173 タテマエとしがらみ
その173です。
「っ……」
ポーカーフェイスと感情の抑制が得意な雪郷も、この瞬間は動揺を意思どおり抑えられなかった。不意を突かれたというのもあるが、それ以上に老人の目の異質さに戦慄したからである。
たとえば、彼の頼れる上司である奥墨は、猛禽類のような鋭い瞳を持っている。彼に睨まれた人間は、大半が緊張のあまり冷や汗が止まらなくなってしまうだろう。
逆に雪郷の目は茫洋としており、相手の油断を誘いやすい。彼はそれを武器として最大限に活用して職務に臨んでいる。
けれど、この老人の双眸は……無理に説明するならば「真夜中の墓場に広がる闇」となるだろうか。成人男性でも「いや、生理的に無理」と逃げ出したくなるような不気味さを発散させていた。
互いの視線が絡んだのは三秒にも満たない。
何事もなかったかのように視線を外し、そのまま老人は部屋を出て行く。と同時に、会議室にざわめきが戻ってきた。
「雪郷」
奥墨の呟きで雪郷は我に返った。掌が嫌な汗で濡れている。人生経験がまだ浅かった高校受験の面接の時でも、ここまで緊張しなかったと彼はゲンナリする。
いつの間にやら二人だけしか残っていなかった会議室で、奥墨は顎を撫でるようなふりをして口元を隠した。
「どうやら、大物釣りができそうな空気になったな」
「引っ張られて海に落とされかねませんがね」
シナモンスティックをかじり始めた雪郷の声は、欠伸も同然の不鮮明さだった。