第12話:危機
彼女がいなくなってから、3日が経った。
そのうち治るだろうと思っていた俺のぼんやり病は、一向に治る気配を見せない。
放課後、いつもならすぐさま部活に向かういっちゃんにすら
「おい上代、お前本気で最近変だぞ? 授業中ノートもとらないでどこ見てんだよ」
そんな心配をされてしまうほどひどいらしい。
視線の先は勿論、彼女が座っていたはずの空席だ。
いくら眺めたって戻ってくるはずがないのに、俺の目はどうしてもあの席を見てしまう。
「そのうち先生にどやされるぞ?」
「うん……」
彼なりの忠告を力ない返事で返すと、いっちゃんはぽんぽんと励ますように俺の背中を叩いて出て行った。
気のないまま教室掃除を終わらせて、校舎を出る。
グラウンドではちょうど陸上部が練習を始めた頃で、ネット越しにただぼんやりとそれを眺めていると。
「上代君」
ちょうど下校しようとしたところらしい吉田君に声を掛けられた。
「陸上に興味あるの?」
「あ……いや、中学まで陸上部だったからつい」
ただ何となく、眺めてしまうのだ。
「へえ。高校ではやらないんだ?」
吉田君の問いに、俺は苦笑で返すしかない。
誰かに認めてほしいという理由で、俺は今まで走ってきた。
でも今は、その誰かが近くにいない。
それだけで、俺は走れなくなる。
なんて、弱いんだろう。
なんて、小さいんだろう。
「そういえばさ、この間言ってた吉田君がやりたいことって何なの?」
俺は話を逸らすようにそう尋ねた。すると彼は少しはにかんで
「欲しい資格があるんだ。そのための勉強、かな」
そう答えた。
「資格? すごいね」
「はは。それ、この間も言ってたね」
吉田君に指摘されて俺は若干赤面した。ほんと、なんで俺は『すごい』って言葉しか使えないのか。
「でも、ほんとすごいなって思う。まだ高1なのに自分の道、はっきり決めてるんだね」
すると今度は吉田君が苦笑した。
「まあ、最初は親の押し付けから始まってるんだけどね」
「へえ……そうなんだ」
少し意外だった。いや、この年齢からしたらそういうものなのだろうか。
だが
「でも本当になりたいと思ったから目指してるんだけどね? 前にも言ったかもしれないけど、やりたいことを見つけることは難しいことじゃないと思う。きっかけがどんなに単純なことであっても、ね」
吉田君は俺の目を見てそう言った。
やっぱり彼は、すごい。
「……吉田君は、自信をなくしたりすることってある?」
俺の脈絡のない問いに、それでも彼は答えてくれた。
「そりゃああるよ。自分の力のなさに悔しい思いをすることだって何度もあった」
でも、と彼は続ける。
「それでも僕は、自分が決めた目標に到達したい。僕が僕を好きでいられるように」
……自分を好きでいられるように、か。
その気持ちは、なんとなく分かる。
自分が自分を見限ってしまえば、堕ちていくだけだから。
……俺は、今の自分が少し嫌いだった。
言いたかったことを言えずに、そのままただ閉じこもってばかりで。
だから、榊に『自分に自信を持て』と言われても出来なかったんだ。
けど、本当は――……
「ごめん吉田君、ありがとう!」
俺はそう言い残して、校舎のほうへと踵を返した。
急いで上履きに履き替えて、2階の職員室へと駆け上がる。
会議室で会議でもしているのか教師の姿がない。幸いだ。
俺は担任の席へ回って、積まれているファイルのラベルを目で追う。
――あった!
欲しかったのはクラス名簿。
先生が持っている名簿にはクラスメイトの住所と電話番号も載っているはずだった。
ファイルを開いてすぐ、『日出榊』の名前を指で追う。
こんなに後悔するぐらいなら、ちゃんと彼女に謝りたい。
そうしたらきっと、俺は『変われる』。
彼女の住んでいた家に行けば、きっと何かしら魔界に繋がる連絡手段があるはずだ。
……そう、思ったのだが。
「…………?」
何度眼で、指で追っても榊の名前が名簿に見つからない。
背中に嫌な汗をかき始めた。
うちのクラスは全部で40人ちょうどだったはずだ。
けどこの名簿の最後の番号は、39。
「嘘だろ……」
俺は思わずその場に立ち尽くした。
* * *
榊が魔界に戻って数日が経った。
海星と言葉を交わしてから、彼女は自室に引きこもりがちになっている。
というのも、例の答えが見つからないのだ。
彼女もそう、器用なほうではない。
ひとつのことを考え始めると、他のことが手につかなくなるのだ。
だが彼女はここに来て、その性格を恨むことになった。
つい先ほど部屋に連絡が入ったのだ。
人間界での事後処理が完了した、と。
年頃の女子が生活しているとは思えないほど装飾品のない無機質な部屋に、やるせない溜め息が響く。
事後処理が完了したということは、彼女の存在が完全に向こうから抹消されたということだ。
学校の名簿からも名前が消えたことだろう。
これで、彼女は戻れなくなってしまった。
(私が直訴していればもう少し処理を待ってもらえたかもしれないのに)
なぜか、泣きそうになるほどの後悔の念が押し寄せて、榊は思わず枕に顔を埋めた。
瞼を閉じれば暗闇が襲う。
暗闇は、苦手だった。
幼い頃、城で迷子になったことがある。
小さな倉庫に迷い込んだところを付け込まれて、長老の息がかかった者に閉じ込められたのだ。
その倉庫に窓はなく、ただあったのは闇だけ。
もともとあまり使われない倉庫だったのか、何時間待っても誰も扉を開けてくれないのだ。
特に暑かったわけでも、寒かったわけでもない。
ただその暗闇が恐ろしくて、ずっとそこにいれば自分がその闇に飲まれるのではないかと震えていた。
そして、半日ぶりにその閉ざされた扉を開いてくれたのは、他でもない魔王だった。
『――榊、無事か』
あの件からかもしれない。
死神という一族がどれだけ周りから忌避されているかを知ったのと、慈悲深い王を自らの命を捧げる主にしようと決めたのは。
あの噂を耳にしてからは、より一層その気持ちが強くなった。
魔王夫妻はそんな彼女の気持ちに応えるように、信頼、親愛の証である黄巾を彼女に授けてくれた。
だが、逆に言えば軍部の階級のような確固たる位は与えてくれなかったのだ。
彼女とて分かっている。
それは夫妻が彼女を普通の娘として扱ってくれているからだと。
だがそれが非常に歯がゆく感じられた時期もあった。
位を持たないが故に彼女の存在は城でも浮いたものとなる。
加えて魔界の学校でも彼女は忌避の対象だ。
居場所が、見つけられなかった。
「…………」
ふと榊は思った。
彼は、どうして自分に気付いてくれたのだろう、と。
存在感を薄くする例の術の効力が、たまたまあの瞬間何らかの要因で弱まったのか、それとも彼の秘められた能力の一端だったのか。
そんなことはここでいくら考えても分からないことだ。
ただはっきりしているのは、彼女にとってそれがとても『嬉しかった』ということだけ。
それだけじゃない。
昼食時に、わざわざ席を立って来てくれたことも、放課後、意味もなく名前を呼んでくれたことも、全て。
他の者から見たらどれだけ些細なことであっても、彼女にとってはとても、嬉しかったのだ。
(…………ああ)
彼女は思わず心の中で感嘆した。
どうして今、自分がこんなに悲しいのか。
ようやく、理解した。
* * *
教室は、夕日でオレンジに染まっていた。
窓の外には茜空。
華奢なのにどこか勇ましいあの背中は、今でも鮮明に思い出せる。
真っ直ぐなまなざし、優しく差し出してくれた手、そして凛とした声。
「…………」
……もっと、早くに気付けばよかった。
俺は、あの時もう既に、
あの娘に惚れていたんだって。
誰の記憶に残ってなくても、名簿から彼女の名前が消えても、俺はちゃんと覚えている。
一緒に食べた食事も、一緒に隠れた鬼ごっこも。
なのに。
彼女はもういない。
「ごめん」のひと言すら、彼女にはもう届かない。
「…………っ」
思わず涙がこぼれそうになった。
本当は、ずっと素直になりたかったんだ。
母さんが海外に旅立つときも、ひとことだけ「寂しい」と言えれば、母さんにあんな寂しそうな顔をさせずに済んだかもしれない。俺ももっと気楽に過ごせたかもしれない。
榊にだって、本当は帰ってほしいなんて思ってなかった。
ただ、彼女が無理に俺の側にいるのが辛かっただけ。
俺の我が儘で、俺は彼女を傷つけた。
彼女に言いたいことが山ほどある。
解きたい誤解だってある。
今度会えたら、話せたら、ちゃんと素直に言おうと思ってたのに……!
拳を握った、そのとき。
誰もいなかったはずの教室に、声が響いた。
「君はいつもそんな風に、後悔してるね?」
「――!?」
驚いて振り返ると、そこにはさっきまで外で話していたはずの吉田君の姿があった。
「帰ったんじゃ、ないの?」
「そう思ってたんだけどね」
夕日が彼の眼鏡のレンズに反射して、表情が読めない。
「魔界人の気配が消えたから、そろそろ頃合かと思って戻ってきたんだ」
魔界、人……?
「吉田君、君は……」
問うまでもないことなのに、突きつけられた事実が信じられずに俺は立ち竦んだ。
そんな俺を嗤うように、彼は言う。
「僕が欲しいのは『魔王の資格』。悪いけど、君には僕の糧となってもらうよ」
彼の姿がふっと消える。消えたかと思えばいつの間にか俺は壁に押さえ込まれていた。
「っ!」
「君の力、僕に頂戴」
冷たい声。
そう囁く彼の眼は、いつもの穏やかなものとは全く別の、野生的で煌々としたものだった。
今の彼なら、目的のための手段は問わないだろう。
「……い、嫌だ!」
俺はとっさに腕を突き出して、彼を振り払う。
何がどう嫌かといえばこんな状況が嫌だった。
クラスメイトが、それもそれなりに尊敬していた人が、魔界の刺客だなんて思いたくなかった。
全力で教室の外に出る。
廊下に出れば誰か人がいて、彼もそうそう派手なことは出来ないだろうと踏んでいたのだが。
「!?」
人影が、全くない。
慌てて窓からグラウンドを見ると、さっきまで部活中だった生徒の姿まで忽然となくなっていた。
――いつの間に!?
「暗示の香って知ってる? 『今日は早く下校しろ』って程度の簡単な暗示なら、術師でなくても薬草の調合だけで出来るんだよ?」
彼の声だけが廊下に響く。けれど姿がどこにあるのか認識できない。
「ッ」
焦った俺はそのまま生徒玄関に向かって走ろうとした。が
「逃げたって無駄だよ。君の『走力』がアベレージ以上でも、僕の『移動力』に叶うはずがない」
またしても声だけ聞こえて、いきなり横から蹴飛ばされた。
「ぁッ」
廊下の壁に激突する。
同時に、俺の意識は落ちてしまった。
* * *
世界を隔てても、異変は彼女に伝わっていた。
脳内に訴えかける警告音に、榊は思わずベッドから飛び起きた。
(まさか……まだ刺客が!?)
魔界から人間界へ無断渡航した人数は2人。
先日連行した2人で間違いはないはずなのだ。
だが警告音は鳴り止まない。
時は一刻を争うようだ。
(今から魔王様に許可を仰いでいては時間が……)
彼女は法を犯す決意をして、人間界へと跳んだ。