五感』〜」
★余り語られない撮影所のあれこれ(127) 「『目に見えないもの』を表現する事しない事 〜『五感』〜」
●見えないもの
映像作品が、直接視聴者に感じて貰えないモノの代表は「五感」と呼ばれる「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」の内で、「味覚」「嗅覚」「触覚」です。
コレらは、映像を視聴者へと伝える技術が進歩した現代においても、受像機側に「味覚」「嗅覚」「触覚」を直接伝えられる仕組みが確立されていないのが原因です。
勿論、現在もコレらの感覚を視聴者に伝えるべく、技術の向上に頭を悩ませている方々がいらっしゃるのも事実ですが、なかなか半永久的に感覚を伝えるといった技術には辿り着いていないのも事実な様です。
今回はそんな「五感」の内で、現在の受像機に有る「視覚」と「聴覚」だけで、「見えない」モノである「触覚」と「嗅覚」「味覚」を映像表現する方法について考察してみようと思います。
尚、例によって情報のほとんどが約30年前ですw
今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在しますwwその点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。
そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。
東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点を予めご理解ご了承下さい。
●気温と温度
「触覚」は、本来ならば視聴者の肌が感じ取る「五感」のひとつです。
その「触覚」の中でも「気温」や「温度」は、現在の受像機では視聴者の肌で感じて貰うことができずに、殆どを「視覚」に頼るしかない状態です。
○服装
そんな「気温」や「温度」を表現する最も簡単な方法は、「服装」です。
例えば「夏」を表現するためには、視聴者に「気温が高い」事を認識させれば良いので、「半袖の服装」や「汗」等の視覚的に視聴者に「気温が高い」事を共感させる状況を作り出せば良いのです。
例えそれが「冬」に撮影していたとしても「寒さ」に震える事無く、「半袖等の薄着の服装」やスプレーで水を吹き付けた「汗」を見せて、「気温の高さ」を表します。
逆に「冬」を表現するのであれば、「厚着」や「手袋」といった「周りは寒い」という映像を見せるのです。
それが「真夏」の暑い時期だとしても「汗」をこまめに拭き止めて、「マフラーやコート等の厚着の服装」を見せて、「冬の寒い気温」を表現してみせるのです。
○演技
出演者の「表情」や「仕草」といった「視覚」によって「気温」「温度」を表す場合もあります。
「暑い」と「表情」は緩み、「仕草」は時として倦怠感として表現される場合もあります。
逆に「寒い」と「表情」は険しくなります。そして、「仕草」としては身体を丸めたり縮こませるという表現になります。
○照明
実は、「夏」と「冬」では決定的に「光量」が違います。
勿論、「夏の光量」の方が「冬の光量」よりも多いのは確かですが、それ以外でも色合いも微妙に異なるのです。
コレら「照明」を活用しての「気温」の表現という方法もあるのです。
○音
「視覚」だけではなくて、特徴的な音を「聴覚」に訴えかける事で「季節感」という名の「気温」を表現しようともしています。
「蝉の声」は「夏」を、「クリスマスソング」で「冬」を表現する等が良い例です。
勿論、それが真逆の季節であったとしても、人間の「常識」は、それが余りにも「常識」であるからこそ「視覚」や「聴覚」から「誤魔化される」モノなのです。
○敵
幾ら「視覚」や「聴覚」から「気温」「温度」を類推する様な状況を表現したとしても、どうしても自然現象には逆らえません。
暑い時に自然と出てしまう「汗」と、寒い時に自然と出てしまう「白い息」です。
「汗」は拭う事しか出来ません。
生理的現象ですから、自分で止めたり出したりは出来ません。ですから、冷却剤やハンディファン等(昔は扇風機)を使って身体を少しでもクールダウンするしておいても「汗」を抑える事は難しいです。
また、役者の方の体質にもよります。「汗」を良くかく方は、大した「気温」でもないのに「汗」をかいてしまいます。そうすると、映像上は「暑い」表現をしたい訳でもないのに、「暑そう」と感じさせてしまうのです。
幾ら真夏に撮影しているからといっても、いつも「汗」をかいている演者が芝居をしている映像を見せられては、視聴者も演技よりも「汗」と「暑さ」に気が行ってしまうものです。
特に「同時録音」の作品の場合のステージセット等では、本番になるとエアコンを止めてしまいますから、本来の「気温」が上昇してしまいます。
こういった「汗かき」の演者さんがいらっしゃる場合では、「汗押さえ」の為にメイクさんが大忙しになるのです。
「白い息」は、外気温が低い時にセリフ等を話したり、大きくゆっくりとした息をしたりすると出てしまう自然現象です。
しかし、多少の時間であれば出なくする事ができます。
1番簡単な対処方法は、氷を口に含ませる事です。
外気温と口の中の息の温度差が近くなれば「白い息」は出なくなります。
そうやって、「白い息」を抑え込みます。
勿論、こちらも本来体温の高い体質の演者であれば、頻繁に出て来てしまいましたし、氷でも長くは持ちませんでした。
●硬度
「硬い」「柔らかい」といった表現は、「視覚」と他の作品の記憶にある「音」に頼る部分が大きいです。
特に「硬度」が重要な要素であれば特に「視覚」と「聴覚」表現に追加が施されます。
「硬い」表現では、ぶつかれば火花が散るとか「聴覚」表現として硬いモノがぶつかった様な「SE=サウンドエフェクト」が追加されます。
「柔らかい」表現では映像自体に歪みを表示させてみたり、「硬い」とは違った「柔らかい」モノが跳ね返る「SE=サウンドエフェクト」が追加されます。
「硬い」の表現は、左程誇大表現をしても視聴者の感じ取るところとしては変化はないのですが、「柔らかい」表現は、余り誇大にし過ぎると「コミカル」な表現にも見えたり聴こえたりしますから、表現の仕方には注意が必要なのです。
●水と風
「水」はまだ比較的「視覚」に収まってくれます。しかし、周りが「水」ばかりでは水中なのか空中なのかが、視聴者に瞬時に伝わりにくいのです。
ですから、「泡」を水中に追加表現したり、「魚群」等を水中に追加表現する事で「水」を「見せる」のです。
更に「泡」や「水中を伝わる音」の「SE=サウンドエフェクト」を追加する事で、より効果的に「水」を見せる事が出来ます。
「風」の場合は、「水」以上に基本的には「視覚」的に映像に映りません。
ですから、「水」に対する「泡」の様に「風」の中に「視覚」的に見えるモノを漂わせたり混ぜる事で、「風」を表現するのです。
葉っぱ、紙、土埃といった何処にでもある軽いモノから、「風」の強さによっては、空き缶やバケツや看板までもが宙を舞い、自転車はおろか人間や自動車やトラックまでもが巻き上げられる事によって「風」が表現されます。
更に、「風」の強さに合わせた「SE=サウンドエフェクト」を追加する事で、より効果的な「風」が出現します。
●匂い
「嗅覚」は、映像表現しにくいモノのひとつです。
その殆どを、演技者の「表情」や「仕草」に頼るしかありません。
「臭い」「良い匂い」といった人間や動物等が匂ったモノなのですから、匂ったモノが自ら表現するのが最もわかり易い方法なのです。
「SE=サウンドエフェクト」を追加する事も出来ますが、「SE」の追加は「コミカル」表現になってしまう場合が多いです。
一時期、テレビから「匂い」を出す機能を開発中といったニュースが報道された事がありましたが、半永久的とはいかない様で、まだまだ実用的とは言えないものでした。
しかし、「視覚」「聴覚」に限っていたテレビに「嗅覚」が加わる日が来るかもしれません。
でも、余りお茶の間に「臭い」匂いが届けられるというのも手放しで喜んでは居られません。
「臭気ボリューム」や「オン・オフ機能」が付いて貰いたいモノです。
●味
「味覚」も「嗅覚」同様、映像表現しにくいモノです。
「嗅覚」と同じく演技者の「表情」や「仕草」に頼るしかありません。
「美味しい」「不味い」というトータル的な「味覚」から、「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」「うま味」の「五味」といった基本的な「味覚」や、痛みを「味覚」として感じ取っている「辛味」なども表現対象となります。
時には大袈裟な表現で表される場合もありますが、余り大袈裟な表現は「コミカル」に繋がります。
また、今迄追加表現として使用されていた「SE=サウンドエフェクト」表現が余り無いのも「味覚」の表現の特徴でもあります。
●あとがき
撮影は、季節に沿った時期に撮影されるとは限りません。
1年間を通じて撮影されるレギュラー番組の場合では、通常は放送予定日の2〜3ヶ月前に撮影したものを編集して放送している為に、少なくともひと季節前の状況になります。
目に見えてしまう「雪」や「紅葉」や「花」などには、季節感が出ない様に細心の注意を払います。
「雪」は、スタッフ総動員で雪掻きや枝の雪払いをして取り除きますし、季節感にそぐわない「紅葉」や「花」は、映さない様に注意しました。
そして、撮影時期にはまだ無いモノを前倒し的に「季節感」の表現として撮影をする事を要求される場合もありました。
放送時期の季節感に合った表現で、四季のイベントをシナリオに取り込んでいる場合に多かった要求でした。
そこに演出部の暴走が絡むと、脚本家がそこまで意図していない映像表現になって、無茶な要求が加わる事となります。
2月に桜の木と花びらとか、夏の紅葉とかです。
植物の場合は、殆どが造花や作り物で誤魔化していました。
このように、「目に見える」モノを敢えて表現しなかったり、「目に見えない」モノを表現しようと苦労したり四苦八苦、右往左往する変な世界が、撮影所という場所なのです。