第2話:魔王の息子
「ち、お守り役が付いてたなんて誤算だったわ」
黒装束の女は舌打ちして後退していた。俺をかばうように立つ少女は、身の丈以上ありそうな大鎌を構え直し、相手が少しでも動けば切りかかりそうな様子だった。
「あら怖い。まあ、今日は様子見のつもりだったんだもの。その子まだ使えないようだし、今日は退くわ」
そんな捨て台詞を残して、黒衣の女は霧のように姿を消した。
それを見届けて少女は一息つき、持っていた鎌から手を離す。するとどういう仕組みなのか、鎌もさっきの女みたいにふっと消えた。
「あ……の」
非常に不甲斐ないが、尻餅をついたまま少女に話しかける。彼女ははっと気付いたように振り向いて、すぐさま俺の前に片膝をつき
「立てますか?」
恭しく、その白い手を差し伸べてきた。
「え、あ……」
さっきの女と違って、彼女のこういう態度はやけに板についていて逆に戸惑ってしまう。それに、戸惑いの原因はそれだけじゃない。
――間近で見る彼女は、本当に美人だった。
心配げにこちらを覗き込む大きな眼は、それでもどこか凛々しさを感じさせる。鼻筋、唇共にすっきりと整っているが、輪郭にはまだ少女らしい幼さを残していて、それらのバランスがまた絶妙なのだ。
差し出された指先もほっそりしていて、俺なんかのごつごつしたものとは全く違う。手を取るどころか触れることすら躊躇われた。
そうしていると
「なにか縛りの術でもかけられたのでしょうか」
少女が真面目な顔をしてそんなことを考え始めたので俺は慌ててその手をとり立ち上がる。
それから、少し距離を置いて向かい合った。
「あのさ……」
君、誰だっけ、とも言い辛いなあと思っていたら、急に彼女は一礼して、
「申し遅れました。私は榊と申します。こちらでは日出榊と名乗っていますが」
向こうからそう名乗ってくれた。
――ヒイデ、サカキ……。
「あ」
記憶が戻ってくる。
「日出、さん……」
……女の子だったのか!
というのも、4月の始め、配布されたクラス名簿を暇つぶし程度に眺めていて、変わった苗字だなあと思ったことを今思い出したのだ。男女混合名簿だったわけで、榊、という名前からしてすっかり男子だと勘違いしていた。
――そのせいで記憶になかったのかな……?
いや、それじゃあいっちゃんの記憶にもなかったことが不可解だ。
「冬馬様、どうかなさいましたか?」
凛とした声に意識が連れ戻される。
「あ、いや! ……て、いうか。なに、その『冬馬様』って……」
さっきからずっと疑問に思っていることはそれだ。あの黒い服の女も自分のことを様付けで呼んでいた気がする。
すると彼女はああ、とこちらの疑問を理解してくれたようで
「貴方は魔界を統べる魔王様の御子息ですから」
さらりと。1度聞いただけでは何のことか分からずスルーしてしまうようなことを言ってのけた。
「……は?」
魔王……の御子息……?
「はあ!?」
俺はちょっとどころか大きく後ずさった。
なんだこのわけの分からん展開は!?
「ですから、貴方は魔王様の第3皇子。下々の者が易々とお名前をお呼びすること自体無礼この上ないのです」
……。
…………。
……コメントに窮す。
黙りこくった俺を見て何を思ったのか、
「まあ、突然このように申し上げてもご理解し難いということは重々承知しています。立ち話もなんですし、詳しい話は場所を変えて致しましょう」
そう言って彼女は左右、何かを確認してから
「ここからですと冬馬様のご自宅のほうがより近いですね。話はそこで。参りましょう」
当然のように、俺の家の方向へと歩き出した。
「え!? ちょっと!? 日出さん!? なんで俺の家まで知ってるんだ!?」
颯爽と歩いていく彼女を追いかけるのに小走りになる。立ち止まってくるりと振り返った彼女は、またしてもさらりと
「当然です。私は貴方の護衛であり教育係でもありますから。それと、私のことは榊、とお呼びください」
そう、言い放った。
…………なんなんだ。
俺の困惑を置いていくかのように、つかつかと先を行く彼女。
「だーーーー!! なんなんだよ一体!?」
道端で叫んだのは、多分今日が初めてだったと思う。
結局、彼女は少しも道を違えることなく、俺が住むマンションへと辿り着いてしまった。
無言のまま、どこか居心地の悪いエレベーターで5階まで上がる。箱から出て通路をまっすぐ歩いた突き当りが上代家だ。
ちなみに今、この部屋に住んでいるのは俺だけだったりする。
父はもともと世界を叉に掛ける考古学者で、昔から家を空けがちだったのだが、俺が高校に上がったと同時に母も父の仕事を手伝いに海外へ発ったのだ。
鍵を開けて中に入る。いつもならこの時点でドアに鍵をかけてシャツの前ボタンを外し、牛乳でも飲みに冷蔵庫に直行するのだが今日はそういうわけにもいかない。
というより、女の子を家に呼んだこと自体初めてなのだ。
「何か飲む? お茶くらいしかないけど……」
この妙な緊張感を紛らわせようと、背後にいるなんだか正体不明になってきたクラスメイトに尋ねてみる。すると
「冬馬様。私は貴方の護衛であり教育係、かつ少し語弊は生じますが侍従の役も果たします。お茶なら私が淹れます」
「え」
俺が何を言うまでもなく、彼女はキッチンのほうに行ってお茶の準備を始めた。
「カップはどこにあるのでしょう」
「え。あ、そこの棚の下の戸を開けたら……」
「緑茶と紅茶、どちらがお好みですか?」
「……こ、紅茶、かな?」
……て、なんで俺の家なのにもてなされてるの俺?
リビングのテーブルにティーカップが2つ置かれる。
俺の向かいに彼女は座った。真っ直ぐにこちらを射てくる視線に、より一層緊張してしまう。
「……あの、正直君の言ってること、全く分からないんだけど……」
視線を逸らしながら、俺はおずおずとそうこぼした。すると彼女はこくりと頷く。
「先ほども申しましたが、それは当然といえば当然です。恥じることはありません」
「はあ……」
「……それに、本来貴方は魔界とは何の関わりもなく、普通の人間として最期まで生活なさる予定だったのです」
「え、いやだから俺、普通の人間だよ?」
やや小さな声で消極的に主張してみると、彼女はやや困ったように眉をひそめた。
「貴方はれっきとした魔界人です。……その、思い当たることはありませんか?」
遠慮がちに、彼女はそう尋ねてきた。
彼女の態度から、なんとなく分かってしまった。
きっと彼女は知っているのだろう。
――俺は、確かに孤児だった。
聞いた話によると、まだ赤ん坊のときに孤児院の前にネームカードと共に置かれていたらしい。小学3年生のときに養子としてこの上代家に入ったのだ。
でも、こんな境遇なのは俺だけじゃない。
それだけでいきなり魔界人だなんて言われても……。
すると彼女はまた表情を引き締めて
「信じがたいのは分かっています。ですが先ほどのあの黒衣の女の件は、どう思われますか?」
俺の眼をじっと見据えて、そう問うてきた。
確かに、あの女は俺を狙っていた。
迎えに来た、みたいなことも言っていた気がする。
……その、魔界からってことなんだろうか?
「ご納得いただけましたか?」
「あー……うん、一応。でも何でいきなりこんなことに?」
とりあえず彼女の話をもう少し聞いてみよう。
「あの女は魔王様――つまり貴方の真の父君から玉座を奪おうとしている男の手下です。彼らは貴方を捕らえて戦力、もしくは交渉材料にしようとしているのです」
……魔王ってあの魔王なんだよな? 俺がその魔王の息子?
仮に、仮にそうだとしてもこの話おかしくないか?
「ちょっと待てよ。その、なんで俺、君の言う通り魔王の息子なんだったら、魔界……にいないんだ? そのへんがまず分からないし」
そう尋ねると、そう来ると思っていましたと言わんばかりに間髪入れず彼女は口を開いた。
「魔界には『王族の3子以降は人間として育てなければいけない』という古い掟があるのです。これはそもそも不毛な後継者争いを無くすためのものだそうです。冬馬様の上には側室との間の御子息が2人いらっしゃいますから……」
それって、つまり……
「……俺、あぶれたんだ」
そういうことになる。
それが仮に本当の話だとして、なんとも運のないことだ。いや、そんなことを言ったらバチが当たるだろう。
俺は今の生活に満足している。父さんと母さんだって、今は海外にいるけど頻繁に電話をかけてくるし、本当に俺のことを可愛がってくれているんだから。
……それにしても側室って。今時まだ一夫多妻制なのか。古いんだな、魔界ってのは。
……とか考えていると、目の前の少女が目に見えて顔を曇らせていた。
まるで泣いてしまうかのような表情に、思わずぎくりとする。
「冬馬様、魔王様も当時は随分悩んでおられたそうです。これを私の口から申し上げるのは憚られますが、貴方は正室との間の唯一の御子であることに違いはありませんから」
彼女は熱心に、いや、必死に続ける。
「ですが1度掟を破るとやはり問題が生じてくるものです。魔王様は貴方がかの輩に狙われているとの噂をお聞き入れになってすぐに私を護衛に遣わせた程ですから、貴方への愛情は兄君達へのそれと寸分たりともかわりはない、ということをどうかご理解ください」
切な表情で彼女はそう訴えた。
まだ顔を合わせて間もないが、彼女がここまで感情を顕にするのは珍しいことなんじゃないだろうかと思ってしまった。
それくらい、今の彼女は切羽詰った顔をしているのだ。
この子がそう言うのなら、そうなのかな、と思ってしまう自分がいる。
なんとなくだが、この少女は嘘のつけないタイプだと思う。
人を見る目だけは昔からあると自負しているのだが……。いや、この子も人間じゃないんだろうか?
「ひ……榊さんは、その、魔王に仕えてるのか?」
「呼び捨てで構いません、冬馬様。私は本来人知れず果てる運命だった者。それを魔王様のご懇意で拾っていただいたのです。身分的に正式な位は持っていませんが、私は魔王様に仕えると決めた者です」
えーと。それって押しかけ……なんとかか?
でも、確かに言えるのは、魔王について語るときの彼女の声には熱が篭っているということだ。
「好きなんだな、魔王のこと」
俺は自然と、そんなことを口にしていた。
言ったすぐ後、全くもってデリカシーに欠ける発言だったと後悔する。
彼女のほうもまるで今朝のように、不意をつかれたように眼を見開いて
「そ、それはその、誤解を招きかねない言葉です。確かに私は魔王様に忠誠を誓っていますが……」
『好き』とは違う、と言いたいのだろうか。
けれど年相応の少女らしく、頬を赤らめている彼女がなんだか新鮮だった。
それにこの慌てっぷりは、ちょっと気になる。
しかしそれ以上の詮索は流石に無粋だと分かっていたし、彼女のほうも咳払いして話を元に戻した。
「と、とにかく。私は魔王様から貴方を守るようにとの仰せを受けました。そして時が来たら、貴方を導くように、と」
「導く……?」
「ええ。貴方は先ほども申し上げた通り、血統的には申し分のない魔界人なのです。こちらの世界の人間が持たない、秘められた能力があるはずです。それを、万が一の時には解き放てるように、と」
「……万が一っていうのは、今日みたいにわけの分からない連中が俺にちょっかいをかけてきたらってことか?」
「そうですね。ですが『ちょっかい』というのは少し解釈が軽すぎるかと。彼らは貴方をうまく言い含め、味方にしてその能力を力にするつもりです。本来王族の潜在能力は凡人を軽く凌駕していますから。それが叶わなければ無理矢理にでも連れ去って、魔王様を脅すつもりでしょう」
……なんか、全然想像出来ないんだけどな、その展開。
「状況はご理解いただけたでしょうか」
いまひとつ実感は湧かないが、彼女の言っていることに筋は通っている気がした。
「なんとなく……。でも結局、俺はどうしたらいいんだ?」
そこが俺にとっての最大の問題だろう。
「貴方は普段どおりの生活をしてくださって構いません。私が敵に感づかれぬよう隠れて貴方を護衛します。何かあったときは私がすぐに御身のもとへ駆けつけましょう」
そう言って彼女はシルバーアクセサリー風のブレスレットを差し出してきた。
「これを常に身につけておいてください。これがあれば貴方の身に何かあったとき、もし私がすぐ近くにいなくても私にそれが伝わります」
「はあ……」
流されるままそれを受け取って、左手首につけてみる。これくらいのものなら学校でつけていても何も言われないだろう。
とかなんとかしていると、彼女は既に紅茶を飲み干していた。俺もつられて一気に飲み干す。
俺が動く前に彼女が動いてしまったので、結局後片付けまで彼女にさせてしまった。家主形無しだ。
「それでは私は1度家に戻ります。その後、外からこのマンションに敵が近づいていないかを監視しますので、出来れば外出は避けてください」
「え、ああ。今日はもう外には出ないよ」
俺の返答に頷きで返し、颯爽と玄関のほうへ歩き出す彼女を慌てて見送る。
「それでは失礼します」
最後まで丁寧に、一礼して彼女は外に出た。
……のだが。
タイミングよくそこに居合わせたのは、向かって右の部屋の住人のおばさんだった。
彼女には昔からお世話になっていて、1人暮らしになってからは夕飯のおかずのおすそ分けなど、輪をかけて親切にしてもらっている。もともと面倒見のいい性格で、大のお喋り好きなのだ。
実際、母さんは俺のみならずこの人にも頻繁に電話して俺の様子を聞いてるんだとか。
このおばさんがいたからこそ母さんは俺1人を残して海外に飛び立てたのだろうし、近隣住民との関係が希薄だと言われているこのご時勢でも、このマンションの5階にはアットホームなコミュニティが展開されているのはまさにこのおばさんのおかげと言ってもいい。
――すなわち、彼女はこの階の情報発信者。
噂話はすべてここから流れるのだ!
……まずい。非常にまずい。
うちに女の子が来てたなんておばさんに知られたらこの階の人全員に知られて冷やかされるし母さんにも伝わって帰ってくるかもしれないぞ!?
何か言い繕わないと、とあたふたしていると。
「あら冬馬くん。今日の夕飯考えてないんだったら家で食べない? カレーよカレー。あとうちの圭介の宿題見てやってくれないかしらー。あの子またサボってたみたいでたまってるらしいのよー」
おばさんはまったくもって彼女が見えていないかのように、俺に話しかけてきた。
――あれ……?
不審に思いつつも俺は一応返事をする。
「あ、はい……喜んで」
「じゃあ出来たら呼びに来るわね〜」
おばさんは笑顔で自分の部屋に戻っていった。
…………。
「なあ、榊……」
初めて彼女を呼び捨てで呼んでみる。
「なんでしょう」
それに満足したのか、心もち穏やかな表情で振り返る彼女。
「さっきのおばさん、君がいること自体気付いてなかったように見えたんだけど……」
「いえ、いたということは分かっているのでしょうがさして気に留めなかっただけでしょう」
「えぇ!? でもあの人かなり目敏いんだぞ!?」
聞こえないように小さな声で叫んでみる。すると
「この世界では私の存在感を薄くしていますから」
なんでもないように、彼女はそう言った。
「え?」
「普通にしていては貴方の護衛活動に支障をきたす場合もあるでしょう。わざと存在感を薄くする術を自らにかけているのです」
……ああ、なるほど。
だからいっちゃんの記憶にも、俺の記憶にもはっきり残ってなかったのか。
ていうか、なんでもできるんだな、魔界人って。
「疑問は解決しましたか? それでは失礼します」
そう言って、彼女は長い髪を揺らしながら去っていった。
彼女を見送ってから、俺はぱたりとソファーに転がった。
……なんだったんだろう、今日は。明日目覚めたら全部夢だった、なんてことはあるんだろうか?
でももし、これが夢でも、彼女のことはきっと鮮明に思い出せると思う。
それくらい、彼女の存在は俺にとって鮮やかだった。
――なぜだろう、と少しばかり考えてみる。
そりゃあ、いきなり魔界から来たとか皇子だとか言ってくる相手は印象深いに決まってる。
けど、それだけじゃない気がする。
俺にはない、確固たる信念、的なものを彼女からは特に強く感じるのだ。
先ほどの話からすると彼女は魔王に頼まれて、単身でここに乗り込んできたみたいだった。
俺だったらそんな勇気、絶対に出せない。
でも彼女はあんなに堂々としている。
……ある意味これは、羨望なのかもしれない。
「…………」
しかし、あの彼女が慕う俺の本当の父親っていうのは、一体どんな人なんだろうか。