戦略的ホワイトデー
悩ましき一ヶ月が経過していた。思い出すだに、チョコレートの味が口に広がる気がする日々であった。日を追うごとに、思い出されるチョコの味わいが現実よりもビターになっていく感覚は、きっと間違いではなかっただろう。
決戦の日は、ホワイトデー。
彼女の努力と愛情に報いる、男の価値が見定められると言っても過言ではなかろう審判の日でもある。いかに劇的に、かつ共感を得る文言で裁判官たる彼女を攻略し、勝訴をもぎ取るか、なのだ。
何しろハンバーグ型チョコで俺を驚かせようとした女だ。色んな意味で、驚いた。そんじょそこらのプレゼントでは、鼻で笑われて終わるだろう。何しろ一年の中に点在している様々なカップル向けイベントは、一応は一通りこなした仲である。
彼女の誕生日に俺がプレゼントしたのは、ぬいぐるみだった。場所を取らず、かといって見劣りもしない、抱きしめるにちょうどいい大きさを選んで買った、毛の長くて柔らかい、アルパカのぬいぐるみである。モッフモフである。
だが鼻で笑われたのである。いや、かすかであった。小さく、気がつかねばソレと分からぬ程度の空気圧が彼女の鼻から「フン」と抜けていった瞬間を、残念ながら俺は見逃さなかったのだ。
次の瞬間には満面の笑みとなり、ありがとう~!!! と俺に抱きついてきたので、まぁいいかと不問に処したのだが。しかし思い出すだに苦さがよみがえる、去年のプレゼント事件。同じ轍を踏んではいけない。
まさか同じく、ぬいぐるみをなど贈る気はない。ないが、ちょっと気になるヤツはいたのだが、ソイツとは縁がなかったのだと諦めている。
ホワイトデーのセオリーといえば、マシュマロだ。ぐぐる様が教えてくれた。とはいえマシュマロを贈るのは、あまりにも芸がないだろう。そもそも彼女がマシュマロなんて食ってるところを、見たことがない。
普通にプレゼントを贈るものとも聞いたことがある。花はどうだろう? ……芸がない。
「というわけで大変、悩んでいる。お前、知恵を貸せ」
「なんでそんなに上から目線なんですか」
「お前が後輩だからだ」
殺生だなぁとボヤきながらも俺にコーヒーを手渡してくれる。
「照れ隠しにも、ほどがありますよ。カワイイ人だなぁ、本当に」
「……ぶん殴られなかったことを感謝しろ」
「はいはい」
近頃の喫煙室は、空いている。禁煙ブームの唯一の恩恵と言っていい。嫌いな上司が禁煙を始めてくれたことはありがたかったが、さて、いつまで続くことやら。
どうせブームだ。酒と同じ、やめられない人種は一生やめられないものだ。肺ガンになるよと脅されても、60歳で亡くなった方の肺はこんなに真っ黒なんですよと脅されても、なんのそのである。だって60歳まで生きたんだろうがとツッコミを入れたいところである。
などと物思いにふけりつつ、ぷはーっと煙を吐いたら、心の声を聞いたかのような台詞が後輩の口から降ってきた。
「そろそろ禁煙とか考えないんですか? 考えないですよね」
速攻で否定しやがった。まぁ考えてないけどな。
「でも、禁煙してあげたら、いいプレゼントになるんじゃないですか? 彼女さんはタバコ吸わないんでしょ?」
なるほど、ものより行動ってか。だが残念だ。俺が禁煙など、息をしないのと同じなのだ。窒息して死んでしまいではないか。
と、ほざいたら「……死んでみては?」と小さく呟かれた。聞かなかったことにしておこう。一応、自分でも阿呆なこと言ってる自覚はある。
「行動で示せというのは、いいアドバイスだと思うが、なるほど行動なら金もかからず、すぐできる手軽で気軽なプレゼントだ! ……なんて思えるか、ボケ」
「それこそ禁煙なんて、一日だけで済む話じゃないですからねぇ」
こいつに似合いのタバコ、マイルドセブンライトの軽い煙が、ふぅっと空を舞う。真っ白に近い煙に、俺の茶色がかったキャメルが混ざる。
「その場限りで済む「行動」のプレゼントとしては、とりあえず押し倒してヤることヤるぐらいしか思いつかない次第だが、それは大体しょっちゅうヤってるしなぁ。ちょっとシチュエーションを変えてみるぐらいしか……ああ、そうか。セーラー服でもプレゼントするか」
「先輩、時々本気で殴ろうかと思うことが僕にもあることを、覚えておいて下さい」
「いいぞ、殴っても。殴り返すから」
「やめときます」
「そうだなぁ、俺が嬉しいだけだもんなぁ」
セーラー服が。
まったく、あんたって人はとか何とか呟かれつつ、そろそろ行くかと仕事に戻る。結局これといった結論は特に出ず、そのうち考えることにも疲れて、気がついたら3月14日という決戦当日を迎えるに当たった体たらくたるや、これいかに。
悩むには長く、熟考には短いものである、一ヶ月とは。
いや、こと恋愛に関して言えば、一週間だろうが半年あろうが、常に悩むには長く、考えなどはまとまらないものなのかも知れない。この一年、俺の頭は彼女に関して悩み、かと言って思考まとまらず、まぁ何とかなるかと開き直っては後悔する……そんな日々だったように思われる。
この一ヶ月、彼女はホワイトデーのホの字も出さなかった。
彼女の口癖が「ほらぁ」とため息をつくことなのを俺は知っているのだが、気を使ってか、「あ、こらぁ」と言葉を変えて俺を叱りおるのだ。
「ほらぁ、靴下が脱ぎっぱなしだよ!」
いつもなら、そう怒られる。
「あ、こらぁ。靴下!」
ちょっと間抜けなタイミングで声を荒げられても、微笑ましいというか気が抜けるというか。いや、すみません。洗濯機に放り込みます。
洗濯機にさえ放り込んでおけば、翌朝には綺麗になっているからね! なんてくだらない冗談も言いません。うっかり口走った瞬間に般若と化した彼女の顔は、おそらく一生忘れられない。
きっと他の女と暮らしたとて、やはり禁句なのであろうな……などと感じたのは去年の話だ。今年の俺は「他の女」なる想像をもしていない。
いなかった。
「……え?」
寝耳に水という表現は、こういう時に使うんだったっけ? などと悠長なことを言ってられない事態に至ったのは、帰宅した直後であった。
「ただいま~……おい、今日さ……」
普通に。極めて普通に話し出そうとした俺に対して、玄関まで出迎えてくれた彼女が突然、言い放ちおったのである。
「ケン君。別れよう」
普通に。極めて普通に。
今夜のご飯はハンバーグだよと言った、あの一ヶ月前と同じ口調で同じ口紅をして、さら~っと出された言葉。
っていうか口紅って、よく見たらコイツいつものエプロン姿じゃなく、スーツだし。玄関にも、とっておきなの~って喜んでたはずの俺からのクリスマスプレゼントのパンプスが、ちょこんと鎮座してやがるし。
「……へ?」
おそらく今の俺が日本一ならぬ世界一間抜けな顔をしている自信はあるのだが、どうにも繕えるほど頭が働かない。今なんてった? っていうかハンバーグの聞き間違いだよね? ぐらいの勢いで言葉が脳に浸透しない。
が、俺がうろたえて一言も発しなくても、どんどんと彼女の口からは物語が紡がれている。
「だって、一ヶ月ものすごく悩んでたじゃん。そんなにイヤだったのかなって腹が立つより申し訳ない気持ちになってきてさ、私そんなにイヤな女だったのかなって思えてきて、っていうか悩んでる顔が辛かったし、どんなにか逃げようかって思ったけどホワイトデー来るまでは普通に過ごそうって決めてて、ケン君が今日どんな様子で帰ってくてくれるのかを見極めてからでも遅くないって思ってたんだけど居たたまれなくって取りあえず着替えて荷物をまとめて待ってて顔見て、やっぱり嫌われてるんだなって確信したら私から言い出した方が楽だから、だってケン君の口から別れてなんて言われたらショック大きくて泣いて、しばらく立ち直れないと思……う、あ?」
俺が立ち直れんわい。
なんだ、その思いこみは。
というか段落を区切って喋れよ、長文すぎて、主語や述語がとっちらかっとる。
とかいうツッコミどころではないのだが。
「ケン、君?」
俺は力一杯、抱きしめていた。
彼女お気に入りのピンクのスカートスーツがよれて、しわを作っていたが、そんなものどうでもいい。ぎこちなくも、そっとしっかりと彼女の小さな手が俺の背中に触れられるのが感じられて、俺はいっそう力を強くする。
「まったく……お前は」
というよりは、俺たちは、と言うべきか。
似たもの同士の早とちり。しっかりしているように見えて抜けている彼女に、お前にゃ俺しかいないなぁと思わせられる。
と同時に、時々抜けていても基本的にちゃっかりしっかりしている彼女に、俺にはお前しかいないなぁと思わせられる。
「どのタイミングで出せばいいんだか、分からなくなっちゃったじゃないか」
抱きしめたまま、俺はポケットをまさぐって小さな箱を取り出した。
ホワイトデーについて、俺には気の利いたプレゼントなど思いつかなかった。男には、真っ向勝負の最大級しかカードなんざないものだ。
ひっく、ぐすっと鼻をすすりながら、彼女は目を丸くして俺の手をのぞき込んでいる。表情自体は、驚愕と呆気の入り交じった、俺が見たかった顔だ。どっきり大成功と言えるだろう。
シチュエーションが、ちょっとおかしいのだが。
「え~と、だな。そもそもの発端は、俺が禁煙をしてはどうか、という後輩からの提案だった」
「……その語りは、結論までが長そうね」
「まぁ聞け」
俺は彼女が一気に冷静さを取り戻したことも構わず、抱いた腕をゆるめずに用意していたストーリーを披露する。
「だが禁煙というからには、今日一日だけ吸わずにいる姿を示すだけじゃ、大したプレゼントにならないだろ?」
禁煙がプレゼントだという図式に何かを言いたそうにした彼女を、目で遮って先を続ける。
「どうせ禁煙にチャレンジするなら続けたいが、残念ながら俺には根性がない」最初からチャレンジする気も起きないほど、俺には無理だって自覚していたからな。
「だから続けられるように、見張ってくれる人がいてくれたら、ありがたいわけだ」
彼女はキョトンとしている。というか、その見張り役が私なんだよね、ということを彼女は分かってくれている。その証拠に、彼女の目は箱に向いている。
俺は手のひらを水平に、上に乗った箱を彼女に向けて掲げ、差し出した。
「ずっと……できれば一生、見張っててくれると嬉しいなぁと思ってさ」
「……馬鹿」
微笑みと共に小さく呟いた後、彼女はすうぅっと深く息を吸った。俺の首にしがみつき……というか、これヘッドロックか!?
「いや、ちょ、くっ、苦しっ、おいっ!」
「馬鹿ああああぁぁぁっっ!!」
キーンン……。ぱたり。
耳元で叫ばれた盛大な罵倒と共に解放されて、俺はしばし屍と化す。
「まわりくどおぉいぃっ! しかも一ヶ月、死ぬような顔して悩まないでよ、そういう話ならあぁ! はらはらしちゃったじゃないのよ、もう、心配して損したっていうか別れるなんて口に出して損しちゃったじゃないのおぉ取り消し!!」
真っ赤になって暴れる彼女の、可愛いやら申し訳ないやら怖いやら。いつも飄々としていて自分の思い通りに人生をこなしているように見えるヤツだから、こいつがこんなに俺について思い悩んでくれていたのかと知って、ちょっと嬉しかったりなんかする。
同じく彼女も、俺についてそう思っているわけだろうが。
俺の腕の中で暴れる愛おしい存在を押さえつけて、押し倒そうかとも思ったが思いとどまり、箱を掲げてみせる。赤面のままの彼女は、睨むようにして箱を見つめるが、口元のほころびが今にも全開になりそうである。
小さな指輪を取り出して、彼女の左手を取り。
「はめてみて、いい?」
かすかに頷く彼女の目線にある指に、輪っかは綺麗に収まったのだった。小さいけれど本物の、こいつが前に「欲しい」と言ったのを聞き逃さなかった、ピンクダイヤだ。
晴れて婚約指輪と化したダイヤを眺めて涙を浮かべていた彼女は、さて、と俺の中で伸びをする。
「んじゃ何か食べに行こっか。家出する気でいたから、ご飯作ってないんだ」
ぱっとスイッチを切り替えて笑った顔は、普段のものである。
「あ……。ああ」
「この近所にできた新しいイタリア料理屋さんに入れるか、電話してみるよ。ちょっと待ってて!」
言うが早いか彼女は、猫のように俺の手からすり抜けて携帯で検索を始め、電光石火のスピードで「あ、もしもし?」と話してくれている。
なんかこう……余韻ってものが。
人生の展開、早すぎます。
俺が呆然としている間にも、彼女は「取れたよ~、今から来てくれるなら、席あけとくって」と満面の笑みを向けて次のステージへと移っている。
「ありがとな」
俺も舞台を移すことにして、微笑む。
「良かった、奇しくも一番お気に入りのスーツ着てるよ私、へっへっへ」
言いながらパンプスをはく彼女を、やっぱり抱きしめずにはいられない。惚れた弱みじゃのう。
にやける顔を引き締めきれないまま俺は、頼むから彼女の戦略が一生続きますようにと願っている。
書くぶんには嫌いじゃないです、バカップル。