並木少年は人が空を飛ぶ瞬間をはじめて見た。
三月になると来たる春休みを前に、仕事も加速度的に忙しくなっていった。
春の特番のために連日テレビ局通いで、収録するたびに共犯が増えていった。もはやスタジオの中で僕の嘘を知らない者はいない。あのお笑い芸人も、あのサングラスの司会も、本当の並木少年を知ってしまっている。僕はなにかの外堀を埋めていっているような気がしてならなかった。
唐突だが、ここで一つのエクスキューズをしたい。
それは僕が創作において、しばしば誘惑にかられながらも決して使うまいとしてきた展開、そう、食パンをくわえた少女との物理的な接触についてだ。そういったシーンがでてきた瞬間、読者はきっとこう考える。なるほど、笑いを取りにきたのかと。違うのだ。言い訳をさせてほしい。僕はこの小説を安易なフィクションとして展開させるつもりはない。
冒頭で僕は、過去と正直に向きあい、実際にあった事柄を真摯に書くと宣言してしまった。だから、ここからの話は――ただただ事実であるから紹介するに過ぎない。
ある日のこと、雪がちらつく街を仕事道具を背に歩いていると、通りの角から騒がしい靴音が聞こえてきた。
時計を手にした兎が穴に落ちるところかな、とそんなこまっしゃくれた空想を抱いて奥を覗き込んだ瞬間、僕は顔面になにか固いものを叩きこまれていた。
「げぼぉ?!」
間髪入れず、立てつづけに食らったのはショルダータックルだった。口からなんとも形容しがたい液体を吐き散らしながら雪道に転がると、見あげた空がぐるぐるとまわった。あ、やばい、これは脳震盪というやつだ……。すると、その視界に小柄な少女の姿が映りこんだ。
「だ、大丈夫!?」
印象的な瞳だった。大きいのに黒目がちで、その長い睫の隙間からはやや活発な色が窺える。あまり見つめ過ぎずにいれたのは、大粒の汗が僕の額に落ちたから。ショートの黒髪が濡れて頬にかかっており、その毛先からまた滴がしたたった。桜色の上気する頬。大きな荷物でも抱えて、ここまで長く走ってきたのかもしれない。
手を差し伸べられ、ふらつきながらも起きあがる。ファーストコンタクトは激しいにもほどがあったが、背中のリュックが二度目の衝撃から身を守ってくれたらしい。やれやれとため息がついたところで、鼻孔から熱いものがつつと流れた。おかしいな、スカートの中でも見てしまったのだろうか。記憶を飛ばしてしまったのかもしれない。
「……キミこそ大丈夫かい」
鼻をすすりあげながら訊くと、彼女ははっと周囲を見まわし、地に転がったケースを見つけて抱えた。それはジュラルミン製のように見えて、少女が持つにはあまりに不釣り合いな重量感を漂わせている。ああ、あれがぶつかったのか。鼻とか折れてないかな……じゃないや、あんなもの、どうして持っているのだろう。
「あ、あの」
少女は言いかけて、切れ切れの己の息に気がつき、その桜色の唇をきゅっと噛みしめた。
「あのね」とあらためて切りだされ、その瞳に光がともる。「……実は大丈夫じゃないの」
ええ?と尋ねかえすのもつかの間。
通りの奥からさらに複数の影。やってきたのは男たちだった。全員黒のスーツにサングラス、それだけでもただごとじゃないっていうのに、首回りが太く隆起し、肩幅が異様に広く、ええと。なんだこれ。そろいもそろって、どこのビルダーさんですかというほどムキムキだった。
「あ、これはやばい……」
今度は思わず声にだしてしまっていた。
「助けて! お願い、追われてるの。こいつらまとめて空の彼方に吹っ飛ばして!」
マジでリアルにやばい女の子にぶつかってしまった……。
空から女の子がってレベルじゃない! 四十秒で死にかねない!
だが、言わせてもらおう。小学生と言えど、僕は男だった。男子三日会わざれば括目して見よという。あの日、冬火さんの店で震えながらコインを掴んだ子どもとはもう違うのだ。成長していた。大人の階段をのぼりつつあったのだ。
「おまえら、女の子一人に恥ずかしくないのか」
少女を背にかばってそう言い放つと、途端に黒服が一斉に僕らをとり囲んだ。やつらはおもむろに腕を組み、こちらに品定めするかのようにねめつける。
「威勢がいい坊やだな」
ハハッと、やたらにさわやかな声が漏れる。歯が白くてとても綺麗だ。
「だが、勉強は苦手と見える。坊や、時と相手を選ぶべきことを知るべきだ。その年で死の淵をのぞきたいか?」
男たちはゆっくりと上着を脱ぎはじめた。そのままのとまらずシャツまで脱いだ。いや、なんで⁈ するとワンサイズ小さいとおぼしきタンクトップには大胸筋の影がくっきりと。三月の外気がはち切れんばかりの筋肉をなで、白い蒸気をあげはじめた。
「怪我をする前に、さっさと立ち去るがいい」
ポージングが激しい。前列にサイドチェスト、後列にアドミナブル・アンド・サイを置いて、ひとまわり膨らんだ男たちがじわりじわりと迫りつつあった。
「――そ」
ともすれば震えかねない声を、かろうじて絞りだす。
「そいつはこっちの台詞だよ。まさか僕の顔を知らないだなんてな」
テレビ局で鍛えあげられた鋼の心は、こんな状況でも、恥ずかしい台詞をするりと言ってのけた。そして、男たちが唸る。
「なにぃ……?」
意外とノリのいいやつらなのである。
振りかえって考えてみても本当に彼らはいいやつだった。もし大人になった僕が彼らの立場であったなら、こんな調子にのったお子様は、一言も喋らせずにお帰りいただいたことだろう。まぁ、平たく言うと全力で殴りつけている。顔面を陥没させたい! おまえらだってそうだろう!? 誰だって己の恥ずかしい記憶なぞ掘り起こしたら、そうしたくなるに決まってるんだ! なんで僕は、こんな苦しみを背負いながら、こんな本を書いてるんだ……ッ!
……お、落ちつこう。未来の僕と過去の僕がせめぎあって時制がやばい。
「さて、種も仕掛けもありません」
並木少年は言うが否や懐から一本のライターを取りだしていた。いいや、相手には見せていない。見せてはいけないものなのだ。小指と薬指の間に挟みこんで、空の手を装う。そして、そこから繰り出される必殺の一撃は!
親指をこすると、掌の中でぽっと百円の炎がともった。
「この炎でおまえらを焼き尽くしてやろうか……ッ」
すると男たちはまじまじと火を見つめて――。
正直なところ、まずいとは思っていた。ここはスタジオの中ではないのだ。百円で生みだせるトリックなどたかが知れていて、いったいどうして宴会芸なんぞはじめたのかと訝しがられているのでは? ああ、背中に冷たい汗が滴り落ちる、そんな中で。
「こいつ、パイロキネシスの使い手か?」
男たちの狼狽する声が聞こえた。
「炎の異能者か……! こいつはやっかいだな」
「まさか、あの〝気狂い狐〟ほどの使い手ではなかろうが、しかし――」
と、ともあれ、チャンスだった!
会話の中で、僕はこっそりと背のバッグからさらなるアイテムを抜きとっていた。それは小瓶、子どもの身では入手がひどく苦難があった高純度のスピリタス、つまり中身は酒だ。僕は口元をぬぐうふりをして含んだそいつを、間髪いれずに霧状に噴きだし、同時にライターを着火した。
ごおお、と空気を鳴らして炎の壁が男たちに迫る。この技を僕は〝地獄への接吻〟と呼んでいた。たまたま日本に来ていた世界一熱いハードロッカーから、テレビ局の楽屋で教わった技である!
「咆哮が聞こえただろう? おまえたちを殺す獣の声さ」
あるいはテンションがあがりすぎた少年の断末魔にもなりかねなかった。
しかし、捨て身の気迫に押されてか、男たちは数歩あとずさって、びくりと筋肉を痙攣させた。それから口々に騒ぎだす。
「確かにこいつの顔は見た覚えがある」
「そうか、テレビだな。最近よくでてるあいつだ。まさかとは思っていたが……」
「よりにもよって一九九九年のギフテッド・チャイルドか」
「すぐに〝見えない猫の爪〟に報告するんだ。俺たちだけじゃ手に余る」
どこの劇団からやってきたんですか、と口走るのを必死で抑えているうちに、筋骨隆々の男たちは上着とシャツを抱えて走り去っていった。
思えば一瞬の舞台であった。あとに残されたのは僕と少女の二人だけ。
振りかえると彼女は冷たい雪の上にすっかりへたりこんでしまっていて、瞳はうっすらと潤んでいる。今更ながら気づいたのは、こちらよりやや年上らしいということ。さっきはタメ口をきいてしまったなと考えながら脳裏をよぎったのは、なぜだか美しかった頃の冬火さんの姿だった。
「あの、ありがとう。本当に。助けてくれて」
その声で我にかえった僕は「いやなに。当然のことをしたまでですよ」と十二歳にはとても似つかわしくない台詞を吐いた。おそるおそる手を伸ばすと、しっかりとした力で握りかえされ、そこからは暖かな熱を感じた。
立ちあがった少女が話す。
「すごいね、君」
僕は頬をかいて照れる。
「わたし、空は飛べるんだけど、さすがに火を噴くのは無理だなぁ」
「――うん?」
言葉の意味をはかろうと首を傾げたところ、彼女の体がふわふわと浮きあがった。
「じゃあね、超能力少年」
ちゅ、と額に濡れた感触があった。呆けた顔で見あげると、彼女はウィンクをひとつ放ち、そしてそのままあっという間に頭上高く飛び去って行ってしまった。
ぽかんと開けはなした口に、遠い空から雪の結晶が舞いおり、舌にあたってじわりと溶けた。