第6話:朝
その鎖は、白い闇へと繋がっていた。
長く、永く続く鎖の先に、何かが居る。
辺りに漂うのは、凍てつくような空気。ここで眠りでもしたら凍死してしまいそうな、そんな世界。
恐ろしいはずなのに、それでもなぜか恐怖を感じない。
その先にあるものを、俺は知っているかのように。
「ん……」
うっすらと目を開ける。
ぼんやりと視界に広がったのは、白い天井。見慣れた家の天井だ。
まだぼんやりとしているが、今日が土曜日だということも頭は覚えていた。
――今、何時だ……?
反射的に、時計が置いてあるであろう左側に首を傾ける。
と。
すぐそこにあったのは、少女の穏やかな寝顔だった。
……………。
「ってーーーー!?」
がばっと勢いよく跳ね起き、自分でも驚くくらいに後ずさって
「だ!」
奇声を上げて、俺はベッドから転げ落ちた。
すると
「……冬馬様? お目覚めになりましたか……」
そんな、いつもより覇気が足りない彼女の声がした。
「…………」
「…………」
俺は無様にベッドから転げ落ちたまま、彼女はベッドに寄りかかったまま互いに沈黙している。
そして
「……し、失礼しました!」
がばりと、彼女が勢いよく頭を下げた。
「昨夜刺客が去った後、冬馬様をここへお運びして看ていたつもりだったのですが、不覚にも途中で眠ってしまったようです……」
そう言う榊は、それはもう穴でもあれば潜り込みそうなくらい顔を真っ赤にしていた。
が、それはこちらも同じで。
「え、い、いや、それはその、全然構わないんだけど」
起きぬけでいきなり女の子がベッドの傍らにいたらちょっと心臓に悪い。というかかなり悪い。
が。
「本当に申し訳ありませんでした」
深々と侘びる彼女を見ているとなんだかこっちが不甲斐無く思えてくる。
結局彼女は布団に入らずベッドの傍らでそのまま眠ってしまったわけで、かたや俺はぬくぬくと布団に入って寝てたんだから。
「いや、謝らないでいいから。俺全然元気だし」
よく見ると枕元に洗面器、上布団の上に濡れタオルが落ちている。俺の寝ている間に本当に彼女は色々やってくれていたみたいだ。
「そうですか。それを聞いて少し安心しました。昨夜の件は私としましても想定外でしたから……」
昨夜の件というと、あの女に襲撃されて、俺の腕から変な鎖が飛び出したことだろうか?
……て。
「そんなことより榊のほうは大丈夫なのか!? 昨日あんなにひどい怪我してたじゃないか!」
俺はそのことを思い出して慌てて彼女を凝視する。白い制服には血がべっとりと残ったままで、思わずこちらが失神しそうになった。が
「見苦しい姿をお見せして申し訳ありません。その、替えの服がなかったもので……傷自体はほぼ塞がっているので、心配には及びません」
さらりと、彼女はそう言った。
「ひ、一晩で!?」
思わず目をむく。確かに、出血自体は既に止まっているようだった。
「私の鎌の性質です。あれは使用者が忠誠を誓うただ1人の方のために流す血を糧とします。そしてそのために負う傷ならばすぐに癒す効果を持っているのです」
彼女はそう説明してくれた。
……しかし簡単に言うけど、それってかなりすごい武器なんじゃ?
「話はあとでゆっくりと。時間も時間ですし朝食の支度を……」
と榊が立ち上がった瞬間に――ひっくりかえった。
「えぇ!?」
慌てて駆け寄ると、よろよろと立ち上がろうとする彼女の顔は蒼白だった。
「だ、大丈夫か!? やっぱりまだ治ってないんじゃ……」
「あ、の、いえ、これは……単なる……貧血、です」
…………。
そうか。あの鎌の弱点がもう見えてしまった。
どれだけ早く傷を治しても、流れた血の代償、貧血だけは免れないんだ……。
「榊は寝てろ。朝飯は俺が作るから」
ふと見ると、時計の針は既に10時を指していた。朝食を取るには少し遅いが、こんな状態の彼女に何も食べさせないわけにもいかないだろう。
が、かたくなに彼女は首を振る。
「いえ、この程度の不調で横になる必要はありません。どうぞ気になさらないで下さい」
そう言いつつ、やはり彼女の声にはいつもの毅然とした響きが足りない。立つのも一苦労のようだ。
「いいから休んでろって。あ、服もそのままじゃ嫌だろ? 母さんのでよかったら貸すからちょっとくらいは横になれって」
俺は半ば無理矢理彼女をベッドのほうに押しやって座らせた。すぐさま隣の部屋に行き、母さんのクローゼットを開けて適当な寝巻きを掴んで戻ってくる。
「今はこれで我慢してくれ。えーとじゃあ俺はなんか貧血に効くもの買ってくるから……って何がいいんだっけ……レバーとかか?」
強引に服を渡してから、適当に独り言をこぼしつつそそくさと部屋を出ようとすると
「あのっ」
切羽詰まった声で彼女に呼び止められた。振り返ると
「その……出来ればレバーではなく鉄分のサプリメントにして頂けたら幸いです……」
頬を赤らめて、彼女はそう言った。
家の主が外出し静寂が訪れたその一室で、彼女はベッドに腰掛けたまま、どうしたものかと考え込んでいた。
自分の不甲斐無さゆえに傷を負ったのだから、ここで休息するのは申し訳ないという思いがある一方で、皇子の厚意にもある程度は応えなければ逆に失礼なのではという思いもあった。
結局彼女は後者を選択することにして、制服に手をかけた。
相も変わらぬ貧しい胸部に嘆息をこぼしながら腹部に視線を落とす。
実際、傷自体は完全に塞がっていた。
が、昨夜のあの女の攻撃は少し特殊で、内臓に損傷があるのは見えずとも分かっていた。加えて
(……少し治りが遅い……)
赤誓鎌の治癒能力をもってすれば、この程度の傷は一晩眠れば完治するはずだった。
(……なぜ?)
そう疑問に思いつつも、彼女は与えられた衣服に着替えた。
そのまま大人しく、ベッドに横たわる。
(なんにせよ今日中には完治するでしょう)
彼女は軽く瞼を閉じて、かの少年に思いを馳せた。
人間界に生きることを定められた魔王の第3皇子。
正直なところ、常に冷静な王とはあまり似ていないと彼女は思った。
まだ若いとはいえ、昨日のような行動はあまりに無謀すぎる。今後はそういった行動は謹んでもらわないと、と思ったのだが。
(いや)
学校での素行を見ている限り、彼は特別腕白というわけでもなかった。むしろ落ち着いた少年だと思っていたのだ。
とすると昨夜、一体何が彼を駆り立てたのか。
(……あの鎖)
あれは間違いなく、『武器』だ。
魔界人としての自覚が生まれた為か、半分だけだが、自力で彼は覚醒した。
(やはり、流石は王族……というべきでしょうか)
瞼を閉じているせいか、彼女の意識はゆっくりと沈んでいく。
遠のいていく意識の中で、懐かしい声を思い出していた。
『――榊、無事か』
(……やはり、少し似ていらっしゃる、かな……)
近所のスーパーに走った俺は、言われたとおり「鉄分たっぷり」と書かれたゼリーやらサプリメント、ついでに昨日彼女が飲んでいたほうれん草ジュースも土産にと購入して家に帰った。
そっと部屋を覗くと、どうやら彼女は眠っているようだったので、朝食が出来たら起こそうと思い準備を始める。
とりあえずベーコンを焼いていると。
「と、冬馬様」
部屋からひょっこり彼女が顔を出した。
そんな仕草が小動物みたいでどこか可愛らしい。
「榊、もう立てるのか? 無理するなよ」
すると彼女はばつの悪そうな顔をした。
「いえ、もうほぼ回復していますから。また寝入ってしまって申し訳ありません。……朝食の用意を貴方にさせてしまって」
「だから謝るなって。それに朝飯なんていつも自分で作ってたんだし、大丈夫だよ。榊は食べられそうか?」
「はい……」
そう答えつつも、彼女は部屋から出てこない。
出たくても出られないような複雑な顔をしているような気がする。
なんでだろう、と思考を巡らせてみる。
…………。
「服か!」
俺は閃いたようにそう叫んでいた。
「あ……その……」
赤面しているあたり図星のようだ。多分寝巻きのまま起きるのが嫌なんだろう。
「ごめんごめん。ちょっと待ってろ、適当なの探してくるから」
例のごとく勝手に母さんのクローゼットを開いて、榊が着られそうな若いめの服を探す。
……っていってもうちの母さんの服、なんだかんだで派手なんだよなあ。
結局、あった中では1番無難に見えたブラウスとジーンズをセレクト。面白みが無いといえば無いが女の子の服をコーディネートして楽しむ余裕は俺にはない。
苦笑いしつつそれを彼女に手渡して、キッチンに戻った。
普段は気分が乗ったときにしか作らないフレンチトーストと、ベーコン入りサラダを配膳していると
「すみません冬馬様。服までお借りしてしまって」
榊がそう侘びながら居間に入ってきた。
「いや別にそんな大層な……」
なんて言いながら視線を上げると。
――……ぇ。
白いブラウスが、こんなに眩しく見えたのは初めてだった。
やはりサイズが少し大きめだったのかブラウスの胸元が緩くなっていて、彼女の白い首元が顕になっている。
加えて細身のジーンズは露出こそないが腰から続く綺麗な脚線を強調させていて、むしろ目のやり場に困ってしまった。
「あの……?」
少し戸惑い気味に声を掛けられて、俺は慌てて椅子を引いた。
「さ、冷めないうちにどうぞ!」
変に緊張したせいで味が分からなかった朝食兼昼食を終え、食後の茶をすすっていると。
「冬馬様、少しお話が」
榊が切り出した。
「昨夜の件なのですが……あの鎖を覚えてらっしゃいますか?」
左腕から飛び出したあの例の鎖か。
「あれ、なんだったんだ?」
俺が尋ねると
「そのご様子ですと冬馬様にもまだ何の力なのかご理解出来ていないようですね……」
榊は大きく溜め息をついた。
……それってまずいのかな、やっぱり。
「榊にも分からないのか?」
「正直、あのような形のものは初めて見ましたから。ただ言えるのは、あれは貴方の武器だということです」
え。
「ぶ、武器? ……って前に言ってた魔界人が持つ能力ってやつか?」
「ええ。以前にも申しましたが私の能力は『人目を忍ぶこと』と、『赤誓鎌を扱うこと』です。身体能力はすべて前者から派生します。そして後者はいわば『自分だけの武器を操る能力』です。私の鎌は我が一族に伝わるものを継承したものなのですが、冬馬様のものは完全にオリジナルのようですね」
「え、えーと? じゃああの鎖は俺が創ったのか?」
「そういうことになります。ただ、昨夜の様子を見る限り冬馬様が魔界人として覚醒したのはまだ半分。恐らくあの鎖もまだ完全なものではないのでしょう」
半分、か。そういえばやけにアンバランスだったもんなあ……。
「でもあんな鎖で一体どうやって戦うんだろうな?」
軽い気持ちで言ってみたのだが榊は実に厳しい顔をして黙り込んでしまった。答えに窮しているようだ。
「そ、そんなに難しく考え込まなくていいよ?」
慌ててそう言うと、彼女は首を振った。
「いえ、これは大事な問題ですから。向こうが積極的に仕掛けてきた以上、こちらもそれ相応の対策を練らねばなりません。貴方を導くのも私の役目ですから」
「は、はあ……」
彼女は真っ直ぐに、こちらを見て言う。
「あれがどのような性能を持った武器なのかはまだ不明ですが、冬馬様が創り出したものである以上、貴方は必ずあの鎖を使いこなせるはずです。あと半分、覚醒なさればきっと」
……き、期待の目が痛い。
「で、でもどうやったらあと半分覚醒なんかできるんだ?」
今ですら自分が魔界人だなんて実感が湧かないのに。
「そうですね……。あまり前例がないので難しいのですが、訓練すればある程度は能力が開花してくるのではないかと。ですが実際に完全に覚醒するにはそれなりの『火事場』が必要だというデータも……」
そこまで言って彼女はふと面持ちを暗くした。
「どうした?」
「いえ、護衛の任を預かっておきながら『火事場』などと、軽率な発言をしました。これでは本末転倒です。貴方には覚醒しないという選択肢もあるというのに私は……」
なんだか危ないくらいに黙り込んだ彼女を見て思わず慌てる。
「い、いや、だってそれは仕方がないんだろ? ところで完全に覚醒したら俺はどうなるんだ?」
わたわたと手を動かしながら尋ねると、彼女はようやく顔を上げた。
「普段の生活に支障をきたすことはまずないでしょう。外形が変わるわけでもないですから」
……ふむ。
「ならいいよ。中途半端なのも気持ち悪いし、せっかくだから完全に覚醒するのを目指してみる」
俺がそう言うと、榊はまた目を丸くした。
「え……そんなにあっさりと、いいのですか?」
「あっさりって……」
いや、確かにちょっとあっさりだったかもしれないけど。
正直、自信はない。
けどなんていうか、ほんの少しだけでも頑張ってみたくなったというか。
それに昨日みたいな、無様な真似だけはもうしたくないんだ。
「榊にばっかり迷惑かけたら悪いしな」
俺が苦笑混じりにそう言うと。
「わ、私のことは気になさらないで下さい。貴方を守ることが私の最優先事項です。この命に代えても、貴方だけはお守りします」
……命に代えられたら困るんだけどな……。
「では私は一旦自分のマンションへ戻ります。すぐに戻りますが、冬馬様は午後は?」
「特に予定ないし、家にいるよ。榊こそこれからは外から見張りとか言ってないで普通に家に上がってくれていいから」
さりげなくそう言うと、彼女は少し戸惑いつつ「分かりました」と答えてくれた。
彼女を見送って一息ついたところで、ふと思う。
遠慮しないで上がってくれていいとは言ったものの、夜はどうしたらいいんだろう?
事情があるとはいえ大人の目がない家に女の子を泊めるのって道徳的にまずいのか? いや、女の子を夜に外に出しておくことのほうがまずいはず……だ。
いやそれ以前に、彼女のほうが遠慮して上がってこないってことも有り得る。それも困る。
ああもう、どうしたらいいんだよ!
ともかくも魔界に一旦連絡を入れようと、彼女は自らが借りているマンションに向かって歩き出した。
『榊こそこれからは外から見張りとか言ってないで普通に家に上がってくれていいから』
その言葉に返事をしたはいいものの、彼女は少し頭を悩ませていた。
彼女が仮住まいをしているマンションは、冬馬が住むマンションとは全く逆の方向にある。
徒歩で約30分、跳躍力を駆使しても10分の距離だ。
本来ならばもっと近く、むしろ同じ建物に居を構えるべきだったのだが生憎部屋に空きがなく、やむをえず選んだ物件だ。
そういうわけで、今のように往復に時間を取られるのは効率的ではない。日常的に上がらせてもらえるのならそれに越したことはないのだが。
(やはり少しおこがましいというか……)
そんなことを考えていると。
「っ……」
突如襲った腹部の痛みに、彼女は思わず体を折る。
人の往来はあったが、例の術の効果もあり、明らかに真っ青な顔でうずくまる彼女を気に留める者はいなかった。
傷口が開いたわけではない。
腹部――その内側から刺すような痛みが立て続けに生じていた。
(……あの、女……)
昨日彼女が受けた攻撃は、どうやら魔力の爆発だけではなかったようだ。
これは……
「呪詛……」
激痛に歯を食いしばりながらも、彼女は歩き出した。