もしも並木少年がマス・オーヤマだったなら。
卒業式には父も、母だった人も来なかった。
家に帰っても誰もおらず、夕飯も用意されていない。丸めた証書を部屋の片隅に投げ、鞄を置いて、また靴を履く。広すぎる庭園をでて街に戻れば、そこにはちらほらと塾通いの少年少女の姿があって、己の環境の特殊性に目をむけずに済んだ。当時は携帯もなかった頃で、そして僕も社交性に富んだ方ではなかったものだから、食事に誰かを誘うということもなく、その後はあの薄暗い路地の奥にある店に転がり込むという、いつものルーチンをこなした。
翌日、晴れて小学生という身分を終えたあとも、なにも変わらない。朝起きて、その日のニュースに目を通して、コーヒーで背伸びをすると、テレビ局のスタジオにむかう。その日の台本を読みなおして、楽屋に挨拶に行って、ませた子どもだと笑われる。収録は夜までつづき、食事をとって、冬火さんを訪ねる。次の日も、次の日も、その繰り返しだ。
唯一の趣味といえばピアノだった。幼い頃、母だった人に買ってもらったハヤマ製のアップライトは、十年経っても変わらぬ音色を響かせてくれた。当時はクラシックしか知らなかったものだから、弾く曲と言えばベートーヴェンやショパンといった髭面の大御所ばかり。教室に通うのはとうにやめてしまっていて、一曲覚えるにも相当な時間を要したが、それでも楽しかった。誰に聞かせるわけでもなく、どこかで発表するわけでもなかったが、ただ一人で譜面にむかうのは自転車に乗って遠くの街に行くのに似て、密かな達成感を感じることができた。
四月になり、そんな束の間の春休みにも終わりが見えたころ、転機が訪れる。
その日も収録のためにテレビ局へむかっていた。底の厚い冬靴が未だの残る雪の残骸を踏んで、濡れた音を立てている。北海道の春はまだ先で、桜もまだつぼみを固く閉じている。この花が開く前に自分は中学生になり、きっと新しい友人を作ったり、また学業にいそしんだりするのだろう。部活に入るためには、そろそろ仕事にも見切りをつけなくてはならない。だけど、果たしてすんなり足を抜かせてくれるだろうか。超能力がなくなったので今日でやめますと言える段階はとうの昔に通り過ぎてしまった。
と、そんな時だ。
通りの角から騒がしい靴音が聞こえてきた。覚えのあるシチュエーションだ。いや、覚えがあるどころか、それを期待して毎日のルーチンを変えずに来たのだ。
今度はせめておとなしい接触をと、腕を前にボクシングガードをとった。膝は緩めてコンバットスタンスで迎え撃つ! これでジュラルミンケースの衝撃にも耐えうるはずだ!
すると、向こうもこちらの影に気づいたらしい。正面衝突は避けられ、相手と僕は必然と向きあう形となる。
顎を引いて待ったゆえに、最初に目にしたのは靴だった。黒い牛革の靴だった。視線をあげていく。スーツもコートも色は黒。胸元から覗くワイシャツはボタンがはち切れんばかりに膨らんでおり、緩んだ襟元からはラグビー選手かと見まごうほど太い首。サングラスの下にはきっと鋭い眼光が潜んでいるに違いない。髪が短いのは掴み合いのリスクを嫌った結果か。
「げえ……」
あの少女を追っていた方の筋肉男子さんであった。
しかも、振りむけばでてくるでてくる、柱の陰から、店のドアから、大量の黒服たちが現れて僕をとり囲んでいた。
「ご……」
「ご?」
と、黒服が僕から漏れた声に首をかしげる。
「ご用件を伺わせていただいても、よろしいでしょうか」
「なんだ。いつぞやとは違って、ずいぶんと威勢が悪いな、少年」
そりゃそうですとも……。こちらの問題の方はすっかり忘れてしまっていたのだ。あの日、僕は手練手管を使って散々ホラを吹いて見せた。そのツケを払う日が来るなんて思いもせずに。
「その、皆さん……少し、お時間をいただいても?」
そう言って、おずおずと背中に背負ったリュックを地におろす。湿ったアスファルトが飛沫をあげるが、そんなものを気にしている余裕はない。中から取りだしたのは、空手の演武などで用いられる瓦が五枚。今日の収録で使おうと考えていた代物である。そいつを裏を見せないよう、慎重に積み重ねた。
「ええと、今からこの瓦を、割ります」
とり囲むの男たちが疑問の声をあげる前に、「せいやぁ!」と絶叫して、手刀を振りおろした。すると瓦は綺麗な断面を見せて真っ二つに砕けた。
「おまえらも、この瓦みたいにバラバラにしてやろうかぁ?!」
「お、おお……」
相変わらずリアクションが良い。途端に彼らは後ずさり、身を寄せ合ってなにやら言葉を交わしはじめた。
「……やつは筋力操作もできるのか」
「末恐ろしい少年だな。炎の能力だけじゃあなかったっていうのか」
「しかし――」
一斉にこちらを見つめてくる。まだ春も遠いというのに、額に汗が浮かぶのを感じる。
ぽつりと向こうの一人が呟いた。
「あのくらいだったら、俺の筋肉でもできるぞ」
で、ですよね!
解説しよう。先の瓦にはもちろんトリックがあった。建築に使われるそれとは異なり、〝のし瓦〟と呼ばれる種類には、背面にあらかじめ切れ目がいれられている。材質にもしなりがなく、子どもが少し体重をかけるだけで割れるようにできているのだ!
ただ、黒服さんはそれを知っていて答えたのではなさそうだ。なぜって、彼らの二の腕を見ればわかる。服が裂けるほどに膨らんだあの筋肉をもってすれば、瓦なんて真っ二つどころか、粉々なるに違いない。
「少年、思っているとおりさ。俺たちにはおまえのように特別な力はないが、己の持てる力を特別に鍛えている。それが大人というものだ。代わりに割ってみせろと言うなら、なんだって割ってやるよ。瓦でも、板でも、おまえの頭でもな」
「じゃ、じゃあ、円周率を割っていただけますでしょうか」
「……およそ三だ」
すごい、これが大人か!
あるいは相変わらずのつきあいのよさが、大人の証明なのだろう。よくヒーローもののドラマや漫画などで「どうして変身中に殴りかからないの?」という疑問を耳にするが、それはひとえに敵役が大人だからという理由に尽きる。こんな自伝を書いている自分も、あれからずいぶんと年をとってしまったが、彼らの紳士ぶりを振りかえれば、まだまだ子どもなのだと思わずにはいられない。
さて、一方でこの時の並木少年はどうやって変身を終えようかと悩みに悩んでいた。
リュックの中にはまだまだネタがあった。たとえば、一瞬で青色に変わる薔薇だとか。――おまえらの血も、この薔薇のように青くしてやろうか? いやいや、ないない。青くなったからと言ってどうなるんだよ。じゃあ、代わりにトランプなどはどうだろう。このハヤマ特製のカードなら、上手く投げればスイカの皮くらい簡単に刺さる。さあ、ならスイカをどうやって調達するかだが――。
「お困りのようね」
その声は唐突に、空から降ってきた。
見上げると少女がいた。あの時の少女だった。彼女はなにもない空中に静止し、短い髪を風になびかせている。文字どおり、浮いているのだ。それはかつて僕が持っていたものと同じ力、冬火さんがギフトと呼んだ子どもたちだけに与えられた異能であった。
「キミは、どうして……」
「あの時、助けてもらっちゃったからね」
馳せ参じてみました、と茶目っ気たっぷりにウィンクする彼女。そして、そっと手が差し伸べられた。この手をとったら、どうなってしまうのだろう? 不意にそんな疑問が浮かんだ。
しかし、周りの黒服たちが慌てて駆け寄ってくるのが視界の端に移り、僕にはもう選択肢などなかった。
彼女の手のひらを握る。しっかりと、強く。
すると、その肌を通して、じわりと彼女の暖かさを感じた。
それは、四月になってもまだ雪が降るこの街の土地柄によるところが大きかったのかもしれないが、それでも。
「さあ、逃げるよ」
返事を告げる前に、ふわりとつま先が浮き。
そうして僕は久しぶりに空を飛んだのだった。