鯉のぼりのごはん
遠くで風の唸りが聞こえた。生暖かい埃っぽい空気が淀み、ここは暗くて何も見えない。仰向けに寝ている背中が、硬く冷たいものに接していた。確かめようと指で触ると、ヌルっとした感触で悪寒が走り、不安を感じた。
――何も見えない。
足先の方から地面が動いた。重い何かの重力が足の上にかかる。地面にめり込んで体が沈んだ。生コンクリートの中にでも落ちたように、もがけばもがくほど苦しくて、深みに嵌っていく。次第に圧迫が体の上にも及んだ。
――息が……息ができない。
余りの苦しさに目の玉はひっくり返り、白目と黒目がぐるぐる回った。眩しいほどの光が万里の顔に迫る。月が――月の顔を持った男が――万里をこの世から消そうとして首を絞めながら地中に押し込んだ。
――た……す……け…………。
声にならない声を出して叫ぶ。――と、その時、万里は夢から目覚めた。また、あの夢をみた。
久々の休暇を実家で過ごすため、帰省したのだが、悪夢とは離れられそうにもなかった。心の底に沈めて、消したつもりでいた恐怖は何度となく無意識の夢の中に浮かんで来ては、万里に報復した。自分が辿ってきた痕跡を今から修正できればどんなにか良いだろう。どこの曲がり角が間違っていたのか? 一年前に、この部屋の窓から見た光景は、何も変わっていなかった。
一年前も、白い実をつけたナンキンハゼが二階の窓から見えた。
あの日、いつもは気に止めない景色だった。木は寒々と裸の枝をあらわにし、四十雀やメジロが飛んできては、その実を啄む。雲一つない水色の冷たく張り詰めた空、白い花を散りばめたように仮初めの春かと思った。
開け放った窓から入る冷たい風。自分のベッドに腰掛けながら、万里は就職を控えた自分の行く末に思いを巡らした。防虫剤の入ったガラスケースに飾られた市松人形が、タンスの上で黙り込みながらこちらを見詰めている。まるで、この前迎えた成人式で振袖を着た自分と同じ。
――このまま、この家から通勤? そんなのが私の人生?
何時までも親に守られて、ガラスケースに収まっている自分が息苦しくなっている。やはり、防虫剤を投げ捨て、外の空気を吸おう。実家を出て、一人住まいをして自立をしようと万理はあの時決めた。
三月の上旬、大安吉日、曇りのち晴れ。完璧とはいえないが、新しい門出の朝を迎えた。思ったより少ない引越荷物は、トラックの荷台に半分しかない。家電は新たに購入するので、実家から持ち出すものはそれほどなかった。引越しトラックが出発した後、万里は弟のノブと一緒に千葉から東京へと電車を乗り継いで新居に向かった。
弟の暢歩は、万里に「ノブ、ノブ」と気安く呼ばれることを嫌ったが、小さいときから姉にこき使われる運命である。三つ年下の弟は、不平をいいながらも今日ばかりは姉に忠実でいてくれた。
並んで座る総武線の電車の中、日差しを背に受けながら、何か忘れ物がなかったかと思いを巡らせた。そして、気がついた。――引越トラックを見送って慌てて家を出たものだから、母親が手を振って言った声を聞き取り忘れたのだ。
「ノブ、そういえば母さん、何か言っていた?」
「元気で、とか、連絡して、じゃねぇの」
「父さんと母さんに何も言わないで来ちゃったよ」
「大丈夫だよ。たかが、千葉から東京の距離じゃん」
そう、確かに、普通の通勤圏でしかなかった。それでも、友達から考え方が古いと定評の万里にしてみれば、あのナンキンハゼの高い木立から風にのって、精一杯羽ばたいた飛行距離であった。
宮下万里は、両親とノブの四人家族で、皆、健康すこぶる健全、善良な小市民、普通の慎ましい家庭に育った。贅沢さえ言わなければ、子供達は、何不自由なく、大して疑問も、苦労もなく生きてきた。万里は地元の高校を卒業後、保育士を目指して東京の短大に進み、実家の千葉市内から東京の短大まで通って二年、保育士と幼稚園教諭の免状まで無事取得していた。
当然、両親は万里を結婚するまで実家に置いておくつもりでいた。ノブは四月から高校三年生になり、国立大医学部を目指している。きっと大学は遠くにいくだろうと両親は思った。だから、なおさらのこと万里を手放すつもりはなかったのに、策を講じた万里は運良く東京にある保育園に採用され、実家からは通えないことを理由にアパートを見つけ、今日、引っ越しの日を迎えたのである。
それに万里は内心、二つ年上のスグルとの交際も親元を離れて、進展を図れると期待した。彼とは短大一年生の時、合コンで知り合い、偶然同じ高校出身だということで意気投合して、それからつき合っている。彼の実家も千葉で、自宅から東京の有名私立大へ通っていたが、いつでも外泊は自由だし、飲み歩くことも頻繁だ。しかし万里はそうはいかない。デートしても門限の十時には帰宅しなければならなかった。
交際は双方の両親がそれとなく知っているので余計身動きがとれず、二人の関係はあまり進まなかった。また、娘を信じているといいながら、玄関のそばを行ったり来たりして帰りを待つ両親の顔が浮かぶと、万里には男女の関係を一歩も踏み出せないでいた。
そしてそれがいつも喧嘩の原因となった。彼が大学仲間たちに万里を紹介する時も、妹のように扱われて万里は面白くなかった。真っ昼間からラブホに行こうと誘われたこともあったが、何だか汚い気がして嫌がったら、スグルに頭の中までおまえは保育園児だとバカにされた。そんなことも、引越に踏み切った理由といえた。
実家から通える範囲でも就職口はある。今回、両親に大反対されたものの、実現にこぎ着けたのはノブのお陰であった。何故か東京の一人暮らしを、ノブは応援してくれた。
万里は実家の扉を後ろ手に締めて、自立という輝く未来の扉を開けた。
「姉貴、これはどこにおけばいいのさ」
「あ、そのドレッサーはあっちの角において。食器類はこっち。あ、それはこっち」
引越屋はあっと言う間に荷物を運んで帰ってしまった。大きなものは隅に運んでくれたが、部屋のど真ん中に段ボールが積まれている。夕方には四種の神器となるテレビ、冷蔵庫、洗濯機、レンジが届くことになっていた。
ここは東京と埼玉の境、埼玉に一歩入ると一万円ほど安くて広いアパート物件が見つかった。六畳が二間に三畳半ほどのキッチン、その横にトイレとバスルームが別々にある。二階の角部屋は日当たり良好。駅からは徒歩十分。交通量の多い幹線道路から二ブロック入っているので閑静な住宅地の中にある。周りにはおしゃれなブティックもなければ、洒落た喫茶店もないし、千葉の実家よりも買い物には不便かも……。ちょっと物足りない気もしたが、万里に必要なもの――強いて言えば、布団を干す日当たり――それが最低条件だった。職場の保育園は最寄り駅から電車で二つ目の駅で降り、十五分程歩いた所にあった。ドアツードアでも四十分、自転車で通えばきっと三十分もかからないだろう。
初めての独り暮らし。これから園児と戦う毎日なのだから、きっとクタクタになって帰宅するに違いない。辞めようかと思う日もきっとある。しかし、毎朝、窓から陽の光が部屋の中に差し、明るい中で一日が始まれば、それだけで続けられるような気がした。
――出勤まであと一週。
横窓から見えるマロニエの梢が風に揺れ、大きな葉に遮られた陽だまりがキラキラと床に落ちた。万里は手を翳しながらその光の欠片を掴んだ。素敵な予感がそこにあった。
振り返ってノブを見ると、もう片付けにも無関心で、居間のダンボールを端に押しやり、手足を伸ばして寝転んでいる。時計の針はもう午後二時を回っていた。
「ノブ、昼飯食べよっか。何がいい? まだ、この辺調べてないから、ちょっと外へ出よ」
「金、あんのかよ」
「へへぇ。昨日、お母さんから餞別もらっちゃった。その前は、お父さんが内緒だって、お小遣いくれたし……」
「おぉー、いい根性してんな、姉貴は。あんまり親を騙すなよ」
「あんたに言われたかぁないわよ。とにかく今のうち食べとこ。夕方には家電製品が来るしさ。ノブ、今日、泊まっていくんでしょ。何だかんだで夜までかかるしさ」
「おい、まだ寒いぞ。布団、あんのかよ。姉貴と抱き合って寝るのはイヤだからな」
「バカ。布団がなきゃ、あんたは段ボールの中で寝な! ――客用の布団があるから大丈夫よ。ただし、布団をここに敷けるかが問題だけどね」
二人して外に出ると、汗ばんだ体に冷たい風が絡み、二人は思わず上着の前を合わせた。ノブは自分のスニーカーを履かずに、万里が玄関に出したクロックスのサンダルを突っ掛けてきたので、何だか足が寒そうだった。思わず、ノブの顔を見たが、彼は口を尖らせて、纏わり着く枯葉のような動きをしながら、暫く黙っている。
そして、漸く話を切り出した。
「姉貴さー、どうしてスグルに引越の手伝いを頼まねぇんだよ。俺は受験勉強で忙しいのに……。またスグルと喧嘩したのか?」
ノブは痛いところに指を押しつけるようなことを言う。万里にとって、今日、一番話したくない話題だった。
近頃、ノブはスグルとの交際で、万里に意見するようになっていた。それもたいそうな事ではなく、挑発めいている。
ノブは、〈気の強い万里がスグルと付き合うようになってから、気弱そうな身振りをするのが気に入らない〉といって詰る。そんな意味もないことで、時々喧嘩となった。
今年の正月も、万里がスグルの事でムシャクシャしていたものだから、愚痴を言おうと、弟の部屋に突然入った。ノブは受験の参考書のなかにエロ本をあわてて隠したものだから、万里は大声でふざけて〈母さんに暴露してやる〉と騒いだ。すると、ノブは〈いい加減にしろ〉と切り返した。それくらいなら冗談で済んだのが〈姉貴もスグルとエロい事してんだろ。そのうち、遊ばれてポイされるぞ。あんな奴とつき合う女の気がしれねぇや〉などとノブが言ったものだから、万里は悔し泣きで暴れ、家中大騒ぎとなってしまった。
数日後、ノブが一番大事にしていたサッカーボールにネイルアートでデコったのは言うまでもない。だが、おおむね七割ほどは仲の良い姉弟なのだ。
万里は今日、心細さもあって、ノブと言い争いたくなかった。
「別に、喧嘩している訳じゃないけど。なんとなくねぇ。まず、仕事になれるのが先っつうか。一人暮らしなんて初めてだから、きっと大変な気がすんだよね、暫くは人に気を使う余裕ないし。あんたなら、こっちが拝み倒してもまた来やしないでしょ。面倒くさがって――」
万里は、それが本心だった。スグルに会いたい反面、しっくりいかない今の状態に向き合うことを避けていた。自立して彼を見返してやりたい気持ちもあった。ノブはそんな万里の気持ちを悟ったようだった。
「いやー、そんなことないですよ。大切なお姉様なんだから、日当さえ弾んでくれさえすりゃぁ、参上しまっせ」
「ノブ、あんたまさか、おかあさんから引越の日当をせびったりしていないでしょうねぇ」
ノブはエヘヘといって、パーカーのポッケに両手をつっこみながら、万里の前を駆けていった。
広い公園を越えて駅前まで来ると、小さな商店街がある。そんなに栄えてはいないが、日常の生活には困らないだろう。池袋へも電車なら二十分位で出られるので、交通の便はすこぶる良かった。
翌朝、パンとコーヒーで朝が始まる。もう既に十時になっていた。昼にガスの契約で作業員が来るからというと、ノブは頑張れよという言葉を残して帰っていった。
親よりも弟のほうが頼もしく感じられるようになったのは何時頃からなのだろうか。弟はズケズケと遠慮ない言葉を浴びせるので、喧嘩に発展することも多々あるのだが、結構正論を言うので、万里としては、それがまた小憎らしい。まだ高校生なのに小癪で背伸びをしているが、親はノブには何もいえない――言わせないのだ。勉強にも運動にも、親が期待する以上の結果を出しているのだから。
姉弟で同じ公立高校に通い、ノブはいつも成績が良くサッカー部でも目立っていた。それに比べると、万里は自分の地味な過去を思い返すのである。
また、ノブは適当に男女交際しているのに、高校時代の姉の交際相手には口五月蝿かった。それだけに留まらず、万里が唯一、自慢にしている長い髪も、ノブに言わせると顔を隠すためで、言い寄ってきた男達を騙していると非難しては、万里を怒らしていた。
短大で付き合い始めた、スグルとの交際をノブに告げたことはない。が、スポーツ青年のノブには高校の先輩達からの情報が入るらしく、いつの間にか知られてしまった。ノブがスグルのことをよく思っていないのを万里は感じていた。面と向かって反対はしないが、ノブは時々万里に鎌をかけて探りを入れようとした。弟はそれなりに心配してくれていたのだろう。
ノブが帰ると、とたんに寂しくなってスグルの事が心に浮かぶ。
――もう少し落ち着いたら、スグルにも連絡しよう。
万里はこの引越しを機に、彼との関係を進展させたいと思っていた。しかし今夜は、解放感よりも心細さが一入身にしみた。
初出勤の日、万里は保育園の玄関前に佇んだ。脇路は自動車の往来も少なく、近くの学校からは予鈴が聞こえる。反対側には石垣が続き、その上には墓があるのか仄かに線香の香りがした。
静かな朝、胸の鼓動ばかりが耳に届いた。
思い切って玄関の戸を開けると、中から子供の泣き声や話し声が耳に押し寄せてくる。
「おはようございます」
声を出したが反応はない。万里は勝手に横の事務所に入ったが、誰もいなかった。
暫くすると、早番の職員が何かを取りに入ってきた。軽く会釈しただけで、
――あ、新人さんね。園長来るまで適当に待っていて。
部屋を出ながら顔だけ後ろを向いて行ってしまった。
保育園職員の早番は七時四十五分から勤務が始まり、早朝八時から子供を預かっている。平常番の職員の出勤は八時半なので、そろそろ職員も集まる頃だ。万里は、事務所の隅に棒立ちのまま、園長を待つしかなかった。
間もなく、やけに大きな目をした太り気味の女性がキョロキョロと大きな眼を回しながら、周りを嗅ぐように事務所に入ってきた。そのあとは職員が次々と出勤して、次に子供達が続々と登園して来た。玄関は親達の靴でたちまち一杯になった。
保育園の朝は忙しく、園児たちも緊張している。進級する四月は特に、子を預ける親達や子供達にも戸惑いが見て取れた。
その混乱の最中、職員達は八時半に朝礼が始まり、園長が挨拶した。
「今日から新人保育士として、宮下万里さんと児童館から転属になった田中和子さんの二人が加わります。分からない事があったら、先輩に教えてもらって仕事を覚えてください。宮下さんは、幼児のウサギさん二歳児クラスの担当で、高山さんについてください。田中さんは年長五歳児のライオン組です。山本君についてください。あら、山本君は? また遅刻なの。しょうがないわねぇ。わからないことがあったら主任と私に何でも聞いてくださいね。では今日はこれまで。さあさあ、持ち場に戻って」
朝礼が終わろうとした頃、男が事務所に「すみません。遅れちゃって」とペコペコと頭を下げながら入ってきた。他の職員から次々と、ほらー、また遅刻してー、まったくー、と声と笑いがあがり、緊張した空気は一瞬のうちに乱された。園長までもが〈まったくねー、山本君は常習犯で困るわねぇ〉と言いながらニコニコしている。
遅刻した男は新人二人を眺めて、〈こちらは新顔の女性陣ですか? ははぁん。痩せたセーラームーンと肥えたカリメロ……〉そう言い残して再び、さっさとライオン組の保育室に消えた。職員達はクスクス笑って解散となった。
万里はセーラームーン――アニメの主人公で長い髪を左右の耳の上に結い上げている――と呼ばれて腹が立った。以前、スグルにも同じことを言われたことがある。背中の真ん中まで届く長い髪を真ん中で二つに分け、耳の後ろで縛っているからだ。結い目の位置が全然違うのに、男達には分からないらしい。
田中和子はカリメロ――黒いヒヨコが自分の殻を半分帽子のように被っているアニメの主人公――といわれたのに、嫌な顔をするどころか、これから山本と一緒のクラスを担当するので嬉しそうにしている。随分古いキャラクターを言ったものだと思ったが、確かに彼女のギョロっとした大きな眼と太った体の形容が、嫌味のない可愛いカリメロに置き換わるのは、女の扱いになれた男だとも思えた。
あとから先輩に聞いた話だと、山本進、二十七歳、独身。ここに来て三年目の唯一の男性保育士で、かなりの人気があるらしい。
保育園はほとんどが女性の職場だ。ここも例外ではない。最近になって、イクメンと呼ばれ育児をする父親も増えてきたが、まだまだ保育を仕事とする男性は希少価値だった。園児や保育園にとって貴重な存在である。山本はスタイルがよく、顔もまあまあ、性格は優しそうに見える。さらに二十代となれば、例え町中では埋もれる存在でも、園庭で咲く一輪のバラのように目立つ存在だった。一緒に入ってきた和子も〈男がいたねぇ〉とニヤニヤしながら万里に相槌を求めた。しかし、なんだか男ということを利用しているようで万里は気に入らなかった。
主任が〈これで今年の出し物は決まったわ〉と言っていたのも、万里は悪い冗談として忘れることにした。
続々と保護者達が子供をつれて登園している。トコロテンのように玄関から押し出されては保育室が一杯になっていく。スーツ姿の母親や父親が大きな着替えの入った袋を持ち、園児達の手を引いて部屋に入る。園児達は慣れた調子で遊び場を早速陣取り始めた。
親は前日に返された汚れた衣服の補充をロッカーに詰め、子供に〈バイバイ〉と手を振って別れては、仕事場に向かっていく。慌てて走り去る母親の姿をみて、突然泣き叫ぶ子を保育士が抱きかかえている風景がある一方で、我先に大好きなおもちゃを手にして、親にも素っ気なく離れて遊びに夢中の子もいた。
ここはゼロ歳児から小学校前の五歳児まで年齢に応じて、六つの保育室に別れている。幼児と呼ばれる三歳未満の子供は、ゼロ歳児がリス組、一歳児はアヒル組、二歳児はウサギ組に別れ、年少の三歳児はサル組、年中の四歳児はキリン組、小学校前となる年長の五歳児はライオン組と呼ばれていた。各部屋は十分に広く、ゼロ歳児の部屋の横には数少ない産休あけの乳児を受け入れるベットもあった。敷地の奥に、夏に使うプールと広いホールがある。ホールは、卒園式や各種パーティー、お楽しみ会など色々な催しに使われる。全ての保育室から通じる園庭には、小さな月山と砂場があり、片隅には鶏小屋があって、時折鳴き声が聞こえた。ここは職員数も多い恵まれた保育園といえた。
万里は早速、先輩の高山から廊下を歩きながら自己紹介と一通りの説明を受け、ウサギ組の保育室に入っていった。
「ユキせんせー、マサトがねー、いじわるするんだよ。こうやって、こうやって……」
子供達は高山由希子のことをユキ先生と呼んでいる。彼女は〈ちょっと待っててね〉と言いながらアヒル組に顔を出して、〈昨日までアヒル組のお部屋に行っていた人は、今日からウサギ組のお部屋になるのよ。忘れちゃった?〉と言う。アヒル組の部屋で遊んでいた二人が〈まちがえちゃったよ〉といって、自分が成長したことに戸惑いと喜びでモジモジしながら、新しい部屋へ移動して来た。
高山の子供の扱い方は流石に慣れていた。子供達も落ち着いている。これからこの組を持たせてもらえるのだと思うと、万里はのぼせてしまいそうなほど嬉しかった。
子供を引き連れてぞろぞろとウサギ組の部屋に入ると、一人の女の子がエプロンを引っ張り、立っていた万里に言った。
「ねぇ、だぁれ? 先生? それとも誰かのママ? 今日遊んでくれるの?」
高山が万里の方を見てから大声で言った。
「みんな、集まってぇー。席についてね。出席をとります。おもちゃはそのままでもいいよー。お話があるからねー」
子供達は各々自分の小さな椅子の席についた。万里は高山の隣に立っていたが、痛いほど彼らの目線を感じる。
「さてと、私の横にいる人は誰でしょう。私と同じエプロンをしていますねー。みんなの新しい先生です。先生から自己紹介してもらいますので、みんな、お話を聞きましょうね。そのあとで質問してね」
今度は、完全に二十人の子供達と高山の目が万里に注がれた。万里は顔を火照らせて緊張しながら大きく息を吸って、吐くように言葉を紡いだ。
「初めまして。今日からウサギ組の先生になりました。宮下万里です。よろしくお願いします」
頭を下げると、子供達が同時にしゃべりだした。――先生、いくつ――どこから来てるの――いつまでいるの――好きな食べ物は――電車のおもちゃ好き――お歌うたって――庭であそぼうよ――お墓怖くない――僕が教えてあげる……。キリもなく続く質問に、首を左右に振りながら彼女が答えていると、高山がニンマリ笑って水を差した。
「はい、今日の質問はおしまい。また後で宮下万里先生に質問してね。そうだ、マリ先生ってみんなで呼ぶ?」
高山の問いかけに、万里の横でじっと黙っていた女の子が主張する。
「マリちゃんと同じ名前なの。マリはマリちゃんだけだもん」
そう言うと、自分の名前を取られたと思ったのか泣き出してしまった。
隣の男の子が〈マリ先生とマリちゃんは違うでしょ〉と慰める。と、もう一人の男の子が〈じゃあ、ミヤシタだから、ミヤ先生は?〉と提案する。間髪を入れずに高山がフォローした。
「オーケー、じゃあミヤ先生って呼ぼうね。マリちゃんも愚図らないのね。いいですか宮下先生?」
万里は慌てて頷いた。こんな小さな事でも子供たちは真剣だ。二歳の子供がちゃんと理解して主張している。感心している万里を置き去りにして、高山は、スケジュール通りに子供達を誘導する。
「じゃあ、しばらくお部屋で自由時間だよ。時計の短い針と長い針がここに来たら紙芝居するからね。あと四十分あるよ」
そう言って高山は、玩具時計を十時に合わせた。まだ時計を読める子はいないが、部屋にある本物の丸い掛け時計と玩具時計の針を見比べて時間を計ることはできる。毎日の何気ないことでも、この子達は成長の階段を登っているのだ。
万里は子供たちに手を引っ張られ、尻餅をついては、また足に抱きつかれた。長い髪の房は恰好の玩具である。身動きできずにいると、高山が押入からブロックの大きな箱を出してきたので、まとわりついていた子らは、ワーと奇声をあげて走り去り、興味はブロックの組立て移った。
まだ万里の横から離れずに、髪をいじっている一番小さな男の子が言った。
「ミヤちゃんって、かわいいね。女の子だからリボンするといいよ。ユウタね、髪の長い子好きなの」
「そう。ユウタ君、ありがとうね。先生より、ユウタ君のほうがかわいいよ」
そういうとユウタは小首を傾げた。
この子はまだ二歳と三ヶ月。ウサギ組の月齢で一番幼い。万里が短大受験した頃に生まれ、保育士の資格を取る間にこれほど成長してしまっている。
「おしっこしたい人は言ってね。自分でいけるかなぁ」
高山の声がした。万里はユウタに尋ねた。
「おしっこ大丈夫? 一緒にトイレ行く?」
するとユウタはモジモジしながら黙って万里の髪をまだ触っている。高山が万里に目で合図した。案の定、ユウタはお漏らししていた。
「大丈夫だよ、ミヤ先生にお手伝いさせてね」
万里はやっと自分の役が登場したようで、ほっとした。
二歳児では、まだトイレに間に合わず、お漏らしをしてしまうことも頻繁にある。そのため、親は清潔な着替えと汚れ物入れ袋を、常に子供のロッカーに用意しておく必要があった。子供が遊んで汚したり、お漏らししたりすると、保育士はそのロッカーから取り出して着替えさせ、汚れた下着や洋服は袋に入れて、各自の持ち帰り手提げバックに入れる。お迎え時に親はその手提げバックを毎日持って帰る。体が汚れてしまった場合には保育園のシャワー室で体を洗う事もした。
自分でズボンやパンツを下ろしてトイレにいける子もいるが、子供にとってズボン上げ下げは難しい。同じクラスであっても月齢の差で、できる事とできない事は異なり、また日を経るごとでも異なる。昨日できなかった事が、今日できるようになった時の喜びを、子供が味わえるように導く。親の代わりではなく、あくまでもプロの保育士としての目線で接することが求められた。
子供達の昼食も終わり、午睡の時間がくると、保育士は自分達の昼食時間となった。早番、平常番、遅番の職員全員が揃うので、仕事の引継や連絡事項などのミーティングも行われた。
受け持ちの子達が午睡している時が唯一、気の休まるひと時なのだが、それでもやることは山ほどあった。
各保護者に子供がどのような一日を過ごしたかを知らせるための連絡帳を書く大変な作業が待っている。――その子がした遊び、体調、友達とのやりとり、話した言葉、出来るようになった事などなど――何か一つでも書くように高山は心がけた。
気に掛けて子供を見ていることが伝わらないと、親達とも信頼関係が築けない。それに、子供を定時の五時に迎えに来ることができない延長保育を希望する親達には、時間内に面倒をみている平常番の職員と会えないことがある。夜七時まで延長すると、子供達は混合のクラスで遅番の職員が世話をすることになり、クラス担当の職員ではなくなるのだ。そのために余計、連絡帳にはその子の一日の様子を、短く丁寧に書くようにした。
二十人分の連絡帳を記すには一人一分の配分でなければ間に合わない。それが何よりも、歯がゆかった。どう考えても、二十人のクラスを見るには二人以上の担当保育士がいて、さらに補助がつくのが望ましい。まして二歳児のウサギ組には誕生月による差異は大きく、怪我も注意しなければならない。高山は万里が早く慣れることを心底望んだ。連絡帳を二つ手渡しながら言った。
「はい。ユウタとマリの連絡帳。書いて」
「いいんですか? 私が書いて」
「担任の仕事でしょ」
そういうと高山は脇目もふらず、次々と連絡帳をこなしていった。
やっと一日が終わり、万里は自分のアパートに帰ってきた。体の疲れより、精神的な緊張のせいだ。縮こまった体が重石を外されて水分を吸い、膨張して鈍く崩れていく。ベッドの上に体をドッサリと捨てた。もう動く気も起こらない。タマネギのように体の服を脱ぎ捨て、ベッドに潜った。
目を瞑ると瞼に子供達の顔が浮かんだ。笑顔や泣き顔が心に飛び込む。今夜は寂しくなかった。
きっと、この仕事やれる。万里はそう思った。
毎日色々なことが起こる。熱がでたり、吐いたり、お漏らしは日常茶飯事で、話が上手になってくると、個性も出てくる。聞き分けの良し悪しも、その日の体調や家庭での状況に左右される。
万里は二週間経って、何とか少しずつ仕事のペースを掴めた気がした。が、子供達をかわいいと思う反面、手がつけられないほど泣かれたり、反抗されると、自分の中で困惑してしまい収拾がつかなくなる。
先日も良い天気で公園に行こうとしたら、一番月齢の大きいマサトが朝から愚図った。その日は運動場に行く予定なのに、なかなか出発できなかった。
園の周りには公園がいくつもある。園児たちを外の広い公園で思いっきり運動させることはとても大切だった。週末に学生や大人で集うその運動場は、週日の午前中、園児たちの貸し切りになる。グランドの芝生には蝶や小鳥達が遊びに来る。ゴロゴロ寝ころんでも、駆けても、大声を出してもかまわない。子供達がとても喜ぶ場所だった。
だが、クラスのみんなが園庭で集まっているのに、マサトは大泣きで座り込んでしまった。万里がいくら宥めて手を引いても、泣いてひっくり返ってしまう。まるで疳の虫がおこったようで手がつけられなかった。熱もなく、さっきまで部屋で遊び回っていたのに――
すると高山はマサトに言った。
「マサト、そんなに行くの嫌だったら、お部屋に戻って遊びなよ。サキちゃんもお熱がでたから、お留守番しているし、佐伯先生が一緒だよ」
それを聞くとマサトはまた火がついたように泣き、今度は部屋に入ろうとしない。高山は知らん顔して出発した。主任の佐伯も園庭に出てきて様子をみていた。万里はマサトを主任に頼んで園児達の列の後尾についた。
マサトは置いてきぼりにされた事でまた腹を立て、主任の手を振り解いて泣きながら付いてきた。しゃがんでは置いて行かれ、追いかけてはまたしゃがみ込む。
それを見て、小さいユウタが言った。
――マサト、何で泣くの。きっとお部屋でもっと遊びたかったんじゃない。
すると横にいたミチルが怒ったようにいう。
――そういうの、ワガママっていうんだよ。ママがいつもそういっているもん。
ユウタは、何時ものように小首をかしげて言う。
――でも、泣かなくてもいいんじゃない。
二歳児たちの談義が五人乗りの大きな乳母車の中で行われた。
高山はニタニタしながら聞いていた。しかしマサトを無視し続けた。マサトは泣き疲れ、横断歩道で万里がダッコするはめになった。すると今度はしがみついて降りようとしない。そんな状態で運動場に着くと、マサトは水に放った魚のように、ケロッとしてみんなと蝶を追いかけにいった。
高山は万里に
「ほらね。あいつアマノジャクなのよ。家で親が甘やかしていて自己チューだから……。保育園で少し協調性を養ってもらわないとね。ミヤ先生、子供達に負けると大変よ。まだ、ウサギ組はかわいい方だけど――」
万里は、はぁと相槌を打ちながら、ころころと天気のように感情の起伏があったり、自己主張する子供を面倒見るのは至難の技だと痛感した。
その日はさすがに子供達もすんなりお昼寝に入った。万里は既に半分となる十人分の連絡帳を書けるようになっていた。名前を覚えて、一人一人注意して見ていると色々なことが見えてくる。友達同士の会話も成り立っているが、いまいちピントがずれることも多い。それでも子供達は自分が発した事に相手が返してくれるだけでコミュニケーションが成り立つ。また、思いがけない表現が飛び出す事もある。悔しさも悲しさも、そして相手への称賛も表現できるようになってきていた。大人がいつしか失った感性を垣間見て感激する事さえあった。万里は、その感動を短い文章で連絡帳に書き記した。
連絡帳の家庭欄には家での様子、親子の会話、悩み事、苦情など細かく書いてくる親がいる。交換日記のように、状況を知らせてくる親とは意志の疎通が成り立った。しかし連絡事項を書いても、見ないでそのまま朝、連絡帳を提出する親が何人もいるのは心外だった。それは子供への無関心さにも思えた。そして子供の着替え、手提げ袋、体のケアなど、あらゆるところにその無関心が見え隠れしていた。
連絡帳を書き終えると、高山が万里にコーヒーを持ってきて聞いた。
「どう。ミヤ先生。慣れてきた?」
「慣れたというか……。なんだか自信なくなっちゃって」
「ふふ……、やるまえから自信あったの?」
「いえ、そういうわけじゃ……。そういえば、ユキ先生、結婚なさってるんですよね。お仕事と家事、大変ですね」
「私、子供もおります。ふふ。自分の子を他の保育園に預けて、他人の子の世話してるなんて、バカみたいでしょ」
「いえ、そんな……。でも、保育士していると、そういうことになるんですよね、将来私も……」
「そうよ。自分の子を他人任せにして、他人の子を育てるの――うちの旦那にも笑われた。でも、きっとその方がいいと思う。保育園だと、いろんな遊びさせているけど、母親一人の力じゃ、こんなに毎日刺激的なことできないもの。保育園に来れば遊び仲間がいて、おもいっきり遊べるしね。家じゃ、どろんこ遊び毎日されたらたまんないよね」
「お子さん、何歳なんですか?」
「実は、同じなの。ここのウサギさん達と。四月生まれだからマサトと同じくらい」
「じゃあ、かえって、お子さん思い出して寂しくないですか」
「ちょっとね。マサトを見ていると、うちの啓太も同じようなことやっているんだろうなって思う。だからマサトに厳しくなっちゃうのかな。――私、自分の子育てしないで何やってんだろうって、時々思うの。働いていると一緒の時間が少ないから。家では息子をつい甘やかしたり、感情的になったり――普通の親よね。きっと、この子達の母親も仕事をしながら悩んでいると思う。子供に無理させて、仕事を優先していいのか、なんてね。私達保育士って、保護者から子供と一緒に、かけがえのない時間も託されているんだと思う。――でも母親の代わりじゃなく、保育士としてね。私、ここで子守歌を歌わない事に決めているの。母親の領分を侵さないという私流の線引き――私の子守歌は啓太の為だけに歌おうって。息子に対する義理もあるし。ふふ、バカみたいでしょ」
高山は、ふっと、小さなため息をつき、手は既に業務日誌を書き始めていた。部屋は子供達のリズミカルな寝息が静寂のなかに流れた。窓から見える園庭は、このところ雨が少ないせいで砂は乾いて舞っている。花壇のチューリップが歌うように揺れていた。
万里は自分の知らない母親の心を想像した。だが、連絡帳もないがしろで、着替えも持ってこない親が、果たして子守歌を歌うだろうか。その答えは分からなかった。
四月の半ば、ウサギ組には女の子が入園してきた。突然のことだったが児童福祉相談所からの入園養成だった。これで受け持ちは二十一人となった。
その翌朝はいつもと違う空気が漂った。登園した母親達が集まってヒソヒソ話をしている。会社勤務の親に子供の様子を聞こうと思っても、捕まえるのが大変で、あっと言う間に子供を置いて去って行ってしまうが、自営業の親は、職員と話す余裕があり、その日もコンビニ店を経営しているサキの母親が万里に声をかけた。
「ねぇ、ミヤ先生。昨日入ってきたトモミちゃんて子の事だけど、うちのお客さんがね、あの子と同じ保育園だったらしいの。こっちに移ってきた理由は、母親がそこの園長を殴ったんですって! 園長すんごく怒って……。あの母親、評判悪いのよねぇ。子供ほったらかして遊んでんだから。でも注意したりすると暴力ふるうでしょ。男の園長殴るなんてねぇ。――先生も注意したほうがいいわよ。母子家庭で生活保護もらって、働いていないのよ。どう見たって働けるのにね。この前、うちの近所の飲み屋で夜中まで飲んでいたし、子供ほったらかして、どうして遊べるのかしらねぇ」
万里はその場を軽く会釈して退散した。母親達が帰る前に登園時の子供の様子を観察しなければならない。先ほどの噂話も気になったが、忙しい仕事はもう始まっている。それに、園長からは、職員は各家庭の個人情報に守秘義務があることを指導されている。母親達の話の輪に入らないようにして、万里は今日のスケジュールを確認した。
噂のトモミが母親と一緒に登園してくると、親たちの固まりは蜂の巣をつついたようになり、それぞれ帰っていった。
万里はトモミの母に挨拶をした。
「おはようございます、トモミちゃんの様子はどうですか」
尋ねたが、〈普通〉という答えしか返ってこなかった。トモミはすぐおもちゃを取って遊び始めた。母親には昨日、着替えのストックをしておくようにと連絡帳に伝えおいた。それは読んでくれたらしい。持ってきたゴミ用のビニール袋から着替えを出してロッカーに詰め、帰っていった。
トモミの件は問題視せずに受け入れた。子供の育成に支障がある場合には問題とするが、園以外の家庭に関することは管轄外として、耳を塞ぐ必要を万里は感じた。このクラスにいる間、子供達は同じ環境で学び、同じ玩具で遊び、同じものを食べ、同じ喜びを感じて欲しかった。
登園してくる親達は、勤めながら保育士と自転車操業しながら育児をする。その苦労をお互い共感している。だから、その分、働けるのに働かないで子供を放置しているとなったら、当然親同士の評価は厳しくなる。この公立保育園では、親の収入に応じて園に支払う金額にも随分の差があり、その不公平感も拍車をかけてしまうだろう。
知らない家庭の姿がそこにはいくつもあった。子供が置かれた環境のあまりの相違に、内心、動揺していた。毎日行き帰りに持つ手提げバック一つを取ってもそうだ。可愛いアップリケのついた物を作ってもらった子もいれば、シワシワになった白いスーパーの袋を持ってくる子もいる。そんな些細なことさえ、万里の心に冷たい風となって吹き込む。しかし、子供達に親を選ぶ選択はない。また、どんな親でも、子供にとっては愛する対象なのだということ。そこには、何人たりとも割り込めない神聖な領域なのだから……、と万里は思った
端午の節句が近づく下旬になると、園長が庭のポールに鯉のぼりを建てた。金色の矢車の下に五色の吹き流し、黒い真鯉と赤い緋鯉、青い子鯉が次々と高く登っていく。テラスに出ていたウサギ組のなかから黄色い声でユウタが叫んだ。
「キャッ、鯉のぼりだ! ねー、ミヤちゃん、あれ鯉のぼりでしょ!すごいなぁー。おっきいね。公園のコイみたいだねー」
ユウタは興奮した。赤いホッペで飛び跳ねながらくるくる回っている。小さい人差し指を指揮者のように振りながら「鯉のぼり」と何度もみんなに教えていた。
しかし、三匹の鯉のぼりと吹き流しは風が無くてなかなか泳がず、ダランと垂れ下がったままだった。いつの間にか他の子達は泳がない鯉のぼりに飽きて、おままごとを出したり、電車で遊び始めたのに、ユウタはテラスの手すりに捕まり、ずっと鯉のぼりを眺めている。
「ユウタ君、遊ばないの?」
万里が話しかけると、ユウタは「鯉のぼり見てんの!」といってずっと眼を離さない。行ったり来たりしながら、それでもずっと手すりのそばを離れずに鯉のぼりを見ていた。
「鯉のぼり、泳がないね。今日は風が弱いかな? 残念だね」
万里がそう言うと、ユウタは両手を大きく動かして、
「こいのぼりさん、元気ないね。僕、こうやって動くの、見たよ。おっきかったよ」と言って風を腹に吹き込んで勢いよく空を泳ぐ鯉のぼりを手で描いた。
高山が「さあ、園庭に出て遊びましょう」と声をかけた。
皆、慌てておもちゃを片付け、奇声をあげながら庭の砂場に走った。持てるだけの水をバケツに入れ、砂場に運ぶと、あっと言う間にどろんこ遊びが始まった。
「トモミちゃん、こっちおいで」
万里は庭からテラスに立っていたトモミを呼んだが、イヤイヤをして庭に出なかった。高山がコンビカーを一つ庭の納屋から持ち出してきて、トモミに話しかけた。トモミはやっと遊び始めた。だが、まだ一言も声を出していなかった。
園庭には、一番大きなライオン組の子供達がすでに出ていて三分の二は占領されていた。ライオン組の担任の山本と和子も出ていた。
ユウタは最近気に入っていたショベルカーのおもちゃを納屋に取りに行ったが一つも残っていなかった。がっかりして砂場の縁に座り、三つ年上の男の子がそれを使っていたのをじっと見ていた。その子が友達に呼ばれ、砂場を離れると、恐る恐るショベルカーにそっと手を伸ばして取った。万里は「ユウタ君、よかったね」というと、コクリと頭を縦に振って緊張していた顔が笑顔にかわった。
日だまりの中、子供達の時間がゆっくりと流れていく。混み合った通勤列車の中や働く会社の中に流れる大人の時間とも違って、まるでふわふわとした、甘い砂糖菓子を舐めた時のような、終わることを信じたくない永遠の時間。それは天使の時間であった。
夕方、五時頃になるとお迎えの保護者が来始める。トモミの迎えには、小学二年生の美雪が来た。美雪は慣れた調子で万里に言った。
「篠田美雪、トモミの姉です。妹を迎えに来ました。トモミの汚れ物はどれですか?」
そういうと、さっさと支度をして妹の手を引いて帰ろうとした。
「美雪ちゃん、お母さんはお迎えこられないの?」
「はい。ママはまだ家に帰ってきていないから。私が迎えにきたの」
「お母さんは美雪ちゃんが来たこと知っている?」
「うん、大丈夫。いつもそうだから」
トモミの手を強く引いて、「さあ、行こう」と出ていった。
このことを高山に伝えると、園長にも伝わった。万里は不安を抱えながら、子供が子供を世話する状況を受け入れた。
高山は自分の子供を保育園に迎えに行くので、毎日慌ただしく帰った。万里はいつも寄り道をせずに帰っていたが、その日、和子と帰りが一緒になった。駅に近づくと、和子は夕食と称して万里を居酒屋に誘った。万里は二十歳になったばかりで酒には弱かったが、四歳年上の和子は豪快に飲めそうだ。
その店は薄暗く、他には一組だけしかいなかった。和子は慣れた調子で注文した。
「私、以前児童館だったでしょ、だから、よくこの辺来ているのよ。前は、小学生児童と園児の差は大きいね。ちょっと今、自信喪失かな?」
和子は聞かれる前に、自分の状況を話始めた。
「なんかさあ、あの山本進、やり辛いのよねぇ。私、ストレス溜まっちゃって」
「えー、だって和子さんは進先生と一緒になったって、喜んでいたじゃないですか。何かあったんですか? イヤミっぽい事、すぐ言いそうですよね、あの人」
あれほど喜んでいた和子が一ヶ月も経たないのに意見を翻したので、万里は返って興味がわいた。
「別に、これといって意地悪されたわけじゃないんだけど……。男だから力もあるし、ライオン組みたいに大きくても抱き上げたり、肩車できるから人気あるのよね。私は同じことできないし――あの人、人気は独り占めなのよ」
「でも、同じになる必要ないですよ」
「――そう、そうよね。男って細かいところ、気づかないじゃない。だから、元気な子で進先生に寄っていく子もいるけど、内気な子は近づかないのよ。それにさぁ、ビーズや工作なんか、全部作業がこっちに回ってくるの。派手なところ取られちゃって、こっちはいつも裏方ばかり。新人だからしょうがないけど、何か、損な気がしてね」
「進先生はここで何年も勤務しているから、あんまり迷いもないんですね。男の職員がもっと沢山いたら違う雰囲気なんだろうなぁ。私はユキ先生でよかった。和子さんも色々大変そうですけど。飲みましょうよ。今日は」
「そうそう。こんなに忙しいんじゃ、恋人作る暇もないよね。でも、ねぇ、万里ちゃん、いるんでしょ。万里ちゃん可愛いもん。つき合っている人いるんだろうなぁ」
「いーえ、いないです。私、短大の友達から、『化石』って言われてるんです。考え方が古すぎるって。今は仕事で手一杯。今のところ、私の片思いはユウタ君です」
「あはは、二歳児に片思いですか」
万里はまだ、引っ越し先も教えていなかったスグルの顔が浮かんだ。
――今、二人の距離があまりにも離れてしまっている。まだ、何も進んでいなかった。ドキドキして、電流が走って腰が抜けそうになった彼とのキス。彼に触れられる体の悦び。これ以上の付き合いが自分をどんなふうに変えていくのだろう。自分の体のなかの欲望が押し寄せてくるようだ。自分が自分でなくなるように……。でも、もう少し、自分で覚悟ができてから……。
万里がチビチビ飲んでいる間に、和子は三杯目の中ジョッキを平らげていた。大きな眼はトロンとして普段の半分になっている。もう九時をまわった。明日の準備もする必要がある。
「和子さん、大変。こんな時間よ。また明日仕事だから。ね、今日はこれまで」
そういって、何とか和子を切り上げさせ、別れて帰った。
翌朝、万里は頭痛を抱えながら子供達を迎えた。やはり、アルコールは苦手だ。
親達はいそいそと職場に向かう。子供達は保育園に入った途端、スイッチがカチッと音がするように保育園モードに変わる。いつもと同じ風景。同じ毎日の繰り返し。これがもし、一年を掛けて作品を作り上げるような仕事だったら、仕事の結実は分かりやすいものだろう。だがこの仕事は何を形作るのか。万里はまだそれを見いだせないでいる。
晩春の風は花の香りを乗せて子供達をそそのかす。万里はサッシの戸を開けて言った。
「さあ、今日もお日様いっぱいだよ。お庭で遊ぼうね」
みんなは靴を履いて園庭にでた。
今日は高山の息子が熱を出し、高山は休暇を取っていた。代わりに主任がサポートに回ってくれた。万里は全員の状態を観察しながら見守った。鼻血を出す子、お漏らしをする子、トイレに誘っても、「出ない」といって行きたがらずにお漏らしをしてしまう子達。
少しずつ毎日の繰り返しから、下ろしたズボンを上げられ、出来ることが増えてくる。おもちゃの取り合いで子供同士の衝突は日常茶飯事だが、喧嘩することで他人との関係を覚えていく。
万里がみんなを観察しながら頭痛で米かみを抑えていると、マサトが近づいてきた。
「ミヤ先生。ハイ。コーヒー」
泥水をプラスチックのコップに入れて持ってきた。
「マサト君ありがとう。おいしそうにコーヒー入れられたね。ゴクゴク」
万里はコップを近づけて飲む真似をした。
「マサトのママね。コーヒー好きなの。パパはココアが好き。ぼくも」
マサトとテラスの端に座りながら、日差しの中で、のんびりと会話した。マサトは三歳になっているので、指先の動作が他の子より上手になっている。今日もユウタが自分で帽子をかぶれなくて困っていると、マサトがちゃんと直してやっていた。ここには遊び場だけでなく、子供の社会が築かれている。
万里はウサギ組の目印である水色帽子を確認する。外に出る時に被る帽子は園児の組み分け帽になっていた。眺めると何やら築山の向こう側で水色の帽子が四つ。おとなしくしゃがんで円陣を作っていた。万里は邪魔しないようにそっと近づいた。四人の真ん中には色々な泥砂で固めた作品が並んでいる。
「なにしてるのー。楽しそうだねぇ」と万里が言うと、ユウタが答えた。
「『鯉のぼりのごはん』作ってんのー。元気ないから」
「ミーちゃんはね、プリン作ってあげたんだよ。ほら見て」とミチル。カズヤは「ほらね、まん丸のたこ焼きだよ」といって上手に小さい泥団子をいくつも作っていた。
「サキはね、赤い実を取ってきてあげたの」
「ユウタはお芋。焼き芋だよ」
どの子も笑顔でいっぱい。誰が言い出したかわからないが、鯉のぼりの元気のなさが気になるらしい。
「みんなで作ったの? すごいご馳走だね。これ、鯉のぼりさん喜ぶね」
万里がそういうと、ユウタは人差し指を掲げて上を眺めた。風を待ちくたびれた鯉のぼり達は、まだポールの横にダランとぶら下がっていた。
「鯉のぼりさん。お腹空いてぺっちゃんこだよ」
ユウタが寂しそうに上を眺めている。
「さあ、手を洗ってお部屋に入ろうね。みんながここにいると、鯉のぼりさん、ご飯食べられないよ。みんなもお腹空いたでしょ。お昼ご飯だよ」
万里は時計を見て、みんなに手を洗って部屋に入るように促した。カズヤは自分の作ったご飯に後ろ髪を惹かれながら、ユウタに聞いた。
「鯉のぼりさん、僕達いると、どうして食べられないのかな?」
するとユウタは分かったように断言した。
「恥ずかしいんじゃない。食べっこするの」
子供達の会話は河の流れのように、次から次へと想像が膨らみ、現実と空想の行き交う美しい世界に流れ着く。そのごちゃ混ぜの中で、不思議と自分なりに論理だて、結論を導き理解しようとする。万里はこの、消えゆく一瞬の会話が好きだった。駆け引きもなく、威圧も不実もない。成長する過程でシャボン玉のように消えていく言の葉。それは虹色に輝き、何故か大人を幸せにした。
翌日も高山の息子は微熱が続いていた。
「今日は旦那に見てもらっているの」といって出勤してきたが、やはり息子の具合が悪いらしく午後には早退した。帰り際に高山は言った。
「今週は無理かもしれないから、早めの連休を取ることにしたの。ミヤ先生、お願い。一人で連絡帳書くの大変だと思うけど、主任がヘルプしてくれるから――何かあったら直ぐ相談して」
といいながら、高山は既に保育士の顔から、子供を迎えに行く母親の顔になっていた。
幸い、五月連休のため園では人数も少なく、主任がサポートしてくれたので、何とかこなした。高山から信頼されたのはうれしいが、内心、人数が少ない時期で本当によかったと万里は思った。
その日も『鯉のぼりのごはん』がウサギ組の遊びになった。散歩に出て、公園から久留米ツツジの落ちた花を持ってきては、ツツジのケーキを作ったり、白木蓮の分厚く大きな花びらは押し潰してお煎餅になった。子供達は次々と食べ物を連想して草や花で泥遊びを変化させていった。主任と万里は、こどもの日まで続くだろうと予想した。
問題が起こったのは、連休前の月曜日の朝だった。連休なので続けて休暇を取る家庭も多く、保育園は半分以下の人数で庭は閑散としていた。
泥んこ遊びの嫌いなトモミが、珍しく庭に出ていた。いつもは服が汚れるから嫌だと言って砂場にあまり近づかない。保護者には子供達が遊びやすいようにと、女の子でも半ズボンやブルマーで、上下別れているものを着用するようにと伝達しているのだが、トモミはダブダブのワンピースが多く、大きさも形も二歳児が着るようなものではなかった。しゃがめばスカートの裾は泥だらけになってしまうし、着替えはいつも足りなくなった。園で用意している保育園の『保』の字に丸印の丸保を書いた下着や服で補っていた。それらは洗って返してもらうのが約束だが、トモミが入ってから今までの倍の丸保が必要となった。仕方ないので、保護者にお願いして、いらなくなった洋服や下着を寄付してもらっていた。
トモミは既に丸保の上下に着替えている。築山の向こうで『鯉のぼりのごはん』作りに参加していた。今日のごはん作りはマサトとトモミの二人で、他の子はコンビカーでの競争や、色水作りをしていた。
万里がまた築山のほうの水色帽子に視線を移した時、突然、マサトが立ち上がり、後ずさりした。蜘蛛でもいて驚いたのかと思っていると、マサトが万里に何か言いたそうに、こっちを向き、そのまま呆然とした様子で立っている。トモミはまだしゃがんでいた。万里は二人が何を作ったのか見に行った。
「『鯉のぼりのごはん』上手に作れた?」
立っていたマサトの顔を覗くと、動揺したように半ベソをかいて言った。
「だって、トモミちゃんが、サラダ食べちゃったの。僕は、ウサギさんの好きな草とツツジをまぜまぜして……。こうやって……。でも、食べちゃいけないんだよ、これ」
マサトはハコベと園庭から取ったツツジの花やタンポポの花びらなど、色鮮やかなサラダを作り、皿に盛りつけていた。トモミは顔を上げて万里の方を見た。何も問題がなさそうなので、万里はマサトに言った。
「マサト君が作ったサラダは鯉のぼりさんのごはんだから、トモミちゃんが食べちゃだめだったのね」
そういいながら、再び振り向いてトモミをみたら、トモミは両手でサラダを鷲づかみにして、口に放り込んだ。むしゃむしゃと食べている。慌てた万里は、トモミの口の中に指を突っ込み、吐き出させようとしたが、トモミは口を開かない。トモミは出すのを嫌がり、万里の指を思いっきり噛んだ。それを見てマサトが言った。
「ほらね。本当に食べちゃったでしょ」
トモミはひっくり返って大泣きした。万里はトモミを抱き上げ、マサトの手を引いてテラスに入った。保健室にトモミを連れて行き、看護士に訳を話して看てもらった。トモミは何を聞いても泣くばかりだった。
しゃくり上げながら、トモミは万里に抱きついた。
「トモミちゃん、『鯉のぼりのごはん』はね、おままごとのご飯だから、食べられないんだよ。お腹痛くなっちゃうよ。なぜ食べたの?」
トモミは親指をしゃぶっていたが、万里がそおっと離すと、ポツリポツリと話し始めた。
「トモちゃん……お腹すいたの……。食べたいの」
「朝ご飯食べてこなかったの?」
「お姉ちゃんのチューチョクパン、ないの……。お腹すいた」
トモミの言っている意味が分からず、朝食を食べてこないのだと思った。まだ、十時になったばかりで、昼食までは時間がある。万里は、自分で昼に食べようと思って買ったカレーパンと、牛乳パックを調理室から貰ってきてトモミに食べさせた。彼女は夢中になって食べる。ゆっくり食べるように諭しながら聞いた。
「トモちゃんのお昼は保育園で食べるでしょ。チューチョクのパンって、なあに?」
「ガッコーの。ジャムつけるの」
ああそうか、給食のパンか。万里はやっと分かった。どうやら、姉の美雪が残した給食のパンを家に持ち帰り、食べたことを言っているのだろう。
「そう、いいね。ジャムつけると、おいしいね。トモちゃんは今日、ママと一緒に朝ご飯食べてこなかったの?」
「ママ……トモちゃんおっきちて……いたの。トモちゃん、チューチョクパンなかった……」
「ママは朝、ご飯作ってくれなかったの?」
「……。お姉ちゃん……ガマンって……」
トモミは口一杯に頬張って、取られまいとしているかのようにパンの袋をしっかり握っていた。
「――そっか。えらかったね。トモちゃんはお利口さんだね。これ食べて、もう少し遊んだら、お昼になるからね」
また万里の知らない家族の姿がそこにあった。小学二年生の姉の美雪は、小学校の給食のパンを持って帰って、親が食事を与えてくれない時、トモミに食べさせていたのだ。土日の休みには学校の給食が手に入らない。だから、月曜の朝は食べるものがない。母親は朝帰りで朝食も作らず、保育園に連れてくるのだ。
トモミは全部食べて満たされたのか、万里の胸のなかでウトウトしていた。まっすぐに伸びたおかっぱ頭の髪が寝癖で絡まっている。朝の洗顔もしていないのだろう。白い涙の跡がホッペでガビガビに乾いていた。
育児放棄の母親なのか。それとも、稀に気を抜く程度のことなのか。万里は無償に腹が立った。トモミが入ってきて二週間ほど経ったが、トモミの母親は、すべてに対していい加減だった。入園してからまだ日が浅いのに、おしっこの臭いがする日が何度もあった。家でお漏らしをしても着替えさせない。それとも入浴をさせないのか? 室内遊びで余り汗をかかない時でも、高山がトモミを必ずシャワーを浴びせていたのは、万里の気づかぬところで小まめにトモミをケアしていたのだ。
今日は高山が休んでいる。万里はためらったが、食事を抜いていること、入浴ができていない事などを主任に相談した。主任は、万里の思いとは裏腹に、感情的にならないようにと万里を制した。母親に注意するとは言ってくれなかった。万里は主任が事務的でトモミに冷たい気がした。
『鯉のぼりのごはん』の遊びは、連休明けに園長が鯉のぼりを降ろして幕を閉じた。しかし、トモミの『鯉のぼりのごはん』は続いた。毎日でないにしろ、朝、母親が帰ると、万里のエプロンを引っ張ってそっという。
「『鯉のぼりのごはん』ちょーだい」
万里は余分に買ってきた自分の昼食を与えた。
職員ミーティングでもトモミの母親の怠慢を話題にした。しかし、結局、様子をみることになった。万里は、返事のない連絡帳を空しく思いながらも、トモミのことを書いた。十分気を使って、母親が怒らない程度に朝食を食べさせてから登園するようにお願いした。
――最低の母親。
非難も書けず、声なき声を余白の穴に掘って埋めた。
授業で児童虐待、ネグレクトを学んではいたが、間近にその現実があるとは思わなかった。自分ではどうしようもない鉛のような塊が万里の心の中を沈んでいく。それは生臭い臭いがした。
連休が終わると、高山と休みをとった子供達も登園するようになり、うさぎ組は全員揃った。
子供達の『お祝い子供会』がその週の金曜日に催され、ホールでは先生や年長さん達の合唱の後に、全員そろって会食パーティーが行われる。ウサギ組のテーブルにはみんなの顔が並んだ。興奮気味で泣く子も喧嘩する子もいない。各テーブルには、バイキング形式で色々な食べ物が華やかに飾られ、子供達は行儀よく、自分の好きなものを皿に取っては、食べていた。最後にはデザートのメロンとケーキが運ばれた。ユウタは「メ~ロ~ン。メ~ロ~ン」と大好きなメロンを前に体を左右に揺すって踊っている。トモミは、驚いたように眼を大きく開けて、喰らい付いていた。主任は子供達の笑顔を沢山、カメラで捉えていた。
万里は食事の後、皿に残ったものを見た。みんなに配るほど残ってはいなかったが、調理の職員にお願いして、残りのプチパンとクッキーを袋に入れた。
その日の夕方、トモミの姉の美雪が迎えに来た。万里は残った食べ物袋を美雪に渡した。美雪は一瞬、手を引っ込めたが、万里が、〈みんなに持っていってもらっているのよ〉と言うと、美雪は〈いいんですか〉と恥ずかしそうに、でも嬉しそうにぺこりと頭を下げた。
美雪はその日、学校の給食パンの残りを確保できなかったのだ。トモミが休日に空腹で愚図るのを思うと、気が重かった。自分の空腹より辛かった。
学校給食がご飯の時は、先生が残ったご飯をおにぎりにしてくれるので、トモミの分まで持って帰った。パンは配膳を片付けた後、食べなかった子や休んだ子の残ったものを持って帰っていた。先生に見られても、先生は〈残った物だからいくつでも持って帰っていいよ〉と言ってくれた。
だが、今日、同級生にパンを取るところを見られてしまった。
彼女はそのことを不思議そうに尋ねた。
「その残ったパンどうするの」
咄嗟に美雪は答えた。
「鳩にあげるの。こんなに余ってるんだもの」
彼女は〈ふーん〉と言って、離れていったので、やり過ごせたと思っていたのだが、甘かった。
帰り道で二人のさっきの彼女がもう一人の同級生を連れて近寄って来た。
「ねえ、鳩にパンをやるんでしょ。一緒にやらせて。みんなで行こうよ、ね、いいでしょ」
美雪は断れなくなってしまった。
三人は回り道をして鳩が集まる橋の上に行った。レジ袋に入れた、週一回しか出ない貴重なロールパン。三人は、一つ取り出しながら、ちぎっては鳩に投げる。鳩はバサバサ羽を羽ばたかせながら、近寄ってくる。いつの間にか八羽の鳩が集まっていた。
「ねぇねぇ。鴨でしょ、あれ」
下に流れる石神井川には鴨の家族が三羽、水の中に時々首を突っ込んでは何やら食べている。
「まだ、パンあるから鴨にもやってみよう」
最後のパンが美雪の持つレジ袋から取り出され、バラバラになって川に落ちていく。今日のすべてのパンは消えた。別れ際、女の子達は〈またやろうね〉と楽しそうに言った。美雪は、笑顔を見せながら、トモミの泣く顔が浮かぶ。その子達がこの遊びを忘れてくれるように願った。
美雪は空っぽになったレジ袋を畳んで、鞄に入れ、家路を急いだ。早く宿題をやらなければ――今日の夕飯は――トモミのお迎えの時間が――洗濯も溜まっているし――。主婦のように目まぐるしく、残り時間で行う仕事を羅列した。毎日がこの繰り返しだった。
この頃、母親はお金をもらおうとすると、火が付いたように怒る。最近ではいつも酔っぱらっている状態で、家事は美雪が全部しなければならなかった。お金もたまにしか貰えない。機嫌の悪い時はビンタが飛んだ。だが美雪は、このことを誰にも言わなかった。こんな生活しか知らなかったから……。
月曜の朝、トモミの母親がすごい剣幕でウサギ組の部屋に入ってきた。万里を見つけては、襟首を鷲掴みにして揺すった。
「あんた、何様のつもりなのよ。うちは乞食じゃないんだからね。保育園の余りものなんていらないのよ。ふざけんじゃないよ。人をバカにして」
万里は突き飛ばされて床に倒れた。慌てて高山が中に入って、トモミの母親を制した。ちょうど廊下にいた山本がすぐ割り込んできて、トモミの母親と高山の間に体を入れて言った。
「お母さん落ち着いて。どうされましたか」
「金曜日、この女がうちの美雪に残り物のパンを渡したんだ。うちが貧乏だと思って。バカにして……」
トモミの母親は、興奮が高じて手が小刻みに震えている。母親の肩を山本が両手で押さえ、抱えるようにして廊下のほうに連れて行った。高山と万里は為す術もなく立っていた。母親は山本にしな垂れるように寄り添ってボソボソと話をしている。男の先生を前に、あの突き飛ばしたときの勢いが嘘のように消えていた。
「ああ、パーティーの残り物ですか。うちのライオンさんも、袋にいれてお持ち帰りしてもらっていますよ。もったいないですからね。子供達も喜んで持って帰りますよ。お母さん、食べましたか? お子さんがどんなものを保育園で食べているか知って頂くために、会食の残り物は時々お持ち帰りしてもらったりするんですよ。味は如何でしたか?」
トモミの母は、山本の明るい声につられて笑いながら〈なんだ、皆も貰っているんですか。そういってくれれば良かったのに〉と、愛想笑いをして、こちらに謝りもせず帰って行った。
万里は割り切れない気持ちを高山にぶつけた。高山も腹立たしげにいった。
「あー、男っていいわね。希少価値だから、利用するっきゃない。それに、ミヤ先生、園児の家庭内のことは、保育園ではどうしようもできないのよ。それは児童相談所とかの管轄。わかったわね。問題がエスカレートしたら、主任や園長にまかせるのよ。きっと、すぐ園長に同じ事いわれるよ」
高山の言うとおり、万里は園長に呼ばれて注意を受けた。園児は平等に対応しなければならない。例えトモミが空腹でも、保育園で朝食を出すわけにいかないと告げられた。さらに、子供達の痣や外傷、全般的な健康チェックを怠らないようにとミーティングで注意をうけた。
万里は山本にも礼を言うと〈ミヤ先生も保護者の洗礼を受けましたね〉と軽く笑われた。山本は眉間に皺を寄せることもなく、するりと交わした。
万里は気を取りなして、日常の仕事をこなした。今までと変わらずに子供達に接した。しかし、トモミは万里に近づいてきて、『鯉のぼりのごはん』と言う。万里は、別室に連れて行き、用意した牛乳半分と菓子パンを食べさせた。職員は見て見ぬ振りをしてくれた。これだけは、園長に再び注意されても止めることは出来なかった。すくすく育つ苗木に水をやるように、枯らしてしまう訳にはいかないのだ。
家では内職のように次の行事の準備作業に明け暮れていた。慣れてくると自分の時間が持てるようになる。休日には和子と渋谷に出て買い物を楽しむ事もあった。和子はライオン組でカズ先生と呼ばれていたが、一部の子供達は山本から聞いてカリメロと呼んでいた。
短大時代の万里の友達は、服装も派手でスタイルもよかった。いわゆるお嬢様タイプの感じだったが、それに比べ和子はどのように着飾っても地味だった。派手な物に憧れ、六本木、原宿、渋谷などに行きたがったが、太り気味の体型にはジャージが一番似合った。その不釣り合いな願望を除けば、考え方も行動もしっかりした保育士に思えた。
土曜日の午後、万里は久しぶりにのんびりとした休日を過ごしていた。掃除らしい掃除も一ヶ月ぶりだ。今まで、実家では自分の部屋を片づければことは足りていたのだが、独りの生活は寝に帰ってくるだけなのに、結構、汚れを呼ぶ。これが自分の生きてきた跡なのだと思いながら、風呂場のドアにこびりついた黒カビを落とした。
料理は今までほとんどしたことがなかった。昨年の秋、両親が夫婦で温泉旅行したいといったので、二泊三日の留守番を預かったが、台所で采配をふるったのは、弟のノブだった。〈せっかくきれいにネイルをしたのに……〉と言ってはノブに何もかもさせていた。だから、自慢料理はまだカレーのみだった。
出勤には、ちゃんと控えめな化粧をし、短い爪にも時々凹凸のない簡単なフレンチネイルをしていく。子供達は、大人の清楚なおしゃれを好んだ。家でぐずって親を困らせていた子も、登園すると大人びた仕草や、気分がよそ行きになる。家と園とを区別することで、社会的なルールも学ぶ。そのために、保育士は小ぎれいにしておく必要もあった。
万里は家で昨日のウサギ組たちのことを思い出していた。ユウタは一番小さいくせに、想像力と理解力はすばらしいものがある。将来、どんな子に育つのだろう。
昨日、男の子達三人が絵本のおいてある部屋にはいって何十分も出てこなかった。後ろからそっと覗いてみると、真ん中にあったのは埴輪の絵本だった。ウルトラマンの映画にでてくるハヌマーンにソックリだとか、宇宙人はきっとこんなだ、とかユウタを中心に興奮した高い話し声が響く。想像は宇宙の彼方まで広がっていた。そのせいか、午睡のあと、ユウタはお漏らしをして泣いて起きた。着替えをしている間中、エプロンをひっぱっていて離れない。どうしたのかと聞くと、「宇宙人が来て、みんなに、なに人ですかって聞いたの。みんなは地球人ですって答えて……。みんなも同じ夢みたかなぁ」
真剣な眼差しで万里に訴えていた。ユウタは夢の中に出てきたみんなが同じ夢を見たのだと思ったらしい。
「ユウタ君が宇宙人に連れて行かれなくてよかった」
万里は、そういって抱きしめた。
本来なら味わえない子供との時間。万里は、母親達の楽しみを分けてもらっている。愚図るのも暴れるのも、世話がやけるのも沢山ある。だが、差し引いても余りある気がする。
園での事を思い出し笑いしながら休日が過ぎようとした夕方、小指の爪に白い花の模様を描いていると、携帯スマホの着信音が鳴った。
スグルだった。
「はい、万里です」
「おい、いいかげんにしろよ。心配させて。どこに引っ越したんだよ。これから会いにいくから」
万里は来るときが来たと思った。
一時間後にスグルと最寄りの駅前で待ち合わせすることにした。やはり、引越しは、スグルとの物理的距離を縮める結果になった。
二つ年上のスグルは一浪をしていて、まだ大学四年生だった。自分は働き、給料をもらっている。働いている自分と就職活動をしているスグル。果たしてこれから話が合うだろうかと万里は不安だった。だが、この二ヶ月の色々な出来事を聞いてもらえる人も欲しかった。小さな自立が成功して、少し大人になった自分を認めてもらいたい。スグルに今だったら同等に扱ってもらえる気がした。
駅まで迎えに行くと、改札の横で黒い長袖Tシャツにクロム・ハーツのペンダントをしたスグルがこちらを向いて片手を上げた。遠くから眺めてもスグルは百八十センチを越える長身でカッコ良かった。鼻筋が通り、彫りが深い。陰影ができるスグルの顔はどこか寂しそうに見えた。肌は色白のほうで、手の平はさらっとしている。ホストクラブで働いても人気者になりそうな雰囲気を持っているが、けっして水商売っぽくはない。万里がそっと胸に顔を埋めると、ブルガリの香水の香りがした。
しかし今日のスグルは、いつもより頬が痩せ、顎がとがり、目には寝不足の隈ができて明らかに不健康そうに見えた。万里は十二月に逢った時を思い浮かべながら言った。
「随分痩せたんじゃない。どうしちゃったの」
「どうした、はこっちの台詞だよ。メールしても返信ないし。連絡してくれなきゃ、俺はどうすりゃいいんだ」
「だって……。言ったじゃない、独り暮らしするから、暫く会えないって。わかってよ。初めての独り暮らしなんだから、何もかも初めてで……」
スグルは唇を突き出して拗ねている万里のおでこを指で弾いた。化粧もしていないが、走ってきたので、色白の頬にほんのりと赤みが差し、無造作に結ったポニーテールのほつれ毛がうなじに掛かって、万理はいつになく艶めかしく見える。スグルは万里の肩を抱いてアパートに向かった。
「へえ、結構こざっぱりしてるじゃん。万里のことだから、ぬいぐるみとかでゴテゴテしているかと思った」
「実家はね。子供の時のものが捨てられなくて女の子っぽい部屋だったけど。今は掃除も大変だし、なにせ、忙しくって、自分の部屋を飾りつけている暇もないくらい」
そういいながら、万里はぎこちなく部屋のなかでスグルを避けた。コーヒーを煎れ、何とか沈黙に陥らないように次々と話題を見つけては、明るく振る舞った。しかし、話題はそれほど盛り上がらない。男と部屋の中に二人きりになったのは初めてだった。万里は心が落ち着かなかった。しかし、それとは別に、スグルは元気がなかった。
洋間は寝室にしてベッドを置き、もう一方の和室は居間にして座卓を置いた。和室のベランダは日当たりもよく、小棚の上に置いたポトスが知らず知らずのうちにベランダの陽を求めて茎を延ばしていた。
スグルはベランダと部屋の境に腰を降ろし、茜色に染まる西の空を見ていた。万里はナッツ菓子とビールの缶を差し出した。しかし、スグルは動こうとしない。心がここにないようで、悩んでいるようにも見えた。
「スグル、ほら、ビール!」
万里はスグルの頬に冷えたビール缶をつけた。トモミの母親に突き飛ばされた夜、ムシャクシャして家で飲んだくれようと、ビールやワインを何本も買っていた。結局その夜は、ビール缶の半分しか飲みきれず寝入ってしまった。まだ何本も飲まれる予定もないビールが冷蔵庫の奥に押し込まれている。
二人はベランダに足を投げ出し、話もせずに空を見ていた。次第に夕焼けが闇に飲まれ消えていく。言葉を交わすでもなく、スグルは万里の肩を優しく抱いた。万里は近づくスグルの息づかいを感じ目を閉じた。唇に湿った柔らかい感触。まるで、壊れ物を扱うようにスグルは万里の体を部屋に引き入れ、ゆっくり押し倒した。万里は子供の時に遊んだ着せ替え人形のように横たわり、今はスグルが服を脱がせるのに身を任せていた。
薄暗くなった空が万里の閉じる眼のなかに映った。スグルは万里の身体の輪郭を確かめるように触れた。ベランダの戸は閉じられ、上半分の透明ガラスの中に星が見えた。
いつもだったら、真っ先に星が見えると叫んだが、スグルの手が、唇が万里の下半身を愛撫していた。万里の眼はもう何も見ていなかった。身体の中の奥深いところで弦を弾かれたように体は震えた。抱え込まれて、スグルの一部が万里の中へ押し込まれ、スグルが激しく動いた。万里はその痛みを受け入れる不思議さを思った。スグルの為すままに従った。体の中の烙印は、痛いばかりだった。そのうちスグルの動きが絶頂を越えてしまうと、汗ばんだ体が重く万里の上にのし掛かった。スグルは嬉しそうに微笑んで言った。
「痛かった? 万里、やっぱり初めてだったんだね」
万里は涙がでていたこともわからないほど、自失していた。スグルは万里の涙を両手で拭って、頬にキスした。
「万里、ごめん。俺、夢中になって、中でだしちゃった」
その言葉で、万里の魔法は一瞬にして覚めた。脱力した身体と頭で、この前の生理がいつだったかを思い出そうとした。短大の時の友達の会話が蘇った。食堂のエスペランサで集まって、セックス談義に話が及んでいた。女だけの赤裸々な話。
――自分で守らなきゃだめよ。男なんてあてにならないから。私はピル飲んでいたけど、丁度止めていた月だったのよ。荻野式だって正確に避妊できるわけじゃないし。体は妊娠するためのものだから、自分で自分の体を守るしかないのよ。
――あれは、誰が言っていたのだろう。スグルと付き合い始めたばかりで淡い想像しかしていなかった私。それが初めから降りかかるとは……。先月は下旬だったから、きっとあと一週間で生理になるはず。ああ……、ああ、よかった。きっと大丈夫……。
大人の女になる儀式。万里は妊娠のことを忘れていた。初めてのセックスが自分をどの甘美な世界に連れて行くのかと、そればかり考えていた。頭の中は不安と期待で占められていて、払う代償を忘れていたのだ。
「多分、大丈夫。来週には生理が来るはず。でも、もし、妊娠しちゃったらどうしよう」
二人ともそれ以上は考えなかった。お互い、選択肢がないことは分かっている。今は無言でいることしか思いつかなかった。
スグルの引き締まった胸の中にすっぽりと万里は頭を埋めると、温もりが心地よかった。頭を優しく撫でられ、肌が解けて融合するようで、今度は離れるのが身をきられるようで嫌だった。
彼はその後も万里の体を求めた。妊娠する危険がないと信じて。二人は食べるのも忘れた。万里は次第に体の外だけでなく、体の中の不思議な感触に驚いた。それはまるで体内の奥で合わせ鍵を作るようにねっとりとした液体の絡み合う様に似ていた。スグルの体が万里から離れると無性に寂しく欠けてしまう感じがする。いつまでも、離れたくないと、万里は駄々をこねていた。
スグルは一泊して日曜の昼過ぎに帰っていった。就職活動のことは聞いてもあまり話さない。内定がもらえなかったら、大学院に進むかもしれないと言ったが、就職だけのために親に負担をかけるのも気が重いと悩んでいるようだった。
「万里はいいよなぁ」という言葉が何度もでた。どういう意味か計りかねたが、その後のため息を聞くと何も言えなくなってしまった。
内定がもらえず、彼の心の中に将来の不安が渦巻いていた。
万里はその日、だるい体に鞭を打った。今週、うさぎ組でかけっこ練習のために、全員の金メダルを作らねばならなかった。夕飯は軽くサンドイッチで済ませて、作業に取りかかった。
厚紙にコンパスで丸を描き、切り抜いて金色の色紙を貼る。二枚の金色厚紙で首賭のリボンの端を挟んで糊付けする。表に貼るウサギの絵は既に園で何枚もコピーしておいた。
子供は自分が成し得たことのご褒美をなんとも素直に喜び、自慢する。まだ月齢の違いは著しく、競争にはならない。成し遂げる喜びの練習なのだ。万里は子供一人一人の顔が浮かんで、自然と笑みがこぼれた。全員が金メダルを誇らしげに下げるだろう。
漸く作業も終わり、万里は入浴してベッドに潜った。昨夜のことが思い出される。何度も抱擁し、寝たのか起きたのかもわからない宴のあとの疲れを感じた。今は妙にセミダブルのベッドが広く、物足りない。一日前まで知らなかった自分の欲望。今もスグルの息づかいが耳に残る。思い出すと体は火照り、スグルの体が欲しくなる。まるで自分の体の一部を失ったように万里の体が疼いていた。
六月に入っても万里はなるべく昼用と称してサンドイッチやおにぎりを買って出勤するようにした。まだトモミは万里のところに来て「トモちゃんの『鯉のぼりのごはん』は?」とリクエストする。万里はそっと別室につれていき、万里の昼食を食べさせて落ち着かせる。園の運営は規則通りにいかなかった。別段トモミに秘密にするようにと言い聞かせてはいないのだが、不思議とトモミは自分の母親や姉に言わなかった。『お腹すいた』という言葉がタブーでもあったのだ。愚図って泣くと母親に叩かれた。美雪もトモミも、誰の前で何をいっていいかを学習していた。
万里は益々多忙になっていった。七月のプール、七夕、運動会、八月の夕涼み会と毎月の行事がひしめく。何ヶ月も前から準備しなければならない。近々の六月には保護者会もあった。それらは大変な作業量となった。
悪いことは重なるもので、高山が息子の水疱瘡で休んでいた。ウサギ組の子供たちも、次から次ぎへと麻疹や水疱瘡、百日咳と、誰かしら病気にかかって休んでは、治って出てくるのを繰り返した。子供の健康状態をいつもより注意して観察する必要もあった。
梅雨のさなか、外出ができない日が続くと、飽きないように色々な室内遊びを企画した。ホールでは、ピアノの演奏で一人ずつリズムに合わせて動物の物まねっこをしたり、ハンカチ落としをした。子供たちも遊びの好みができてきて、「えー、またリズムなのー」などと不平も増えた。
万里は、一日一日をクリアすることに必死だった。子供たちが帰った夜には残業をし、睡眠を削って大きな行事の準備をした。
そんな毎日が続くなか、スグルは頻繁に万里のアパートに来るようになった。万里は一緒にいられる喜びもあったが、仕事で疲れて残業をしてきた夜、突然訪ねてきて、酒臭い息をかけられると、喜びは急速に冷えていった。
それでも、万里はスグルを拒まなかった。何よりも体を逢わせた肌の温もりが勝っていた。
スグルは弟のノブと違って、部屋の整頓や、料理をしたことがない。彼もまた千葉という地の利の良い場所に実家があり、一度も家を出て住んだことがない。外泊はしても、自炊したことがなかった。
万里はスグルが来る度に、料理の本を見ながらもて成した。相手が学生だと思うと、外食をしても、つい万里が費用を持つことになる。スグルは大学の授業と就職活動でバイトもできず、いつも金の持ち合わせがない。万里は薄給の中、スグルが訪ねてくることでさらに出費がかさみ、日々の生活を節約せざるを得なくなっていった。
今日が遅番という日、最後の子供のお迎えを終えて、戸締まりをすると七時半、それからウサギ組の部屋を使って、和子と七夕の飾り付け作りで残業した。買い物をしながら家に帰りついたのは夜の九時を回っていた。
風呂の用意をしながら、軽く遅い夕飯を食べた。しかしまだ、三歳の誕生日を明日に控えたサキに渡すフエルトのウサギが出来ていなかった。入浴した後で作るつもりでいた。
そのとき玄関の呼び鈴が鳴った。間髪を入れずにドアをドンドンと叩き、「万里、俺だー」という大きな声がした。
万里は近所迷惑を気遣って、慌ててドアを開けた。そこには眼も半分眠っている泥酔したスグルが立っていた。そして崩れるように玄関になだれ込んだ。
「おーい、万里。おかえりー」と上機嫌な酔っ払いができあがっていた。
「スグル、どうしたの。こんなに酔っぱらっちゃって。きょうは水曜日でしょ。明日も私、仕事早いから……」
「酒飲んだら来ちゃだめなんか? ま・り・ちゃーん」
スグルは万里に抱きつきながら覆い被さった。その重さで台所の床に二人とも倒れた。万里は彼を引きずりながら、居間に入れた。自分のベッドに酒臭い彼を寝かせるのは嫌だった。居間に布団を敷き、服を脱がせて寝かせると、彼は一分もたたずに鼾をかき始めた。紺のリクルートスーツにブルーの縞のネクタイ。その日、スグルは二十五社目の面接を受けていた。不安な気持ちを酒で紛らせ、酒に飲まれていた。
万里は朝、出勤する前にスグルを追い出した。このまま合鍵を持たせたら、きっと居候される。そう思うとこれ以上の負担は我慢できない。万里はそう思った。
その後もスグルは頻繁に来るようになった。三日と開けずに、万里が帰る頃を見計らって訪ねてきては、夕飯を食べ、セックスをし、朝、慌ただしく万里が出勤するのと一緒にアパートを出た。スグルがもっとゆっくりしたいといって、合い鍵を要求してきたが、万里は断固拒否をした。それがもとで再び口論になった。
それでもスグルが逢いにくると、万里は色々な要求を受け入れてしまう。外で会っていた時は、おしゃれをして、ワクワクしていたが、こう頻繁に電話連絡もなしに夜来られると、二人の関係は所帯じみた夫婦のように輝きを失い色褪せていった。
そしてその日も――ドアの外にスグルが立っていた。万里は作りかけの紙の魚をそのままにスグルを迎え入れた。
「俺さ、また面接だめだったんだ。一時試験はパスしたんだけど。面接は自信がないんだ。なんだか、家に帰りたくなくて……。今日、万里んとこ泊まって明日帰る。親も心配してるから電話しておいた」
「あ、でも、私、生理なんだけど」
「なんだよ。――セックスができないから帰れっていうのか」
万里は、不意に口からでた言葉を呪った。だが本心のような気もした。
「そう言う訳じゃなくて、スグルが泊まるといつもそうなって……。ごめん」
沈黙の後、帰ろうとしたスグルを万里は引き留めて、缶ビールをサイドテーブルに置いた。部屋の真ん中の座卓の上には所狭しと、色を塗られた魚が並べられている。
「これ、なに?」
スグルは、魚を手に取り不思議そうに眺めていた。
「あ、ごめんね。散らかっていて。今週、ウサギ組で魚釣り大会をしようと思って――魚を作っていたの。この魚の口の所に小さな金具をつけると完成。釣り糸の先に磁石をつけておけば、釣れるでしょ。みんな喜ぶんだ。それに、魚の名前を覚えさせて。ほら、タイでしょ、ウナギ、飛び魚、鯨、鮫、イカにタコ。特徴ないとわからないから、ごちゃ混ぜだけどね。ふふ」
万里には、みんなの喜ぶ顔が目に浮かんだ。きっと、目を輝かせ、興奮して釣りを楽しむのに違いない。こんな風に想像している時が万里は一番幸せだった。
だが、そんな万里を見てスグルは不快な顔をした。
「万里は子供の世話して、金もらってんだろ。テキトーでいいんじゃねえの。所詮、子供だましなんだから。そんなに頑張ったって、子供はすぐ忘れちゃうんだし。いいよな、万里は。すんなり就職できて。俺なんか、商社とかマスコミ関係を希望しているだろ。倍率高くって大変だよ。今回の会社だって、一次試験パスしたけど、かなり大変だったんだ。二次試験の面接には五十人に絞られて、採用は三人だしな。万里とは違うんだよ。俺は去年の採用試験に内定もらえなかったから、今年のチャンスはもう僅かなんだ。今、決まらなかったら就職浪人になっちまう。社会から存在価値を抹殺されちゃうんだよ。俺なんか必要ないって……。でも万里はこんなチンケなおもちゃ作ってりゃ給料もらえるんだから――」
万里は腹立たしかった。彼は何も分かっていない。だが、今まで多くの就職試験を受けてことごとく連敗している心境を思うと、虚勢を張っている彼が痛ましく思えて黙った。
既に食事を済ませていたが、スグルのために簡単な料理を用意し、九百五十円で売っていたボルドーの赤ワインを開けてやった。残りの作業は少しなので明日の午前中やれば終わる。そう思ってスグルが食事をとっている間、万里は先に風呂に入った。
スグルはテレビを付け、夜のニュースを見ながら、万里が作ったオムレツを食べていた。テーブルの上にワインを置き、紙の魚を手にとっては、フンと鼻で笑って、またテーブルの上に投げ放った。
――こんなくだらない子供だましの物を作って、給料をもらって。これが自立した生活なのか。
彼には、万里の生活や将来、人生がしみったれて、ちっぽけに思えた。
――自分がマスコミや商社に絞って就職活動しているのは、将来の富と権力を求めて、この国を動かす身になりたいと思っているからだ。そのために、ずっと勉強を頑張ってきた。何の試験でもいつも上位に位置していた。有名大学。それなのに、ことごとく不採用の通知が届き、自分の必要性が消されていく。大学四年ということで、門前払いを喰わされたり、〈大学は一流なのに何故決まらないのですか〉と、逆に質問されることもあった。――この俺が――何一つ欠点がないと思っていたのに……。この世の中は、俺が参加していないのに回っている。俺の居場所はいったいどこにある……。
テレビのアナウンサーの話すニュースが意味のないBGMのように通り過ぎていく。彼の頭の中は一杯なのに、心には穴がぽっかり空き、風が木枯らしのように吹いて体が凍りつくような気がした。。
「スグル、お風呂はいって」
突然、背後から万里の声がして振り向いた。その拍子にスグルはテーブルの上に置いたワイングラスを倒してしまった。グラスに残っていた赤ワインがテーブルの上の紙の魚に撒かれた。魚たちは赤く滲んでふやけた。まるで、魚を裁いた血のように赤く、どす黒く染まってゆく。万里は慌てて、台布巾でこぼれたワインを拭った。ほとんどがダメになった。万里が四日がかりで自宅で作り上げた物だった。
「ごめん。……作り直すの手伝うよ」
スグルの声を聞きながら、嘘つき、と心で叫んだ。もう帰って、という言葉をぐっと飲み込んだ。スグルにとっては、きっと、たかがこんな物なのだろう。しかしこれは万里にとって、時間をかけて作り上げた大切な作品だった。例え子供たちがすぐ忘れても。すぐゴミ箱に捨てられる代物だとしても、明日という数時間の喜びを与える。そして子供達はその楽しさを親に伝えるはずだ。
幸せの一瞬を生む――小さな貴重なアイテム。スグルが思うような世の中を変える仕事じゃないかもしれない。でも将来を担う子供が幸せでなくてこの国が幸せになるだろうか。万里は、ほとんど笑顔を浮かべないトモミの顔が浮かんだ。大きな声で遊びに夢中になるトモミを見てみたかった。
その晩スグルが居間で寝ている間、万里は寝室で魚を作りなおした。出来上がる頃には、ぼんやりと夜が明けていたが、目覚ましをセットして漸く一眠りした。
遅番なので八時半に家を出れば良かった。万里はスグルを起こし、簡単な朝食を作ってスグルを先に追い立てた。その日は金曜だったが昨日のことがあったので、彼は罰が悪いように、実家の千葉に帰ると言った。それを聞いて万理は心底安堵した。
万里はとてもスグルの不安を癒してあげるほど、大人でもないし、余裕もないと思った。以前ほど、逢いたいと思わない自分がそこにいた。体と心の欲望が違う方向を向いている。逢瀬を重ねるのに、心が醒めていくのが不純に思えて、自分の理解を越えていた。
――いったい、自分はどうしちゃったのか……。
自分自身の理性と欲望のコントロールが不能なのだ。スグルと別れたいという思いが募ってくる反面、スグルの求めにすぐ体が応じてしまうことが一番の問題だった。仕事はまだ、子供達に翻弄されることが多い。力の入れどころと抜きどころがわからない。万里には精一杯やるしかなかった。
その朝、寝不足で園に出勤した万里は、お昼寝の時間にうたた寝をしてしまった。マサトの泣き声で目を覚まして、万里は一時間も寝てしまったことに気づいた。高山は、万里のせいで二十一人分の連絡帳を書き終えていた。
高山が、笑って言った。
「どうしたの。お疲れのようで……。園長には内緒にしておいてあげるわ。こちらも色々と内職にしてもらっているから――疲れたんでしょ」
紙の魚を手にしてそう言った。
「すみません。ちょっと、家でワインこぼしちゃって、作り直すのに徹夜しちゃったものですから」
「万里ちゃん、頑張ってくれているものね。それに、私を気遣ってみんなやってくれているし――感謝している」
「そんなぁー。大してやってないです」
そういいながら、万里は努力を認められてうれしかった。
「でもね。寝不足はだめ。絶対にね。もし、私達が不注意をしたら、子供たちが危険でしょ。ほんの小さなことでも、気をつけていないと、預かっている子供たちに怪我させたら大変。お遊びの作品より、そっちの方が大事なの。お遊びは子供たちでも作れるでしょ。力のいれ方を間違わないでね」
万里は高山の指摘にハッとした。自分のうたた寝が子供達を管理する仕事を怠ったことになる。一番してはいけないことだった。万全の体制とは、自分自身の安定した状態を作ることが一番大切なのだと、高山は言っていたのだ。生活の乱れを言い訳にして、作品を誇っていた自分を万里は恥じた。
土曜日にスグルからメールが来て、また夜いってもいいかと訪ねてきたが、万里は残業を理由に断った。今夜も万里は和子と一緒に作業をした。七月の上旬には運動会がある。ウサギ組はかけっことリズムの時間で練習しているダンスだ。運動会は年長のライオン組の子供達が主役で、八木節を踊ったり、かけっこなど多くの種目に参加する。万里は和子に尋ねた。
「和子さんとこのライオン組さん達は、準備どうですか。八木節を踊れていますか」
「うん、結構ね、やるわよ、彼らは。何とかなりそう」
「いいですね、ライオンは問題なくて……」
「そんなことないのよ。うちのクラスだって色々あるんだから」
「えー、そうなんですか? 進先生、普通って感じですよね」
和子は暫く沈黙していたが、言いにくそうに話し始めた。
「実はね――オフレコよ――多分考えすぎかも知れないんだけどね、うちのクラスのタクヤ、何だか進先生とうまくいかないのよね。最近荒れていて、よくクラスの子と衝突するの。今日も朝から座っていた子の頭を殴って……、進先生に怒られて、隅っこで泣いてぐずっていたの。以前は先生の腕にぶら下がったりしていたのに、今では進先生を避けるようにしているのよね。私にはそんな態度はとらないんだけど。あの二人、何かあったのかなぁ」
「へえ、そんなことあるんですか。進先生は〈問題なんかありません〉って顔していますよね」
「きっと、割り切っているのよ。問題ありで普通なんじゃないかって。あまり気にしないし、深入りもしない。だから、万里ちゃんみたいに、誰かさん用にアンパンを用意なんかしないって」
「あ、和子さん、知っていたんですか」
「やだ、職員、みんな知っているわよ。セーラームーンがアンパンマンになったって……」
和子は万里に告げなかったが、なんとなくタクヤが山本とうまくいかなくなった原因に気がついていた。タクヤの母親が山本と話す時、やけに慣れ慣れしく、媚びを売るように見えるのだ。先日もお迎えに来たとき、母親は先生を捕まえて話していた。タクヤは二人をちらちらと上目遣いをしながら見ていた。やけに女っぽくなってニヤけている母親に警鐘を鳴らしたのだ。
和子は、タクヤに聞いた。
「運動会の時、お父さん見に来てくれるといいね」
そういうと、タクヤの視線はぐっと落ちてしまった。和子は慌てて、付け加えた。
「普通の日だから、お仕事休めないのかな?」
すると、タクヤはテーブルに指で『の』の字を書いてポツリといった。
「お母さんとお父さん、仲が悪いから……」
タクヤの曇った顔が深い心の傷を覗かせていた。何度も親の諍いで潰れてしまった心には諦めという砂嵐が吹いている。
和子はふいに出そうになった涙を手で拭いて立ち上がり、タクヤの頭を撫でた。タクヤの見たかったのは、山本と仲良くしている母親ではなく、両親の仲の良い姿だったのだ。その不満が今は山本に向けられている。園児の家庭事情に関わることはできない。それに、子供の置かれた状況も変えることはできないのだ。山本の言う通りだ。しかし、和子は自分の無力さに打ちひしがれていた。
梅雨が過ぎ、七月の雲もなく青空が広がる木曜日、園庭で運動会が行われた。九時半から十二時半の三時間の催しで、大半の親が仕事を休んで応援に駆けつけた。終了後、原則は帰宅で、帰宅できない園児は混合クラスで通常通りの保育が行われる。大方の親は子供達よりも興奮して、カメラ片手にこの時とばかりのシャッターチャンスを待ち望んだ。
前日の夕方から園庭は沢山の紙の輪鎖と花で飾られ、お祭りさながらである。園長の開会の挨拶、準備体操のあと、一番小さいリス組のヨチヨチ歩き競争が行われた。赤ちゃんたちが、柔らかいシートの上をヨチヨチ歩き、一列に並んだ親がゴールとなる。自分の親がいるのになかなか気づかない赤ちゃんもいた。月齢の大きい子は、あっという間に歩いて親の腕の中に飛び込んだ。月齢の小さい子は立ち上がれないのでハイハイでゴールに向かう。赤ちゃん達は、自分の母親の顔を捉えると、まるでその時は、電球がピカッと光ったかのように認知して不安そうな顔が一瞬で笑顔になるのが何とも言えず微笑ましい。
アヒル組は障害物のかけっこ競争。低い平均台を渡りきると、次は輪を潜り、玩具を拾ってゴール。これも、気合が入りすぎて、平均台から落ちてしまい、泣き出す子供が保育士に手を引かれていった。
全員のかけっこは、ウサギ組、サル組、キリン組、ライオン組と四人列編隊で行われた。人数が多いので、保育士全員でところてんのように次々と笛に合わせて走っていく。走る前も、走った後も、皆を整列させて待たせるのが大変だった。だが、今日は親に見てもらいたくて、子供達は期待に応えようと必死だった。
次は、曲に合わせたウサギ組の踊りだった。毎日ホールで練習している忍者のダンス。歌にあわせて何度も練習したダンス。皆、上手に踊っている。その最中、青い法被を着たライオン組が並んで出番を待っていた。
何気なく万里は踊りながらホールの方を見ると、和子と主任が慌てて走っている。和子の横には、青い法被を着たタクヤがいた。万里は、高山に目配せをして、出番が終わると事務所に急いだ。
ライオン組の八木節はサル組の紅白玉入れの後に始まる。万里は和子に園庭に急ぐように言って主任の所に行った。
事務所のテーブルには、パン食い競争の菓子パンが、箱のなかで粉々に潰されて無惨な姿になっていた。
「あー、これどうしたんですか?」
万里はびっくりして言葉に出した。
「タクヤ君が箱の中に入って踏んづけてしまったの。やられちゃったわね。どうしよう、職員のパン食い競争」
「とりあえず、配った栞には『職員一同』としか書いていないので、予定どおりにコスプレして、踊りにしたらどうですか。振りは何でもいいですよ。曲を流せば、みんな歌ってくれるし」
「――そうね、そのほうがいいわね。万里ちゃん、みんなに大急ぎで変更を伝えて。出し物はあと四つ残ってるわ。早く準備しなきゃ」
主任に指示されて万里は奔走した。
和子はタクヤの手を引いて八木節を踊っていた。タクヤはまるで自分で動けないマリオネットのようだった。和子の手でタクヤの腕を揚げると、タクヤの体はだらんと反対の方向に傾げる。仕舞いには両手を持って和子は踊っていた。タクヤの母親は、声援ではなく罵声を投じた。その向こうの園庭の外に背広を着た父親がじっとタクヤの姿を見詰めていた。
最後の演目に、職員達は各々色々なコスプレをして園庭に出た。山本は上半身裸で腰にティーリーフのスカートを履き、紙で作った槍を持っている。和子は手製のカリメロの着ぐるみを着ていた。万里は超ミニスカートのセーラームーンになり、髪を両耳の上高くに結い変えた。高山は黒のマントを着て、唇の裂けたドラキュラに扮した。主任はどこで見つけたのか立派な海賊の衣装で登場し、園長はどうしても白いドレスを着たいといって、シンデレラに扮した。まさしく、パン食い競争ではなく、仮装行列となった。子供達は大喜びで、職員達と一緒に園庭に出てきた。おなじみの園児全員が知っている曲を流すと、みんなが歌い始めた。保護者も一緒に歌い出す。笑顔が園庭で花開いた。マーチが聞こえるとみんなで行進し、大きな笑いと興奮で包まれた。
和子はまだタクヤと一緒だった。タクヤに垣根の向こうに立つ父親を指さすと、タクヤは駆け寄り、小さな手で必死に柵の向こうの父親に触れようとする。タクヤの母親はそれを苦々しく思い、厳しい目で睨んでいた。
漸く運動会が園長の話で幕を閉じた。職員達はやり遂げた達成感と脱力感を隠しながら、園児と保護者を見送った。
「センセー。バイバイ」
あちこちで子供達の声が響く。どの子も首には職員が作った金メダルが掛かっていた。ほとんどの子供たちは保護者と帰ったが、居残りの園児が五人ほど、いつも通りの預かりとなった。
職員達はみんなを送り出して、事務所に集まって反省会をした。まだ仕事は終わっていなかった。タクヤの気持ちを思うと、やりきれない思いが職員たちの心の底に沈殿した。
運動会の結果として、二人の園児が転んだ時に擦り傷を作ったが、あとは事故もなくやり遂げたことで、園長からは職員に労いの言葉があった。
その日の暗い帰り道、万里は闇に溶けてしまうのではないかと思われるほど沈んでいる和子を誘って、駅近くの居酒屋で夕飯を兼ねた。和子はいつもと違って歯切れが悪かった。
「今日、和子さん、大変だったですね」
「今日の事――実は、私が悪いの……」
「え、何のこと。パンをタクヤがダメにした事でしょ。それって、和子さんが悪いんじゃないですよ。あの子の家庭の問題じゃないですか」
「ううん、実は今日、いつも通りタクヤは元気に登園してきたのよ。カズセンセー、僕、かけっこ頑張るよって。でも、お母さんが進先生と廊下で話していて、なかなか部屋に来ないものだから、タクヤに呼びに行かせたの。そしたら、タクヤが怒りながら戻ってきて、『センセー、離婚って何』って聞くじゃない。私はこんな忙しい時に、そんな深刻な問題を、と思って簡単に答えたの。――お父さんとお母さんが別々に暮らすようになることだって。そしたらタクヤは『お父さんと会えなくなるの?』って聞くから、私は『そんなことないわよ』って答えて……。その時、もう園庭に子供達を出さなきゃいけなくって。――さあ早く準備しなさいって、タクヤや他の子達に法被を着るように指示していたの。そしたら、またタクヤがまとわり付いてきて、ポソリと言うの。『僕、お父さんに似ているから嫌いだってお母さんが言った』って……」
「えー、それ最低な母親じゃないですか」
「でもね、私、それを聞いていながら、タクヤを放っておいた。運動会の出番をこなすことで頭が一杯で……。いつの間にかタクヤを忘れていた……。そのあと、タクヤのお母さんが近づいてきたからいいと思って。――私、ほかの子達のお世話をしていたの。かけっこが終わって、八木節の衣装に着替えた時、タクヤのお父さんが園庭の外に来ているのが見えた。だからタクヤに『ほらお父さんが見てるよ。がんばろうね』って。――タクヤがお父さんの所に行こうとしたらお母さんに無理矢理引き留められて……。気がついたら、菓子パンの箱のなかに飛び込んでパンを踏みつけて潰していた。涙を腕で拭いながら、泣き声を封じこめるようにして泣いて――小鳥が震えるみたいに――小さな細い肩が震えて……」
和子は万里に話しながら、大粒の涙を止めどもなく流した。
あの時、「ごめんね、ごめんね」と言いながらタクヤを抱き、和子もまた一緒に泣いていたのだ。それが何に対する謝罪なのかわからないが、和子にとってタクヤに言える言葉はほかに見当たらなかった。タクヤの心の軋みが和子には耐えられなかった。
あの時、山本はライオン組のみんなを束ねて、タクヤと和子を目で探していた。和子に抱かれたタクヤがやっと現れ、ライオンの八木節が始まった。山本が先頭で誘導する保育士であれば、和子は最後尾に付く保育士であった。和子の鈍いユルキャラが、不思議と暖かい母性の広がりを見せていた。
居酒屋で万里は、チビチビと生ビールを飲みながら、和子が落ち着くのを待った。先輩達は毎日を淡々とこなしていく。和子や万里のように悩んでいるようには見えなかった。
万里も未だにトモミの母親の事を考えると腹が立ち、悪酔いしそうな気分になる。そんな時は他の子の事を思い浮かべた。
今日の運動会、ユウタはちゃんと踊れるのに、周りを気にして、いつも一テンポ遅れていた。ユウタの両親の笑顔が見えた。ユウタの母親は正規社員なので、残業も多く、休日もたまに出社する事など、休日の様子まで連絡帳に細かく書いてくる。手に取るように家でのユウタが目に浮かんだ。園ではよそ行きの顔をするが、家に帰れば、子供達は思いっきり甘え、手が着けられないほどワガママにもなる。ユウタの母親も一生懸命関わっている。いわば、普通以上に問題のない家庭なのだ。しかしそれでも毎日悩んでいた。子供を他人任せにしているという罪悪感は、時としてよからぬ方向に向く。保育士は母親の心も気遣うことが求められる。会社では地位も経験も充分積み重ねて男性と肩を並べるキャリアウーマンが園では不安一杯の母親となる。万里は良い仕事をするために、自分自身が育つ必要を十分感じていた。
運動会が終了した後、他の保育士達が片付け仕事をしている中、主任は事務所にタクヤと母親を呼んだ。潰れてグチャグチャになったパンを目の前に置いて話し始めた。
「今日、職員がパン食い競争をしようとして用意した物です。タクヤ君、食べ物を足で潰しちゃったね。ほら、こんなになってしまったよ。悪い事だよね」
タクヤは大きな目から一杯涙を流して俯いていた。その横で、母親が「すみません。ほら、タクヤ。謝りなさい」と言っては、子供の頭を叩いた。
「お母さん、そんなことしちゃ、可哀想ですよ。ご家庭の事情がおありでしょうが、今、一番タクヤ君が辛いんです。いつもなら、とても良いお子さんで、今日の運動会を楽しみにして、踊りも頑張ってたんです。ね、タクヤ君、もう、みんなに迷惑をかけたり、よその人の物を壊したらだめよ。分かるね」
タクヤはコクリと頷き、腕で涙をぬぐった。
「さあ、また元気で明日登園してきてね」
主任はそう言って二人を帰した。
主任が後ろ姿を見送っていると、母親は乱暴に子供の腕を引っ張り、タクヤはまたマリオネットのようになっていた。
幸せと不幸せの領域は、低い垣根で仕切られていた。スレスレの際どい所で留まるか、知らずに越えてしまうのか。見えないへその緒に引っ張られ、母親の進む方へ子供は否応なく流されていく。毎回、苦しんでいる子供と接しては、力になれない遣る瀬なさを感じた。主任はそれが保育に携わる自分の試練だと思った。
運動会の余韻もつかの間、万里と和子は七夕祭りの飾り付けをするため、土曜の午後、休日出勤をしていた。
「万里ちゃん、この分だと、夜八時頃までかかるかもよ。運動会が終わったと思ったら、七夕になるし、プールがあって、次は夕涼み会ですか。保育園は、次から次ぎへと行事がありますねぇ」
和子は手を動かしながら不平を漏らした。
「だって和子さん、前の職場も同じじゃないですか」
「まあね。でも、小学生相手は、やり方さえ教えれば、自分達でやるからね。こんなに大変じゃないのよ。学童保育の小学生は自分でメダルを作るしね。大人が作ったんじゃ、かえって喜ばないのよね」
「じゃあ、こんな大変な職場、どうして選んだんですか」
万里は和子を見上げて顔を覗き込んだ。
「だって、ほら、一応資格は保育士だし、園児のかわいさに引かれて資格を取ったんだから、一度は保育園に勤めなきゃと思って」
「じゃあ、後悔しているんですね。忙しくって」
「そ、そんなことないわよ。みんなかわいいし。私、万里ちゃんみたいにうまく工作できないけど、私が作ったものでも喜んでくれるしさ。楽しいですよ。恋人できないくらいこき使われていてもね」
万里は笑った。和子にはまだスグルの事を白状していない。仕事で精一杯の自分に恋人はいないのだと、思いたい気持ちで揺らいでいた。
「私だって、恋人できないですよ」
万里は和子を見ずにいった。
「あ、ウソつきー。この頃、色っぽくなったって評判ですよ」
「えー、誰がそんなこと言っているんですか。いやらしい」
「ス・ス・ム。アイツがね。運動会の時、あのセーラームーン、色っぽすぎねえかって、言っていましたよー。お父さん達の視線感じなかったぁ」
和子はイタズラっぽく万里の顔を覗いた。
「えー、ひどいー。そんな風に観てたんですか」
万里は赤くなりながら腹を立てた振りをしたが、進の言葉がちょっぴり嬉しかった。だが、作業は半分も終わっていない。浮かれてばかりもいられなかった。
その時、事務所の電話が突然鳴った。和子が取ると園長の声が聞こえた。
「あ、和子さん。ご苦労様。よかったわ、いてくれて。万里ちゃんはいるかしら、いたら代わって」
和子は慌てている園長の様子に驚いて万里を呼んだ。
「実はね、さっき警察から電話があってね。ウサギ組のトモミちゃんとお姉ちゃんが補導されたらしいの。母親と連絡とれなくてね。交番のお巡りさんが、子供達が怖がっているからって連絡が来たのよ。ちょっと悪いんだけどね、万里ちゃん、交番にいってもらえないかしら。お母さんが見つかるまで、一緒に居てあげてくれる。もう遅いから、和子さんには戸締まりをして帰るように伝えてね」
園長はそう言って、交番の電話番号と場所を教えた。和子に戸締まりをお願いして、万里は大急ぎで交番に直行した。
生暖かい夜だった。交番は、石神井川沿いの道を行き、坂道を登って、万里が利用していない駅の近くにあった。街頭は等間隔で点いているが、昼間、園児を連れて来たことのなる道なのに、青々と茂った銀杏並木が、今は黒々とした何でも飲み込む海原みたいだ。街頭は遠くの漁火のようにしかみえない。
慌てて走ってきたので、交番を前にして声が出なくなってしまった。漸く、園長からの指示で子供達の付き添いに来たことを告げると、椅子に座っていた年輩の警官が口を開いた。
「やあ、助かります。何しろ小さい女の子達なんでね。私なんぞが近づくと泣き出しちゃって困っていたところです。上の子が保育園の先生に来て欲しいって言うもんだから。お忙しいところ、すみません。奥の部屋にいます」
万里は状況が掴めず、その警官に尋ねた。
「その前に、いったい、どういうことで交番にいるんでしょうか。園長からは補導されたという事しか聞いていないものですから」
「いや、実は――この子達の話では、昨日から母親が帰ってこないらしんです。それで、お腹空いたんで、母親を探しに出たんですな。四時頃からさっきまで二人で、駅近くのパチンコ屋を転々と探して……店の方から夜八時頃通報が入りましてね。ここに連れてきたんですよ。母親は携帯に電話をしても出ないですしね。何か食べさせようとしても、怖がって固まっちゃうし、困っていたところですよ」
二人は交番の奧部屋で、まるで猛禽に襲われているヒナ鳥のように、隅に小さく寄り添っていた。
「トモミちゃん、美雪ちゃん、無事でよかったぁ! みんな心配しているよ。こっちへおいで、ミヤ先生にお顔みせてね」
万里は態と仕草を大きくして、体で話しかけるように両腕を広げて近づいた。トモミは万里の首に抱きついたと同時に泣き出した。美雪は、じっと黙って耐えていた。
万里は美雪の肩に手を回し、言った。
「美雪ちゃん、偉かったね。お母さんの代わりにトモミちゃんを守ったんだね。偉かったよ。さあ、二人ともお腹空いたでしょ。何食べたい? 先生もお腹ぺっこぺこ! 一緒に食べようね。ハンバーグかな? ピザ? ドーナツでもいいよ。それとも牛丼かな。何が食べたいか教えて!」
「トモミ、それ、じぇんぶ……」
「だめだよ、トモミ。お腹壊しちゃうよ」
「――そうね。お姉ちゃんの言う通り。全部食べたら、風船みたいなお腹になって破裂しちゃうかな?」
「パーン……って!」
トモミが神妙な顔をして心配していると、やっと美雪にも笑いが戻った。どんなに心細かっただろうと思うと心が痛む。
ハンバーガーセットを三人分買ってきて、交番の奧部屋で食べた。食べ終わっても、トモミの母親とは連絡が取れない。警官が再三、トモミ達の暮らすアパートに行っては確認し、張り紙をしたのだが、連絡はこなかった。子供は長い緊張の中で疲れ、満腹に助けられて寝入った。
万里は二人を自分のアパートに連れて行くと主張したのだが、園長の許可は取れなかった。結局、母親は見つからず、夜中近くになって児童相談所の職員二人が来て、子供達を一時保護する形となった。
どのような理由なのか知る由もないが、そこに片親しかいない家庭の脆さを感じた。
以前、万里が高校生だった時、自分の育った平凡な環境が嫌でたまらなかった。父も母も蟻のように働き、米粒を一つずつ運んでくる人間だ。そこに華やかさはなく、小さな下らない事で喜んだり、悲しんだりしている。大きなイベントといえば、私のピアノの発表会、ノブのサッカー試合、入学や卒業などと、物語も生まれないほどの平凡さだった。旅行といえば、近場で日帰りのハイキングぐらいで、優雅に外国旅行もしたことがない。
いつか母に言ったことがある。
「お母さん、平凡な生活でつまらなくないの。私だったら、もっと華やかな結婚生活してみたいけど。お父さんって超地味だし」
そういうと母は答えた。
「馬鹿ねぇ。平凡が一番。何も問題がないように過ごすってどんなに大変なことか……。今に、万里も分かる日が来るわよ。お父さん、ちょっと頭の毛が薄くなって、お腹でちゃったけど、昔は素敵だったのよ。お母さん、今でもお父さんが一番好き。お父さんも仕事が終わると、さっさと家に帰ってくるでしょ。お母さんのこと愛しているからよ」
そういって惚気る。そんな母を見て、益々嫌になったものだ。
しかし今、少し母の言ったことがちょっぴり分かる。親が地道に生活してきたからこそ、自分もノブもひもじい思いもせず、親が帰らないなどという不安を知らずに育ったのだ。だが、安全な結婚生活。子供を守るための生活。そんなところに自分の幸せは存在するのだろうか? 親となった途端に自由を失うのだとすれば、何時になればその自由を諦めることができるのだろう。
翌週の月曜、朝のミーティングで園長から篠田知美の件について話があった。
「ウサギ組の篠田知美ちゃんが、先週の土曜、姉妹二人で夜の街に母親を探し出て、補導されました。なかなか母親と連絡が取れず、児童相談所の一時保護となりました。現在、お母さんに連絡がつきましたが、まだ保護施設に預けられています。幾日かしたら、元の生活に戻って、また登園するので、私達も児童相談所と連携しながら、篠田さんたち親子を支援しましょう。万里ちゃん、土曜日はどうもありがとう。お陰で助かりました。これからも見守ってあげてね」
園長はそれ以上、この件について話さなかった。きっと児童相談所からは、もっと情報を聞いたに違いなかった。母親がいったい何をしていたのかを……。
万里はウサギ組の部屋に行ってから高山に土曜日の一部始終を話した。高山はそっけなく言った。
「大変だったね。でも、きっと変わらないだろうなぁ。そんなことがあっても。私達は、淡々と一日の仕事をこなして、子供を見守るっきゃないよね」
万里はそれでも何か言って欲しくて言葉を紡いだ。
「でも、ユキ先生。私もっと何かしてあげるべきだって、そう思うんです。児童相談所の職員が二人を連れて行くとき、あの子達、私のことじっと見詰めていて……。何か訴えているような、非難しているような顔で――私、居たたまれなかった。その晩、あの目がずっと忘れられなくて……」
高山が万里を横目で見て、大きく溜息をついた。
「だってしょうがないでしょ。あなたは彼女達の母親になれないんだから。一日や二日預かったって、その後どうするの。期待させるだけ残酷じゃない。園長が二人を万里ちゃんの家に連れて行かせなかった理由をちゃんと考えなきゃ。保育園の外は私達の出番ではないの。児童相談所の保護が用意されている。プロだったら、一時の感情に流されて仕事の範疇を超えてはだめ。責任持てないことをしてはいけないのよ。自己満足では子供を守れない。よく考えなさい。あなたの受け持ちはトモミちゃんだけじゃない。二十一人のウサギ組の子供達全員なのよ」
高山は万里の肩をポンと叩いて、端で盛り上がっている子供達の円陣に入っていった。
部屋を見渡すと、みんな楽しそうに遊び始めている。ユウタが引き出しからお絵かき用の紙とクレヨンを取り出して、テーブルの上で何かを描いていた。そっと横に寄って、「何描いているの」と聞くと、ユウタは万里の方を向いてニッと笑って答えた。
「ミヤちゃんのみー」と言ってひらがなの『み』の字を書いていた。万里は驚いて聞いた。
「お母さんに教えてもらったの」
「うん、そう。ミヤちゃんの『み』でしょ、これ。いっぱい練習したの」
万里は心に不意打ちを食らい、涙が落ちた。ユウタが不思議そうに口をポカンと開け、万里の顔を見ていたが、納得したように尋ねた。
「ミヤちゃん、かなしいの?」
万里は顔を両手で被い、涙を拭って言った。
「ううん、大人になるとね、嬉しくてもすぐ涙がでちゃうんだ」
「ふーん。ミヤちゃんにも泣く虫がいるんだね。ユウタもね、虫がエーン、エーンって泣くの。パパが言ったよ。虫はここにいるんだって」
ユウタの小さな人差し指が自分の胸をちょんちょんと差していた。万里はまた両手で顔を拭う羽目になった。
その後、トモミは一週間後に再び登園するようになった。