第3話:変化
魔界の中央には、城がある。
その城こそ現魔王の住居であり、すべての機関を統べる中央政府でもあった。
「魔王様、失礼します」
そんな声と共に、王の間へと続く重い扉が開く。
声の主は女性。短く刈った髪に右目を覆う黒い眼帯、加えて中性的な顔立ちを見れば男性かと見間違える者もいるだろう。
が、彼女は数ある魔王直轄部隊の中で唯一女性の身で隊の長を務める、れっきとした女性軍人である。
「人間界より報告が入ったようです。皇子に接触を図った者がいると」
王座に向かい彼女がそう報告すると、男の溜め息が部屋に響いた。
「……やはり、か。出来ればこのような事態にはなって欲しくなかったんだが」
「応援のほうは、どうされますか」
「そうだな……。ゲートを通った痕跡があるのは2名。その程度なら榊に任せても大丈夫だとは思うが……」
男は少し逡巡してから
「海星。念のため君の隊が抱えている召喚装置をいつでも起動できるようにしておいてくれないか」
彼女にそう言った。
「はい、承知しました」
一礼して、退室するのかと思いきやふと彼女は足を止めた。
「……あの、魔王様」
「なんだい?」
優しく促され、海星は思い切って口を開いた。
「どうしてあの子を派遣されたんですか? 確かに彼女の能力は護衛向きですが……。その……恐らく彼女は皇子に……」
そこまで言って、彼女は思いなおしたように首を振った。
「いえ、申し訳ありません。差し出がましいことを」
すると、そんな様子を見て彼は苦笑をこぼした。
「実はね、行きたいと言ったのはあの子なんだよ」
「……は?」
海星は思わず唖然とした。そんな様子にさらに魔王は苦笑を漏らす。
「私も少し驚いたんだけどね、誰を護衛に遣わせるかという話になったとき、真っ先に手を挙げたのが彼女だったんだ」
しばし、沈黙が流れた。
「……彼女らしいと言えばらしいですね」
海星がそう言うと、王も軽く頷いた。
「律儀な子だから。……気負いすぎてあまり無理をしないといいが」
* * *
なんら変わりない朝の風景。こうして普通に登校していると、昨日のことが本当に嘘のように思える。
それでも左手首には、彼女に貰ったブレスレットがあった。
――出来ればこのまま、何も起こらないでいてくれたらいいのにな……。
そんなことを思いながら、校門をくぐる。ふとグラウンドに目を向けると、サッカー部のユニフォームを着た連中がトラックを全力疾走していた。
今日はまだ練習中らしい。
集団の中にいっちゃんの姿を確認する。他の部員が死にそうな顔をしている中、彼にはまだ余裕があるように見えた。自称『期待の新人』と言うだけはある。
かく言う俺も小、中は陸上部に所属していて長距離をやっていたのだが、あまり芽が出なかった。というか、どちらの先生にも「お前は短距離のほうが向いてるんじゃないか」と言われたのだが、俺は短距離みたいにぎしぎしと並んで走るのがあまり好きではなかったのだ。
こういう柔な性格だから、俺はスポーツには向いていなかったのかもしれない。
しかしサッカー部の連中が全力疾走しているのを見ていたらなんとなくだが身体を動かしたくなってきた。
どうやら走ること自体は今でも嫌いじゃないらしい。
……と、思うだけ思って校舎のほうへと足を向けると。
「ほらほら、私の言ったとおりでしょ?」
「うわー、これは確かに別格だわー」
「ほ、ほんとだねー」
どこか聞いたことのある声がすると思えば、ネット越しにグラウンドを凝視するうちのクラスの仲良し3人娘がいた。
彼女達が朝から一緒にいるのはいつものことだが、何故に今日は外なんだ? とその視線の先を追ってみる。
そこには例の、外部から臨時で来たという若いコーチがいた。
――へえ……。
確かに、男の俺から見てもなかなかの色男だ。
いかにもスポーツマンらしい褐色の肌と、袖から覗く頼もしそうな腕。臨時だから学校のほうもとやかく言わないのか、髪色が完全な金色だった。いや、顔立ちもよくよく見るとどこか日本人ぽくないというか。あれは実は地毛で、ハーフだったりするのかもしれない。
そうこうしていると、3人娘のうちの1人が俺に気付いた。
「あっ、やだ上代君!? お、おはよ〜」
続いて他の2人もどこかそわそわした態度で挨拶してくれた。どうやら朝からイケメン観察をしていたことを恥じ入っているらしい。
「おはよう」
そんな態度をどこか微笑ましく思いつつ、彼女らの脇を通り過ぎる。
するとその後ろでまた騒ぎだす3人。
朝から本当に元気だなあといつも感心しているのだが、年頃の女の子っていうのは普通はああいう雰囲気なんだろう。榊はほんと、大人びすぎている。
いつも喋っている3人娘が外にいるせいか、普段より教室は静かだった。そんな中、いつものように教科書を開いている吉田君に声をかける。
「おはよう」
「おはよう上代君。今日はサッカー部、まだ朝練やってるみたいだね」
制服をひとつの乱れもなく着こなし、銀縁の眼鏡をかけていることもあって、吉田君は見た目からしてもガッツリな優等生だったりする。けれどこんな風に気さくに話せるあたり、俺は勿論、他のクラスメイトからも慕われていた。
「うん、いっちゃんも走ってたよ」
「上代君は部活入ってなかったんだっけ?」
「うん、まあ。吉田君は?」
「僕も実は入ってないんだ。他にやりたいことがあるからね」
吉田君はそう言ってはにかんだ。
「へえ……。なんかすごいなあ」
俺が思わずそうこぼすと、吉田君は軽く首をかしげた。
「すごい?」
「あ、いや。俺は家に帰っても適当に時間潰してるだけだからさ。なんていうか、そういう『やりたいこと』があるってすごいなって思って」
すると彼は微笑んだ。
「やりたいことを見つけるのってそんな大変なことじゃないよ。それに、焦る必要はないんじゃないかな」
「そうかな」
「そうだよ。そもそも人と比べて焦る必要なんてないと思うんだ。君には君のペースがあるだろうし」
そんな吉田君の笑みに励まされつつ、俺は自分の席に着いた。
でも、やっぱり吉田君はしっかりしてるよなあ。
俺なんて、一人暮らしで自立してるように見られてるけど、その実こんなことしか考えてないし。
こんなので大丈夫なのかなあ。
ちゃんと立派な人間になれるんだろうか。
……て、俺、人間じゃなかったんだっけ?
ふと教室の一番後ろの列を見る。その真ん中に、いつの間にか彼女はいた。
――あれ、いつの間に来てたんだ?
彼女という存在を既に認識した俺ですら気付かないとなると、あれは普段から素で気配を消しているんじゃないだろうか?
うーん、流石魔界人。
……て、俺も魔界人なんだっけ?
1日は、何事もなく進んでいった。本当に、普段どおりに。
ただ今日になって、新たに気付いたことはある。
授業中、ランダムに当てる先生からは榊は当てられていないということと、流石に出席番号順に当てる先生からは当てられても即回答――しかもばっちり正解するので誰も彼女のことを気に留めないということだ。
昼飯はどうしてるんだろうといっちゃんの肩越しに覗いてみると、コンビニで買ったっぽいおにぎりを緑色のパッケージのジュースをお供にひとり黙々と食べていた。
――昨日と何も変わらない。
今日1日で、思ったことはそれだ。
彼女はこのクラスにありながらも、ない。
俺1人が彼女の存在を認識しているだけでは、世界は何も変わらないのだ。
日常に何の変化もないことにほっとしつつも、ふと考えてしまう。
……彼女は寂しくないんだろうか、と。
そんなこんなで、あっという間に放課後を迎えてしまった。
正直、今日1日の授業内容はさっぱり覚えていない。
そんな空っぽの頭で昨日みたいに部活へ行くいっちゃんを見届けて、自分も教室を出る。
帰り道はまた1人。まあ、昨日の今日だから変な連中も現れたりしないだろうと勝手に高をくくっていたりする。
そこで気になるのは、やっぱり彼女のことで。
「……榊」
ぼそりと。
周りに誰もいないことを確認してから『もしかするとなー』と思いつつ彼女の名を口にしていた。
すると。
「呼びましたか?」
当たり前のように、彼女は現れた。それも、すぐ目の前に。
「ってうわあ!? やっぱりいた!」
思わず後ずさる俺。
「……私がいることを確認したかっただけなのですか?」
彼女は少し顔をしかめてから、呆れた顔をする。
「え、いや、まあ、そうなんだけど……」
……ってこれ「ただ呼んでみただけ」って言ってるのと同じだよな……。かなり失礼だな、確かに。
「ていうかさっきどっから現れたんだ? 後ろにはいなかったよな?」
ふとした疑問をぶつけてみる。すると彼女は微かに視線を上に向けた。
「上からです。私の跳躍力はアベレージ以上なので木々をつたっていくことが可能ですから」
……なんと。榊さんは忍者であらせられたか。
「す、すごいんだな」
こういうとき、『すごい』としか言えない俺の対人スキルが恨めしい。が。
「いえ、『跳躍力』自体は至極一般的な派生身体能力ですので、すごいというほどのものでは決してありません」
……うん? なんだか難しい話になりそうなので話題を替えてもいいだろうか。
「と、ところでさ」
「はい」
こちらが話題を替えたことを彼女は特に気にしていないらしい。それにほっとしながら続ける。
「俺、今からそこのスーパーに夕飯の買出しに行くんだけど。君、夕飯とかはどうしてるんだ?」
「今は任務中なのでコンビニエンスストアを利用しています」
……やっぱり。昼飯を見たときからそうじゃないかと思ってたんだ。
「なら今日はうちで食べないか?」
俺は思い切ってそう切り出した。
のだが。
「え……」
本当に、彼女はぽかんとしていた。全くの予想外だったようだ。
――タイミング、まずかった……かも。
言ってしまった後で後悔しても仕方がないが、彼女のそんな様子を見ているとやはりそう思わずにはいられない。
別に、変な意味で言ったわけじゃない。
昨日の彼女の言い振りだと、夜中はずっと外から俺のマンションを見張っていたのだろう。
そういうのはなんだか申し訳ないというか、年頃の女の子を夜中に外に出しておいていいわけがないというか、……いやでもさっきのはちょっと突然すぎたしそもそもこの子色々と堅そうだからそう簡単には……
と、ひとりぐるぐると逡巡していたのだが。
「……そうですね。どちらにしろ護衛することには変わりありませんから……お言葉に甘えさせていただきます」
と、彼女はあっさり承諾した。
「え」
思わずこっちが聞き返してしまうほどだった。すると
「あ、いえ、図々しいですね。やはり私は外で……」
彼女は恥じ入るように俯く。
――うわあ違うから!!
「そ、そんなんじゃないから気を遣うな!」
「しかし……」
「いいから! な!?」
なぜか必死になっている自分がおかしいといえばおかしかった。
「……で、では……」
彼女のほうもどこか不可解そうな顔をしていたが、とりあえず承諾してくれた。
そんなこんなで、彼女と並んで歩き出す。
何か会話を……と思っていたら、彼女の方から話しかけてきた。
「冬馬様、1つお尋ねしてよろしいですか」
「え、何?」
「今日1日、私のほうをよくご覧になっていたように思うのですが」
「え」
うわ、やっぱりばれてたか。
というよりこの会話、傍から聞くと変な誤解を招きそうだな。
というか既に思いっきり赤面している自分が嫌だ。
「護衛活動が気に障るようでしたら冬馬様にも私の存在感の影響が及ばないよう術を施しますが……」
「それは駄目だ! 絶対!」
なぜだか、俺は彼女があからさまにびっくりするほど即答していた。
「そ、そうですか? 貴方がそう仰るのでしたら……」
まだ驚き気味の彼女を見て、あんな風に即答した自分が恥ずかしくなった。
でも、そんな術をかけられたら俺までこの子のことを忘れてしまうってことで。
……それだけは、絶対に嫌だった。
「……にしても何でも出来るんだな、魔界人って」
話を逸らすついでに、昨日から思っていたことを口にする。すると彼女は微かに首を振った。
「何でも出来るというわけではありません。私の使える術はすべて『人目を忍ぶこと』の延長上にあるのです。つまり、恥ずかしながらおもだってはそれくらいしか出来ません。翼のない限り、魔界人とて皆が皆空を飛べるというわけではないのです」
てことは、翼があれば飛ぶやつもいるってことか?
「……魔界ってどんなところなんだ?」
俺がそう尋ねると、なぜか感心したように一息つく彼女。
「冬馬様はどのような世界をご想像なさっているのですか?」
どこか興味深げに尋ねられている気がして、変に緊張する。
「え……いや、なんかモンスターだらけの世界を想像してたんだけど、榊を見てるとそんなでもなさそうだなーと……」
存在感を薄くしているとはいえ普通にこっちに順応してるし。右も左も分からない状況ではないのは確かだ。
彼女は頷いて答える。
「そうですね。魔界といってもあまりこちらの世界と違いはないのですよ。確かにこの国とは政治システムが異なりますが、成年に満たない者は学校へ行きますし、罪を犯せば捕まります」
「へえー。じゃあモンスターはいないんだ?」
俺がそう言うと、彼女は微かに頬を緩めた。
「いえ、流石に街中には現れませんが、秘境にはまだ多く住んでいると言われています」
……笑ったのだろうか?
なんとなく、そんな風に見えた。
トントンと、非常に軽快な包丁の音が部屋に響く。
「…………」
俺はそんな音を聞きながら、テーブルで手持ち無沙汰に茶をすすっていた。
ていうか、だからなんで俺は彼女に夕飯を作ってもらってるんだ? 呼んだのは俺のほうだってのに。
「あ、あのさ、やっぱり悪いから俺が……」
俺がそう言って席を立ちかけると、彼女はカウンター越しに
「いえ。お言葉に甘えたのは私のほうですから、このぐらいのことはさせていただきます」
どこか有無を言わせぬ様子で、そう言い放った。
「……は、はあ」
そんな気迫に負けて、浮かせかけた腰を再び下ろす。
俺の意気地なし。
……それにしても。
「榊、料理得意なんだな」
さっきスーパーに買出しに行ったときから思っていたが、食材選びも手馴れているし、包丁の音にもそんな雰囲気がにじみ出ている。
「得意というほどではありませんが、不得手ではないです。向こうでもほぼ自炊していましたから」
「自炊? じゃあ1人で暮らしてるのか?」
「あ、いえ、城の中の寮に住まわせてもらっているのですが……」
彼女はそこで言葉を詰まらせた。
……ちょっとずけずけと聞きすぎただろうか。
「ごめん、変なこと聞いて」
「! いえ、決してそのようなことは。貴方が魔界に興味を持たれているのなら、私は出来る限りそれに応えます」
なぜか慌ててそう主張する彼女。
そこまで頑張らなくてもいいのに、と思ってしまうのだが、せっかくだし当たり障りのなさそうなことを聞いてみるのもいいかもしれない。
「思ったんだけどさ、結局魔界ってのは外国、みたいな捉え方でいいんだよな?」
「そう、ですね。こと魔界に関してはその捉え方が最も近いと思われます」
『こと魔界に関しては』って言葉がちょっと引っかかるけどまあいいか。
「じゃあ言葉はどうなってるんだ? 今こうやって普通に話してるけど……」
「それも術式の一種です。魔界からこちらへやって来るには特殊な次元を通ることになるのですが、その入り口に言語を調整する術が仕掛けてあるのです」
へえー……。なんか某猫型ロボット並みのハイテクさだなあ、なんて感心していると。
「ですが先ほども申し上げたとおり、魔界と人間界は在り方自体が酷似していますから、言語以外で特に困ることはありません」
榊はそう言った。
まあ、そうなんだろうな。今彼女が切っている野菜類だって、多分向こうに似たようなものがあるからこそ彼女も扱い方が分かるんだろうし……。
「でもやっぱり知らない環境なわけだろ? 心細くなったりとかはないのか?」
俺がそう尋ねると、彼女はまた目を丸くした。
俺は一体何度彼女にこんな顔をさせたら気が済むんだろう。
「い、いやだからさ、よくあるじゃないか。留学中とかにホームシックとか、さ」
すると彼女は静かにこちらを見据えてくる。
「私は貴方を護るようにとの仰せを受けてこちらへ参りました。今の私が恐れるのはその命を果たせずに朽ちることのみです」
く、朽ちるって……。
「……はは。心強いよ……」
俺がそう言うと彼女は満足したかのように再び視線を落として調理に専念し始めた。
……なんだかなあ、もう。