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高梨百合子は一九九九年に空を飛ぶことを覚えた。僕と同じように。

 久しぶりに空を飛んだ感想は、恐怖、その一言に尽きた。

 何故って、考えても見てほしい。地上数十メートルを腕一本でぶらさがって飛んだのだ。未来では銀幕を駆けるうちの妹殿ならまだしも、十二歳の並木少年はそんな状況でも楽しめる余裕など持ちあわせていなかった。それはバイクの運転に似ていて、いつか如月氏の後ろに乗せてもらった時、自分が乗るのとこんなにもスピード感が違うのかとおののかされたものだ。足元には遠く街並みが見え、今度落ちたら骨を折るどころの騒ぎではないなと、じんわり手のひらに汗をかいた。

「いくらなんでも、君ね……。女の子に抱きついても許される年じゃないと思うんだよ」

 少女はそう告げられて僕は頬をかく。すまない、腕一本というのは嘘だった。

 黒服たちを振りきったと思われるところで、彼女は割合早く地に降ろしてくれた。そこはこの街唯一と言っていい栄えた場所で、僕が向かう予定であったテレビ局もこの一角にある。背の高いビルとビルと狭間に降り立って、二人は白い息をのぼらせている。

「まぁ、ごめんね。怖い思いをさせちゃってさ」

「いや、こんななりで言うのもなんだけど、ちょっと楽しかったよ」

 昔を思いだした、とまでは言わない。超能力少年には今や過ぎた言葉だ。

「それに助けてもらったし。ありがとう。キミが来てくれなかったら、どうなっていたことやら」

「ああ、それもね。悪いと思っててさ」

 灰色のビル壁に寄りかかって、彼女は髪をかきあげる。人が行き交う音が遠い。僕は彼女のなにげない仕草にも目をとらわれてしまっている。

「彼ら、ずっと私のこと狙ってるんだよ。今日も追いかけっこをしてたんだけど、ようやく撒いたと思ったら、今度は君のことを取り囲んでて。たぶん、私の隠れ家を知ってるんじゃないかって考えたんだと思う。ごめん、巻き込んじゃったね」

「それはキミが……ギフテッドだから?」

「その言葉を知ってるってことは、やっぱり仲間なんだ。そうだよ、私もあの一九九九年にこの異能に目覚めた」

 自由に空を飛ぶ力。それを僕が失った時には大きな喪失感があったものだ。空から見るこの街はいつも綺麗で、特に夜には小さな光がぽつりぽつりと輝く光景が……なんだろう、心にしみたんだと思う。ひとりで過ごした日々にはそれが世界のすべてに思えた。でも、今日久方ぶりに見た姿には、こんなに小さな街だったかなと感じて、恐怖の片隅にはなんだか不思議な気分があった。

 しかし、あんな風に空を飛べるなら、黒服たちから逃げるなんてお手のものなのでは?

 初めて会った時に、ジェラルミンのケースを抱えて、息を切らせて走っていたのは何故だったのか。

「ん? それはね、恥ずかしい話なんだけど、私の体力的な問題でさ。自分一人で飛ぶならまだしも、なにかを抱えてとなると難しくてね。スピードも出ないし、すぐ疲れちゃうんだ」

 キミのことも落っことしそうになっちゃったよと言われ、笑うに笑えない。一方彼女は両手を天に、猫のように伸びをして大あくび。先まで追われる身であったというのに、異能を持つ者の余裕を感じさせる。

「で、これからどうする?」と彼女。

 僕は不意に現実にひき戻される。今日はこれからテレビ局で収録の予定だった。だけど、用意した小道具はすべてカバンの中で、あの黒服たちの輪の中に置いてきてしまった。あれがないと仕事にならないが、さりとて今から取り戻る勇気もない。財布もなくしてしまったのも痛い。文無しではここから家に帰るのに一時間近く歩く羽目になってしまう。その間にまた黒服たちに捕まる可能性も低くはない。

 そうだ、問題はまだなにも解決していないのだ。僕もこれから追われる日々を過ごすことになる。

「とりあえず――」軽い頭痛を感じて僕は目をつぶった。「そうだな、まずは職場に行くよ。あそこなら匿ってくれると思うし」

「職場? って、もしかして」

「最近、よくテレビにでてるからさ。僕の顔、見たことあるんじゃない?」

 少し調子が戻ってきた。小生意気な顔で、観客にむけて得意げにマジックを見せる、あの並木葛生の顔が戻ってきた。やっぱり僕はこうでないと生きられない。謙虚で慎み深かった少年は、あの一九九九年に壊れてしまったのだ。

 過ぎた異能は、人を人ではないものに変えてしまうという。

 失った今、ようやくその意味を考えはじめた。

「僕は並木葛生。キミの名は?」

「高梨百合子」

 歌うような、透き通った声だった。

「短い間になるかもだけど、よろしく。ユリ子()()

「あはは、よろしくね。クズオくん」

 ――さて、ここで話は転換する。

 彼女を誘ってむかったのは、超能力くずれの少年たちの戦場だ。川沿いの一角に建てられたそのビルは、中央部が吹き抜けになっており、空から見れば大口をあけた熊のようにも見える。かつてその感想を聞いて笑った少年は、カメラの前で断末魔をあげて消えていった。以降、彼を見かけることはなかった。きっと日常へ帰っていったのだろう。本人の望みでは決してなかったろうが、それは幸せな結果であったと僕は思う。

 僕には帰る場所がない。父は奔放に海外を飛びまわり、母だった人はこれから数ヶ月後に間男を家にひきいれ、縁を絶たれる運命にある。未来予知の異能は持っていなかったはずだが、無意識にその気配を感じていたのだと思う。家のベッドで毛布に包まれていても、僕は孤独に震えていた。だからこそ。

 だからこそ、戦場すら失ってしまったなら、僕にはもう帰る場所どころか、居場所すらなくなってしまう。

 ここで降りるわけにはいかなかった。

「やあ、並木君。今日は珍しく、マネージャーを困らせていると聞いたんだが」

 楽屋を訪れたのは、番組のプロデューサーであった。外で食事をとってきたのか、コートを肩に羽織っている。趣味の悪い、どうにも今日あったばかりの災難を思いださせる、やたらに黒い出で立ちだ。彼は緩んだ腹を揺らして、僕が座る鏡台の前までやってくる。

 大人は皆、大きく見える。彼の影が、すっぽりと僕を覆った。

「そちらのお嬢さんは、どちら様かね」

 ぎょろりと特徴的な三白眼が、僕の隣をにらんだ。百合子先輩は困ったように笑顔をつくり、僕の背中を軽くつねる。痛い。どうなってるのよこれは、という台詞がテレパシーでもないのに心に聞こえてくる。

「彼女は僕の友人でしてね。ぜひここに来たいと言いまして。どうでしょう、今日は観客席にでもおいていただけませんか」

「ここは学童保育じゃあないと、おまえたちには常々言い聞かせてきたつもりだったんだがね。なんだ、今日の出演者のファンかい? サインならあとで渡してやる。だから、今日は帰ってもらいなさい」

「村田さん」

 と、僕は彼の名を呼んだ。彼とはもう二年の付きあいだ。年の差をわきまえた話し方はわかっているつもりだ。だが、今日はあえて二歩、三歩と踏みこんでいく。

「少し、話を聞いていただけませんか。決して損はさせません」

「並木君、いくら売れっ子の超能力少年でもな、私のステージを遅らせるのは許せんよ。さあ、あと三十分もしないうちに本番がはじまる。その口を閉じて、さっさと言うことを聞きたまえ。なぁ、おい?」

「――村田さん。彼女は僕の友人と言ったのですよ」

 高ぶりかけた村田プロデューサーの感情が、ふと足をとめた。そして、「友人?」と返される。言葉の意味に気づいたようだった。超能力者としてテレビの前に立ち、プロ顔負けの奇術でお茶の間を騙す少年――その友達というプロフィールに興味を持ってもらえたらしい。僕は唇に笑みを浮かべてみせる。

「紹介料はいりません。僕のギャラをあげろとも言いません。ただ、一つお願いがあるんです」

「ふん、一つくらいなら聞いてやれそうだ」

「ここしばらく、僕らは悪い大人たちに追われています。正体はわかりません。ですが、ずいぶんな人数でして、手を焼いています」

「それで?」

「しばらく匿ってはくれませんか? そして、できるだけ早く、彼らを排除していただきたい」

 彼の影が、より巨大に、より深くなって、床を侵食しはじめた。かつてこの身にあった異能の名残りなのか、僕にはたまにこういった幻覚が見える。人の持つ感情の振れ幅を、やや大げさに読み取っているのだろう。瞳に映るそれはたいてい怒りや恐怖によるもので、愛情など見たことがない。

「なぜ……私なら、その敵を避けられると?」

「それは村田さん、あなたも悪い大人だからですよ」

 彼は憎々しげに息を吐いて、楽屋をでていった。僕は隣に座る百合子先輩に片目をつぶって見せた。ようやく彼女は僕の背から手を離してくれる。さぁ、あと時間は二十分もない。そろそろスタジオへ向かわなければ間にあわない。

「あの村田さんっていう人、怖い人だね」

 そう囁きかける彼女を背に、僕は廊下を歩く。

「僕も苦手なんだ。あの人は何人も僕の友達を、消した」

「消した? まるでマジックみたい」

「人は意外と、簡単に消えるんだよ。ハンカチや帽子を使わなくたってね」

 遅刻した僕にはリハーサルの時間もないようだった。楽屋で読んだ台本のとおり舞台にあがる。先に別れた百合子先輩は観客席の最前列に陣取って、おかしなことに小さな熊の人形を抱えていた。誰かが渡してくれたのだろう。まだ子どもとはいえ、中学生にそれはないんじゃないかと苦笑してしまう。

 さて、ひな壇に座ると今日もまた髭面の司会が陽気にタイトルコールを叫んだ。いつもと違うのは、僕の方になんの準備もないこと。楽屋でその旨をマネージャーに伝えたところ、幸いにも今日の企画は局で用意していると伝えられた。きっと大がかりな演出なのだろう。空中浮遊でもやらせてもらえるのか、それならついさっき練習してきたばかりだぞと席の下に隠した台本に目をやる。そこには『並木は司会に促されて、前へ』とだけ書いてある。その後の空白はアドリブでの対応を求めていた。

「さあ、今日もこの子に来てもらいました。並木葛生くん! こちらへどうぞ!」

 ステージの中央でひとしきりトークの時間を終えると、がらがらと運ばれてきたのは布のかかった小さな箱のようなもの。なんだろう、拍子抜けした気分を笑顔で隠しながら布をめくりあげると、そいこにはガラスケースに収められたろうそくが一本。

 司会者の顔をちらりと見あげる。彼は顎髭をなでると、こちらから視線を外して観客に語りかけた。

「彼の得意技は、そう、皆さんも覚えてますよね。このろうそくに手を触れず、マッチやライターを使うこともなく、彼は火をつけることができる」

 いや、待て……。待ってくれ。

 確かにそいつは僕の得意技()()()。手に持ったマッチに念を送るだけで、ぽっとともしてみせる。今目の前にあるのは、その変形だ。かつての並木少年なら、どうということもなく、満面の笑顔でやってのけたことだろう。だけど、今の僕は。

 もう一度、司会者の彼に視線を送る。彼は観客に悟られぬよう、僕にむかって口角をあげて見せた。そうか、きっとこのケースの中には仕掛けがあって、合図にあわせて着火する、そんなシナリオが待っているのか。汗ばむ手のひらををガラス一枚隔てたろうそくに広げ、まぶたを閉じる。アドリブなんてこれまで幾度となくこなしてきた、客の盛りあげ方も心得ているつもりだ。

 長い六十秒が過ぎた。

「おおっと、並木くん。上手くいかないようですねぇ。今日はいったいどうしたのでしょう」

 なにも起こらない。先から力を込めてケースにむけて念じるポーズをとっているというのに、あるはずの仕掛けが作動しない。このままでは場を冷やしてしまうじゃないか、いったい演出家はどうしてしまったのか、そこには冷たい空気と、その中におさめられたろうそくがある。

 そう言えば、冬火さんが言っていた。面白い客が店に来たと。

 片方は腹のでた中年で、無免許医師のごとき黒いコートを羽織っていた。もう一人は良いスーツを着ているというのに、髯を生やしており――。

 三度目の確認を行った。顎髭の彼を見あげると、明確な答えがあった。彼にしてみれば、ただ両の目を細めた程度のものだったろう。だけど、僕の視界には裂けるほどに口を歪めた鬼の姿があった。あの一九九九年に恐怖の大王から与えられた贈り物、その残り香が僕の景色をジャックする。黒い炎がステージの上を渦巻き――いや、それは司会の彼からだけ放たれているものではない。振りむいて観客席を見おろした。そこには哀れな手品師の破滅を望む、無言の悪意が集団となって煙を吐いている。

 これが幕引きなのだと、とうとう気づいた。

 そろそろと突きだした手をおろす。髭面の司会がなにかを煽っているのを聞くが、その意味を理解するのももう無理だ。笑ってしまう。ようするに僕は切られたのだ。彼らは新しい操り人形を見つけたのだろう。古臭い熊のぬいぐるみとはおさらばってわけだ。そういえば冬火さんが店に面白い客が来たと言っていたな……。いや、その話はさっき……。

 その時、客席からステージにのぼる人影に気づいた。

「ちょっと、君――」

 慌ててとめようとする司会の腕を潜り抜け、そっと僕の隣に立つ。それからくるりと綺麗なターンを決めてだしたのは、カメラに向けてのファックサインだ。

 百合子先輩だった。彼女はショートの黒髪をさっと揺らして、僕の手をとる。これで三度目だ。そして、この暖かさの意味をはっきりと意識する。

「さあ、逃げようか」

「……どこへ?」

「そうだね。とりあえずは、誰もいないところへ」

 今度は丁寧に抱えられて空を飛んだ。観客の悲鳴も、司会のマイクを通した怒号も、もはやなにも気にならなかった。夢を見ているようだった。それは建物情報の窓ガラスを割ったあともしばらくつづいて、不思議な爽快感に自然と声がでていた。

「はは、はははは!」

 眼下には街の姿がある。僕らの住んでいた、小さな小さな世界。

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