魔物だった私が自ら死を選ぶまで
4月1日(金)
病室の窓の外には青空が広がっている。
私のような人間の屑が死ぬには、もったいないくらい素敵な朝だ。
イヤフォンから瑞鶴の可愛らしい歌声が聞こえてきた。曲はリピート再生にしている。そうしないと瑞鶴の泣き声を思い出してしまうからだ。
2人で食べたラザニアの味は思い出せない。私が見せた幻覚だったからだ。
ようやく手に入れた革のベルトをドアノブに掛けると、セルフ絞首台の完成だ。私は床に座ると、ベルトの輪に下から首を通し、ドアにもたれかかり、そのままゆっくり頸動脈に体重をかけた。
「悪いママでごめんね、瑞鶴。さよなら」
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2月3日(火)
白衣の男が対面の椅子に腰を下ろした。
「さて、と。
人類を救う素晴らしい水の話をしましょうか!」
「ごめんなさい、その話はちょっと……」
「そんなこと言わずに、ねえ、少しだけでも?」
「――先生、お医者さんって、そんなに暇なんですか?」
私、野間瑠璃子に、正気に戻ったという明確な瞬間はなかった。
美しいと思っていた自分の真っ白な頭髪が気持ち悪くなった。「瘴気水は現代のエリクサーである」と精神病院で声高に叫んだ所で意味がないことに、ふと気がついた。昨日までは、私が世界に真実を伝えなければならない、と本気で考えていた。
2月20日(金)
住民票のある兵庫県に転院した。症状が安定したと主治医が判断したのだ。新しい主治医は鼻が上を向いた女だった。もう何年も会っていない姉を思い出した。姉は性格も悪く、何かにつけて自分の失敗を私のせいにしたがった。面談の度に嫌な気持ちになりそうだ。
2月26日(木)
会社の顧問弁護士という初老の男が面会にやってきた。
「あなたが怪我を負わせた大西瑞鶴の両親が、会社に慰謝料を要求しています。会社としては、怪我の診断書がない以上、慰謝料は払うことはありません」
魔物に心を支配された時の記憶ははっきりと残っている。
全能感が全身を満たしていた。魔物としての能力を存分に使って、瑞鶴に幻を見せたのだ。瑞鶴は母親の愛情に飢えた子供だった。その飢えを利用して、幻覚の中で瑞鶴の母親を演じ、情報を奪い、操った。
束の間の親子ごっこだった。私が作った幻覚のラザニアをおいしそうに頬張る瑞鶴は少し滑稽で、今思えば哀れだった。だが最後は、私のことをママと呼びながら泣く瑞鶴を鬱陶しく感じ、魔物の私は背後から瑞鶴を激しく蹴りつけ、怪我を負わせたのだった。
「何回も説明したのですがね、誠意を見せろの一点張りで、どうにも困っているのですよ」
自分の撒いた種だった。私は瑞鶴の両親との面会を了承した。椅子から立ち上がった私の膝から手帳が落ちた。挟んでおいた紙が床に散らばったのを、弁護士が拾ってくれた。そのなかに乳児の写真があった。
「お子さんですか?」
「……親戚の子どもですよ」
嘘だった。
私には若い頃の過ちで授かった娘がいた。初めてこの手に抱いた時の軽さと泣き声のか弱さを今でもよく憶えている。
シングルマザーとして育てるつもりで出産したが、厳格な父親に取り上げられ、どこかに養子に出されてしまった。もう会うことは無いだろうと思いながらも、未練がましく、私は写真を捨てきれずにいる。
3月4日(水)
警視庁の刑事の事情聴取があった。正気を失っている間に、私は東京で数万人の人間が魔物化した事件の黒幕とされていた。刑事にデータを見せ、瘴気水の摂取による魔物化は予見不可能であったことを説明した。
3月9日(月)
今日も事情聴取だった。何度も同じ質問を受け、そのたびに胃がきりきりと痛んだ。濃紺色の背広を見かけると胃が痛い。最近、娘の写真を眺めることが増えた。小さな一枚の写真だけが、私の唯一の心の拠り所だ。いつか一緒に食事をしたりする日が来るだろうか。
3月15日(日)
大西夫妻との面会の日、病院の面会室に現れたのは派手なスーツを着た軽薄そうな男と、鼻筋が不自然に整った中年女だった。
「大事な娘さんに怪我を負わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「――先生に蹴られてね、うちの娘はショックで寝込んでしまったんですよ」
大西の父親が睨んだ。母親は俯いたままだ。
「……申し訳ありません」
「さっきからその言葉を繰り返すばっかりじゃないか。私達は誠意を見せてほしいんだよ。誠意を!」
つまり、お金を出せ、ということだった。事前に弁護士からは「会社が大西夫妻に金を払うことはないが、あなたが個人的にお見舞金を支払うなら、話は別」と言われていた。
そういえば、瑞鶴からいくつかメールが来ていた。体の調子はどうかといった内容の他愛のないメールだった。意図が分からず放置していたが、お金が欲しいのかも知れない。
結局、その場で弁護士が主導して、大西夫妻には私から慰謝料を支払うこと、今後一切、私が大西瑞鶴とその両親に接触しないことを書面にした。双方向に義務が生じる記載になっているので、彼らから私への接触をも禁じる内容となっているのだが、大西夫妻は気が付いていなかった。
病院のATMで現金を引き出し、封筒にいれて手渡そうとすると、大西の父親は私の手から奪うように受け取って封筒の中身を確認し、私の顔を一瞥して背を向けた。
大西の母親はというと、何も言わず私の顔を見てニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。気持ち悪い女だった。この女の顔をどこかで見たような気がする。
3月23日(月)
先週、大西夫妻と作成した書面をメールに添付し、もう二度と私に連絡しないようにと瑞鶴に返信した。それ以降、メールは来ていない。書面は効力を発揮してくれているようだ。今日、また院内で濃紺色の背広を見かけた。可愛い娘の写真だけが今の私の救いだ。
3月28日(土)
久しぶりに母親が面会にやってきた。母親はなぜか、今治での私の教師生活について聞きたがったが、特に話すことなどなかった。のらりくらりと話を逸す私に、母親がしびれを切らした。
「あなたの生徒のなかに、大西瑞鶴という子がいなかった?」
母親の口から聞くとは思ってもいなかった名前だった。私は驚きを隠して聞き返した。
「なんで母さんが大西さんのこと、知ってるの?」
「……」
「なによ。いいかけたのなら、最後までいってよ」
「……由美子は今、大西って苗字なのよ。再婚した旦那の苗字だよ」
久しぶりに姉の名前を聞いた。姉とは折り合いが悪く、私が実家を出てからは当然のように連絡は途絶えていた。
「――あなたの赤ちゃん、瑞希ちゃんね、由美子のうちに養子にだしたのよ。去年の11月に瑞希ちゃん……今は瑞鶴ちゃんだけど……瑞鶴ちゃんから私に連絡があって、あなたのことを聞かれたのよ。お婆ちゃんと苗字が同じだから、もしかしたらって思ったんだって。お爺ちゃんも亡くなったし、隠す必要もないから。あなたが本当のママだって知って、瑞鶴ちゃん、すごく喜んでたわよ。え、顔が違う? あなた、由美子に会ったの?? あの子、随分前に整形したのよ。コンプレックスがあったんだろうねえ。
ちょっと、あなた、大丈夫? 顔が真っ青よ!」
視界が歪み、手が震えだした。どれだけ息を吸っても空気が肺に入ってこなかった。
私の腕の中で泣く小さな娘、瑞希。
「ママ、もうやめて」と泣く瑞鶴。
2人の子供の姿が私の頭の中でぐるぐると回った。私は金魚のように口をパクパクとさせながら、床に崩れ落ちた。
私は魔物でも、狂った人間でもなかった。私はただの人間の屑だった。
本作品の主人公である野間瑠璃子と、名前だけ登場する大西瑞鶴は「ダンス部の愛ちゃん…」にも登場するキャラクターです。主に2学期編(ep46-ep94)で活躍します。
ダンス部の愛ちゃん、戦闘スキルは皆無だけど、爆裂ヨーヨーでゴブリン相手に無双しますよ。でも、本当に得意なのはダンスと浄化魔法なんです
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