Ⅲ
「…アリステア、具合が悪そうだが大丈夫か?」
この屋敷に入って二週間。結婚式まで三か月となったわけで、ユリウス様は私の事を「アリステア」と呼ぶようになっていた。侯爵家の跡取りとして日中は仕事をこなし、私も侯爵夫人としての教育やら勉強やらがあるから、顔を合わせるのは必然的に朝と夜だけになる。
ユリウス様に「顔色が良くない」や「具合が悪いのか」と問われるのはいつも朝。共に朝食を食べる席でよく言われる台詞だ。最初は「ただ単に朝に弱いのです」と言っていたが、毎回毎回辛そうにテーブルにつかれると、流石に突っ込まざるをえないだろう。深夜の三時に目が覚めて、そこからずっと起きていればそうなるのだけれど。
「もしかしてとは思ったのだが、アリステアは何か病気なのか?昼間でも庭の椅子の上で眠っているとか、勉強中でも頭をかかえて辛そうにしていると報告があったが…」
全て睡魔のせいなのですが…ユリウス様の耳にまで届くまでになっていたとは。やっぱりちゃんと話しておくべき事なんだろう。どうせ結婚する身だし、いつまでも隠しておくのは良くない。
朝食後にこっそりと話したいことがあると告げれば、気を遣ってくれたユリウス様は自分の執務室へ通してくれた。別にメイドや執事たちがいても良かったが、まずは旦那となるこの人だけに打ちあけたかった。
「実は…幼い頃より悪夢を見まして」
私の告白をユリウス様は黙って聞いていた。時折興味深そうな表情をしていたが、全てを聞き終えると「十何年も悪夢と戦うとは…大変だったな」と労わってくれ、その言葉のせいで思わず涙が流れた。
ユリウス様は私の話を馬鹿にするような人とは思わなかった。しかし受け入れられるとも思っていなかったから、こうも優しい言葉をかけて下さるとじんわりと胸の内が温かくなる。
「それで…?夜が眠れないとなると、アリステアはいつ寝ているのだ?」
「あ…いえ、寝てることは寝ていますよ。ただ何て言いますか、深く眠れていないと言いますか、起きたらどっと疲れているという感覚で…。そのせいで変な時間に眠くなってしまうのです」
「…成程。本来睡眠とは身体と頭を休めるためのもの。だと言うのに、眠る度に疲労感を感じるということだな。戦場に出ているならばいざ知らず、普通の生活の中で続くとなると、流石の私でもうんざりしてしまうだろうな」
「…戦場に出ている…。ああ、ユリウス様は戦場に出られたことがあるのでしたね」
我が国と隣の国は戦争状態だった。十年以上続くにらみ合いの末、六年前にようやく和平条約が結ばれた。騎士団に所属している以上、戦場に出ることは当たり前だ。
「戦場では休んでいても休まらないからな。寝ていても気を張っている状況だ。せいぜい三日が限度で…と私の事はいい。今はアリステアの事だ。悪夢のせいで眠れないとなるのは、今後も良くないことだしな。一体どうしたら良いか…」
「……亡き父は何かに憑りつかれているのではないかと、神父様を呼んだこともありました。でも結果は変わらずで…。結局、私の精神的な問題ではないかと言われてしまいまして」
「それはまた役に立たないものだな」
「他にも色々試したんです。快眠に誘ってくれるお香とか紅茶とか。でもどれもダメで、私もほぼ諦めてしまったのです。ああ、でも…ユリウス様に抱き着いて眠った時は悪夢を見なかったです。すごく心地よくて、安心できて…。あんなに眠れたのは本当に十何年ぶりでした。ありがとうございました、ユリウス様」
思い出して礼を言ったのだが、みるみる真っ赤に染まったユリウス様の顔を見て、しまったこれはこんな風にお礼を言う事ではなかったと思い知る。男女がベッドの上で抱き合って眠っていたなんて、普通に考えれば何を意味するか分からないはずもない。今更ながら、私は羞恥心であたふたとし始めた。
「それは…その…。何と答えて良いのか分からないが…。アリステアが良いのならば…その……、眠る時に手伝ってやってもいい」
「へ?」
「その…だな…。抵抗がないならば…部屋を私の隣に移して…」
つまりそれは一緒に寝るということなのか。まあ結婚するんだし、いずれ寝室は同じになるのだから今からそれをしても問題はないかもしれない……ということで良いのかしら?私としては安心して眠れるのならば拒否する理由はない。結婚前に男女が同じベッドで寝るという行為は浅ましいのかもしれないけれど、やはり私にとって問題はそこではなかった。
「ユリウス様が良ければ是非…!お願い致します」
***
今から思えば大胆なお願いをしたものだと自分に呆れ果てる。ユリウス様が気遣って提案してくれた事に対してあっさりと承諾したのだから。けれどもそのおかげで私は悪夢を見ない日々が続いた。本当にユリウス様はすごい。十何年と悩まされ続けた悪夢は、ユリウス様の抱擁という名の加護によるものからだろうか、私の元に訪れなくなったのだから。
「アリステア…」
「はい…ユリウス様…」
「ええと…その……だな…。抱きつくのはいいが……」
「……はい」
「……いや、何でもない…。気にするな」
ユリウス様は私よりもずっと年上なのに私より年下のような反応をする。それが段々と面白くなって、強く彼に抱き着くことが止められない。薄いネグリジェを纏っている私を必死で見ないようにし、両手を挙げて私が絡みつくのを困惑しながら受け止めている。そんなユリウス様が可愛くて、愛おしくて、私はユリウス様にすっかりと心を奪われていた。悪夢と睡眠をダシにしてユリウス様に近づいていると言われれば本当にその通り。けれどあれ程眠ることが嫌だったのに、今ではユリウス様の胸の中で眠ることが至福の時となった。
「もう十年ほど前になるな。私が騎士団として初めて戦場に出たときのことだ」
最近では、ユリウス様は寝るときにぽつりぽつりと話をしてくれるようになった。
「十年前ってことは、まだ十六歳とかそのくらいですよね?」
「まあそうだな。騎士団に所属したのが結構早かったからな。戦場は想像以上にきつかったから、アリステアの悪夢も理解しているつもりだ。あんなものを毎晩見なくてはならないなんて大変だと思う」
「……でも、こうしてユリウス様の傍で寝ていると何も問題はないです。悪夢の方が寄ってこないんですから」
くすりと笑ってみせると、ユリウス様は照れたように咳ばらいを一つ。
「しかし本当に不思議だ。なぜアリステアがそのような夢を見てしまうのか…。誰かから戦場に出た戦士の話を聞いたりしたのか?例えば家族とか」
「いいえ、ないです。私の家族や親戚の中で騎士団に所属した人はいないですし、幼い頃誰かに聞いたという事もありません」
「だとしたら昔読んだ物語が記憶に残っているとか?しかし幼いご令嬢が戦記ものを読むとはあまり思えないしな…」
「…はい…。ですから、憑いていると言われても仕方のないことだと思っているんです。悪魔のせいで私は苦しめられると思った事もあります。いえ、今でも思っているんですけれど…。どうして私だけって…」
「…あまり考えるな。俺と共に寝ると、悪夢は見ないのだろう?だったら俺を利用すればいい」
その言葉が凄く嬉しい。悪夢を見ないというだけではなく、好きな人の傍で眠れるなんて。こんな幸せを感じた事は何年ぶりだろう。ずっとずっと、このまま続けばいいのに。