葉山冬火、太りゆく季節。
それが彼女、葉山冬火との出会いだった。
冬火さんは当時から今に至るまで、本当に不思議な人だと思う。たとえば、小学生の時分には彼女はとても大人に感じられた。それもただの大人ではなくて、あのオズの物語なら悪い魔女の役どころがぴったりのイメージだった。
一方で当時の彼女は、実のところまだ花の女子高生であった。にもかかわらず店を持ち、僕ら超能力者くずれの子どもたちともつながりがあるという、常人では体験しがたい生活を送っていた。
彼女の今の立場からすると、ともすればスキャンダルになりかねないことをこれから書いてしまうが(僕のこれまでの貢献から許してほしいのだが)、その人脈は今日に至っても表に裏にと実に幅広い。あの伝説的インディーズバンドのノッキング・スリーをもう一度表舞台にあげたのも彼女であるし、女優業を邁進している我が妹殿や、囲碁界の新星として活躍中の如月秀作を、ハートレスエッジとして音楽業界へ挑戦させ、各種メディアへ露出させたのも彼女の功績だ。本業としても例の企業の若社長として好調な業績をあげている。才能の塊というのは冬火さんのためにある言葉だろう。
あの一九九九年に異能に目覚め、一年も経たぬうちにただの人となってしまった僕は、冬火さんのおかげで生き延びることができたと言っても過言ではない。それから二〇〇一年までの間は(そして、その後も同様に)連日のごとく彼女の店を訪れた。怪しい古物商の雰囲気で飾られたあそこ、通称〝ハヤマ〟の店は、テレビで活躍する超能力少年の隠れたルートとして非常に重宝されていた。なにしろ、北海道の小さな街にあるにもかかわらず、わざわざ東京や大阪から買いつけにくる者もいたぐらいだ。時には大掛かりな装置も仲介し、年間数千万の利益をあげていたともいう。
「とはいえ、キミのように本物の超能力者がくるのは珍しいけどね」
と彼女は言う。
その手に握られているのは、ピザだった。
誤解がないようにもう一度言おう。
ピザだった。冬火さんはピザを食べていた。それも市販のものではない。謎の配達員から届けられた箱にはどこの店のロゴも入っておらず、口を開けてうっすらと湯気を吐きだしている。
ハヤマピザと名付けると言っていた。彼女の苗字そのままであるが、ここには三つの意味が含まれている。早くて、安い、魔法のピザだ。
ここ北海道では、特に冬場の配達が好まれる。想像してみて欲しい。毎朝踝まで降り積もる雪は人々の外出意欲を著しく減退させる、特に休日となればストーブと断熱材に囲まれた家をでるのは至難の技だ。ここ、札幌のベッドタウンとして生まれた新谷市においても例外ではなく、食材は郊外の大型食品店からの宅配に頼りがちだ。だが、母親だって料理だけを作るマシーンではない。たまには楽をして暖かい料理を手に入れたいわけだ。
特に、うちのような壊れかけの家庭環境ではそうだった。
「そこでピザなんだよ。アツアツのチーズは大人も子どもも虜にする魔法の具材だ。しかし、ここには一つ問題がある。わかるね? そう時間だ。凍ってデコボコの路面を走るバイクなんざ、まともなスピードがでないからなぁ。自然と配達も遅くなり、やがてチーズもぬるくなって固まり――魔法が解けてしまうわけだ。私は考えた。そして閃いた。さぁ、なにを閃いたと思う?」
「いや、トーカさん。僕らはなんの話をしていたんでしたっけ」
「ピザだろう⁈」
「あ、ピザですね、はい……」
テレビの前では口達者な並木少年も、悪い魔女の前では防戦一方なのである。
市内にたくさん店をつくるという意見は、まぁ当然だが、あっさり却下された。この冬火さんは今やもうピザのことしか考えていないように見えるが、実際はそうではない。もう一歩先を見ている。ピザを使って効率よく儲けるにはどうすればいいか? 商魂たくましい彼女の脳は今、それだけに集中している。
「車だよ、クズくん。ピザを運ぶのに車を使うんだ」
歴史を変える一言だった。
冬火さんが、この日、この発言をするまで、ピザはバイクで運ばれていたのだ。しかし、いつか僕らの街に旅行へ来ることがあれば、その目で確かめてみてほしい。雪の日のみならず、天候に関わらず、たとえ夏場であっても、北海道の宅配ピザは車でやってくる。これは紛うことなき事実である。
「でも、ピザの値段はほとんどが宅配にかかる費用だって聞くよ」と僕は知った風な口をきいた。インターネットもまだ普及しているとは言いがたい時期であったから、きっとテレビ局の楽屋ででも聞きかじったのだろう。「バイクが車になれば、早くはなるかもしれないけど、安いっていうのはますます無理なんじゃあ……」
「ピザが高い理由はね、宅配をするからじゃない、効率的な宅配がなされていないからだ。まぁ、電話を受けてから配達するというシステム上、どうしても一定数の待機人員が必要となるのは仕方がないが――そこはな。あえて価格をあげる」
「ええっ、それじゃ全然安いってことにならない……」
「代わりに二枚目のピザは無料だ」
ピザの価格理由を逆手に取ったアイディアであった。原料費が安いのであれば、いっそ量を増やしてみる。それなら価格をあげても、むしろお得感がでるというのが彼女の主張。
「二枚目、というのがミソなんだよ。二枚渡しても価格増で元はとれる、そして客によっては二枚もいらない、あるいは三枚目が欲しいというケースも当然ありえる。その場合、あげた価格分は丸儲けってわけだ」
冬火さんが新しいピザに手を伸ばし、勢いよくかぶりつく。赤い口紅の上をチーズが糸を引いて垂れ、それが長い舌によってぺろりとすくいとられた。
「そして、最後の魔法はこれだよ、クズくん」
彼女の手にあるピザの残りからは、綺麗な歯型にそって、とろとろと未だチーズが流れ落ちている。到着まで半時間はかかる立地から考えると不自然なほどに、溢れんばかりの油がきらきら輝いていた。
「このチーズはな、追加のあと乗せなんだよ」
「いやいや、そんなカップラーメンみたいな!」
「認識はそれでいい。どうしてもな、宅配である以上、冷めるんだ。注文してから三十分、焼きあげてから二十分でも否応がなく冷める。わずかでも熱を失ったチーズは、その瞬間から固まりはじめるんだ。ゆえにあと乗せ! 使うのは電子レンジだッ! 一般家庭のレンジに収まるぎりぎりの箱で用意し、お好みでチンだァ! その時、この粉末チーズが役に立つ。さっと振りかけ、また熱を通せば、再び輝きを取り戻すんだ。とろっとろだろう? 見てみろよ、食ってみろよ! 宅配の限界を超えた、最速最安価最強のハヤマピザさんだァァァ!」
平和な、とても和やかな冬の夕暮れであった。
僕と冬火さんは、毎日飽きもせずこんな話をしていた。彼女のすごいところは、どんなたわいもない話も商売に結びつけてしまうことであった。たとえば、このハヤマピザ、現在に至るまで実現はしていない。しかし、今現在、周りを見渡せばどうだろう。北国での配達は車で行われるようになったし、持ち帰りに限ってではあるが二枚目無料のシステムも根づいている。冬火さん曰く、既存の企業に喧嘩をふっかけるよりも、ノウハウと顔を売った方が実入りがよかったとのこと。本州の宅配バイクにハヤマ製が多いのも、きっとそういうからくりなのだろう。
「正直に言います」
「なんだ、愛の告白か?」
「いいえ、羨ましいんですよ……。僕にもそんな商才があればよかったのに」
今度はさらりとかえしてみせたところ、成長を認められたのか、彼女はよしよしと頭をなでてくれた。
べっとりと油が髪についた。
「なに、キミはもう立派な手品師じゃないか」
「落ちぶれただけですよ」
何度目かわからないやりとりだ。かつては夜中に二階の自室から飛びだして、空を飛んでこの新谷市を一周するのが日課だった。でも、ある日のこと、窓辺から繰りだそうとした瞬間、真っ逆さまに落ちて手と足の骨を折った。
「全治二ヶ月。あの怪我以来、僕はただの手品師に落ちぶれたわけです」
僕はまだ十二歳であるにもかかわらず、短い人生をそれらしく語った。
カウンターの中、彼女の隣でピザにはもう目もくれず、手持ち無沙汰を装って新作の物体引き寄せトリックを試す。打ちあげられたコインは綺麗な回転を見せて、掌の中に落ちて消えた。放蕩の父親と、浮気症の母親を持ったゆえに、背伸びを背伸びとも気づけない子どもだったのだ。
すると冬火さんは、その切れ長の瞳を細めて僕を見やる。
「まぁ、この一年でキミも変わったと思うよ。成長期ってやつかね。大人への階段を一歩ずつ登っている感じがする。うん、もうちょっと背が伸びて、筋肉もついてくれたら私の好みなんだが」
「そういうトーカさんこそ、ずいぶん変わったと思うよ……」
僕の心には一点の悲しみがあった。それは彼女、冬火さんと密接にかかわっていた。
もしかしたら、あれは僕の初恋だったのかもしれない。少なくとも、震える足で訪れたこの店でのファーストコンタクトは、いつになっても忘れられない宝物だ。真っ赤なルビーのように美しかった。この話を書いている現在も、葉山冬火は新進気鋭の若社長として世間にもてはやされてはいるが、僕にとっての宝石はあの高校時代の冬火さんだ。
ところが、出会いから一年が経ち、並木少年の素敵な思い出といえば。
「ふひゅう、ふひゅう。しかし、まだ六月なのに今夜は熱いわねぇ」
太っていた。
あろうことか、あの美しい腰つきは見事に失われ、そこにあるのは呼吸のたびにコーラをぐびりとやる、まん丸い生命体であった。頬にはそばかすというには腫れすぎた吹き出物が群をなし、額には玉のような汗が滴っている。
そりゃ毎日ピザとか食べてたらなぁ!
「トーカさん……。コーラに含まれる砂糖の量を知ってるかい……」
「そう言うな」
「ピザは野菜じゃないんだぜ……」
「ストレスがさ、ひどいんだよ」
当時、彼女はこの手品師の店の他に、大きな仕事を持っている風だった。父親があの楽器や自動車で有名な老舗メーカーの経営者であり、本人も未成年ながらその後継者として実地で学ばされていた。大人になった現在でもまるで想像が及ばない世界だ。そりゃあ食に走るというのもわからないでもないが、いやしかし。
「それにしてもこの一年で変わりすぎですよ……」
「おっと、女性に体重を聞くつもりじゃないだろうね。私は包容力のある男が好きだよ、覚えておくんだね」
隣から差しだされた新しいコーラの缶をぷしゅりとやって、口をつけた。夏の日暮れにはうってつけの炭酸がのどごしよく流れていく。この液体が僕の憧れを奪ったのかと思うと、すべてを飲み干すつもりにはなれなかったが。
カウンターに置いたコインを見やる。物体引き寄せトリックの肝は視線の誘導だ。今持っているコインをAとすると、観客にあらかじめ提示しておくのは別のコインBである。そのBをなんらかの手法で観客の視界から消し、手の中に握りこんだAをあたかも同じものであるように取りだして見せる。観客に公平性を意識させるために、最初のコインBはテレビの共演者に持たせておくのが基本であるらしい。つまり、このトリックをやるたびに、共犯者が一人ずつ増えていくわけだ。
「いっそトーカさんが一緒にでてくれれば、僕も気が楽なのだけど」
「おいおい、私をこれ以上、ナイスバディにさせる気かよ。そういう趣味を持つにはまだ早すぎると思うがね」
そんなやりとりも、もう一年もつづけてきたものだから、今回も冗談の域からでないままに終わった。
僕がこの店に通うことについて、冬火さんはなにも言わない。学校と仕事の合間を縫って毎日のように来てしまう寂しさも受けいれてくれる。でも、逃げ場所は用意してくれても、逃げきることは許してくれないのだ。それが僕と彼女の間にひかれたライン。決して縮めてはくれない距離であった。
「そういや、この前、面白い客が来たな」
不意にかけられた言葉に、僕はコインから視線を外し、冬火さんの切れ長の瞳を見あげる。ただのパーティグッズ店ではないここの性質上、彼女が他の客の話題をあげるのは珍しいケースだった。
「また、万引き犯を捕まえたとか?」
「ああいうのは客じゃない。やつら、消失トリックを試してそのまま帰ろうとするんだからな。その袖のものはなんだよと、おまえの頭蓋を消失させてやろうかと、私の右手が光って唸る」
そんな恐ろしい台詞をさらっと吐いた後で、彼女は小さく頭を振った。
「その子は……ああ、おまえより少し上くらいの女の子だったんだが、引き寄せトリックをやりたいと言ってきたんだ」
手元のコインを掴みあげて見せると、いいや違うんだと冬火さんは言う。
「そうじゃなかった。コインの陳列棚に招待すると彼女は首を横に振ってね、引き寄せたいのはもっと大きなものだって。箱に入った、たとえばジュラルミンケースを移動させるにはどうすればいいかと彼女は訊いてきた」
「それなら必要なのは、同じ型のもう一つのケースだ。あとは口の硬い共演者ですよ」
「もちろん私もそう答えたさ。でも、それもご満足いただけなかったみたいでね。彼女は去り際にこう言ったよ。『引き寄せたいのはたった一つの、本物なの』って」
彼女はいったいどこで手品を使うつもりなのかね、と冬火さんはアンニュイに告げて、残ったピザにかじりついた。
それはまだ雪の降り積もる二月のこと。僕はまだ小学生で、冬火さんも最後の女子高生生活をそれなりに楽しんでいたものと思う。