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第2話 気色の悪い赤子

――ぎぃ。


重い扉が開いた瞬間、冷たい雨と一緒に外の空気が流れ込んできた。


「――……なんだと?」


低い声が漏れる。エドガーは眉をひそめた。


外に、何かある。いや、“何かいる”。


雨音に混じって、かすかに聞こえたのは――


赤ん坊の泣き声。


「……チッ」


舌打ち。面倒ごとの匂いしかしない。


だが、放っておけばどうなるかも分かっている。


死ぬ。それも、すぐに。


「……くだらねぇ」


吐き捨てながらも、エドガーは躊躇なく一歩踏み出した。ざっ、ざっ、と雨の中を進む。


視界は悪い。だが、距離はそう遠くない。


すぐに――見えた。


地面に置かれた、小さな塊。


布にぐるぐる巻きにされた、赤子。


「……は?」


思わず、足が止まる。本当に、赤ん坊だった。


捨て子。


しかも――こんな場所に、こんな天気で。


「正気かよ……」


呆れとも怒りともつかない声が漏れる。


だが次の瞬間、エドガーの表情は一変した。


赤子の様子が、おかしい。


泣いていない。さっきまで聞こえていたはずの声が、もう――ない。


「……おい」


しゃがみ込み、乱暴に布をめくる。


顔を確認する。


青い。


唇の色が悪い。呼吸も浅い。


「……クソが」


即座に抱き上げる。軽い。あまりにも軽い。


濡れた布が、じっとりと腕に張り付く。


体温は――低い。


明らかに危険な状態だ。


「……死にかけじゃねぇか」


吐き捨てるように言いながらも、その手は迷いなく動く。


自分の外套を乱暴に引きはがし、赤子ごと包み込む。


雨を遮る。


少しでも、体温を逃がさないように。


「……ったく」


誰に言うでもなく、苛立ちをぶつける。


こんな状態で置いていくなど、正気の沙汰じゃない。親か? それともただの通りすがりか?


どちらにせよ――


「ふざけやがって……」


低く、怒りが滲む。


その時だった。


布の端に、何かが目に入る。


「……?」


視線を落とす。


粗い布。


その一部に、簡単な刺繍。


文字。エドガーは目を細めて、それを読む。


「……ルクス」


小さく、口に出した。


名前、か。


「……名前付けんなら、最後まで面倒見ろよ」


吐き捨てる。だが、その言葉とは裏腹に。


エドガーの腕は、ほんのわずかにだけ――


力を強めていた。


「……生きてりゃ、だがな」


立ち上がる。迷いは無かった。


くるりと踵を返し、扉へ向かう。


雨の中に、もう用はない。


ざっ、ざっ、と足音を立てて戻り――


――ぎぃ。


再び扉をくぐる。


中は、外とは別世界のように暗く、湿っていた。


だが、雨風は防げる。それだけで十分だ。


「おい!」


怒鳴る。


中にいた子どもたちが、びくっと肩を震わせた。


数人の子供がこちらを見る。


痩せた顔。薄汚れた服。


だがエドガーは一切気にしない。


「火、起こせ! 今すぐだ!」


命令口調。有無を言わせない声。


子どもたちは慌てて動き出す。


「布も持ってこい! 乾いてるやつだ!」


さらに怒鳴る。


その間にも、エドガーは赤子を机の上に置いた。


乱暴だが、必要な動きだけは正確だ。


濡れた布を剥ぎ取る。


冷え切った体が露わになる。


「……」


一瞬だけ、眉が動く。


小さい。あまりにも、無防備だ。


「……チッ」


舌打ち。


だがその手は止まらない。


「早くしろ!!」


再び怒鳴る。


子どもたちが布と火種を持ってくる。


エドガーはそれをひったくるように受け取り、赤子を包む。雑だが、確実に温めるための動き。


「……死ぬなよ」


ぽつりと、低く呟く。


それが命令なのか、願いなのか。


自分でも分かっていない。


ただ――


このまま目の前で死なれるのは、気に入らなかった。


「……ルクス、か」


もう一度、名前を呼ぶ。


反応はない。当然だ。意識は完全に落ちている。


「……」


エドガーは無言で火のそばに座り込んだ。


赤子を抱えたまま。


その目は鋭く、苛立ちを孕んだままだが――


腕だけは、妙に慎重だった。


外では、まだ雨が降り続いている。


だがその音は、もう遠い。


この瞬間。


死にかけていた命は――


かろうじて、繋ぎ止められていた


***


半年が経った。


あの土砂降りの日が嘘みてぇに、空は乾いている。


「……はぁ」


エドガーは椅子にふんぞり返りながら、目の前の“それ”を見下ろした。


木の箱を簡易的に加工した揺り籠。


その中で、赤子――ルクスは、じっとこちらを見ている。


「……」


泣かなねぇ。一切、泣かねぇ。


「……気味が悪ぃ」


思わず口に出る。


普通、赤ん坊ってのはもっとこう……うるせぇもんだろうが。腹が減ったら泣いて、眠くても泣いて、なんなら理由もなく泣くもんだ。


それが赤子だ。


だが、こいつは違う。


「……」


じぃー……っと。


ただ、見てくる。瞬きも少ねぇ。


感情がねぇわけじゃない。笑うこともある。


だが――泣かない。


一度もだ。


「……」


エドガーは無言で、机に置いてあったパンの欠片を口に放り込む。硬い。味も薄い。いつも通りの飯だ。


その横で、ルクスは変わらずこちらを見ている。


「……なんだよ」


ぼそっと言う。


当然、返事はない。


「あー……う」


代わりに、間の抜けた声が一つ。


「……」


エドガーは顔をしかめた。


その声。“赤ん坊の声”ではある。


だが、どこか――妙に“間”がある。


まるで、考えてから出してるみてぇな。


「……気のせいか」


吐き捨てる。


そんなわけあるか、赤ん坊だぞ。ただの。


そう、ただの――


「……」


視線が合う。


ルクスは、じっとエドガーを見ていた。


「……チッ」


目を逸らす。気に入らねぇ。なんだその目は。


まるで――


「……」


分かってるみてぇな顔、しやがって。


「……くだらねぇ」


呟いて、酒の入ったコップを手に取る。昼間から飲むのはいつものことだ。

ここは孤児院だが、まともな場所じゃねぇ。


子どもは働かせるための駒。


俺にとっちゃあ、それ以上でもそれ以下でもねぇ


「……」


視線が、もう一度ルクスに戻る。


「……」


やっぱり、泣かねぇ。


半年だぞ。普通なら、もっと騒がしくなってるはずだ。だがこいつは――静かすぎる。


「……あー」


ルクスが小さく声を出す。


手を、少しだけ動かす。


まだ不器用な動きだが、明らかに“何かを掴もうとしている”。


「……」


エドガーはそれを見て、少しだけ眉をひそめた。


「……早ぇな」


普通、こんなもんだったか?


記憶は曖昧だが、他のガキどもより成長が早い気がする。……気のせいかもしれねぇが。


「……あー」


ルクスはまた声を出す。


今度は、エドガーの方へ手を伸ばした。


「……」


エドガーはしばらくそれを見ていたが――


無視した。


「調子に乗んな」


ぼそっと言って、視線を逸らす。


だが、その手はほんの一瞬だけ止まっていた。


***


数日前のことだ。


「もう無理です……!」


乳母の女が、半泣きで叫んだ。


「何がだよ」


エドガーは苛立った声で返す。


「この子……この子、おかしいです……!」


「は?」


「乳を……飲む時……」


女の顔が青ざめている。


「舐めるんです……!」


「……は?」


意味が分からねぇ。


「普通、吸うだけでしょう!? なのに……舌で……なぞるみたいに……!」


ぶるっと震える。


「気味が悪いんです……まるで……まるで……!」


「まるで何だよ」


苛立ちが増す。


すると女は、震えた声で言った。


「……理解してるみたいなんです……!」


「……」


一瞬、沈黙。


次の瞬間。


「……はは」


エドガーは鼻で笑った。


「馬鹿じゃねぇのか」


吐き捨てる。


「赤ん坊だぞ? んなわけあるかよ」


だが女は首を振る。


「違う……違うんです……! 目も……あの目も……!」


「うるせぇな」


ぴしゃりと遮る。


「働けねぇなら帰れ」


冷たく言い放つ。


女はびくっと肩を震わせた。


「……で、でも……悪魔付きかもしれないんです……」


「……」


その一言で、空気が少しだけ変わる。


エドガーの目が、わずかに細くなる。


「……あ?」


低い声。


だが、女は止まらない。


「この子、普通じゃない……絶対に……何か――」


「帰れ」


短く、吐き捨てるように言った。


「……え?」


「二度と来んな」


冷たい声。


それだけで、十分だった。


女は何か言いかけて――やめた。


そして、そのまま逃げるように去っていった。


***


「……悪魔付き、ねぇ」


エドガーはぼそっと呟く。


目の前のルクスを見る。


「……」


ルクスは、やはり泣かない。ただ、じっとこちらを見ている。


「あーう」


小さな声。


それだけ。


「……」


エドガーはしばらく黙っていたが――


ふん、と鼻を鳴らした。


「くだらねぇ」


コップを傾ける。


酒を一口。


「……ただのガキだろうが」


そう言いながら。その視線だけは、わずかに鋭さを増していた。


「……」


もしも。


万が一。


本当に“何か”だったとしても――


「……関係ねぇ」


低く呟く。


「ここにいる限りはな」


ルクスは、その言葉の意味も分からず。


ただ――じっと、エドガーを見ていた。


***


一年が経った。


「……チッ」


エドガーは舌打ちした。


目の前を――ちょこちょこと、小さな影が横切る。


「……うぜぇ」


ルクスだ。


あの死にかけてた赤子は、今や――


「……あー」


よちよちと歩いてやがる。


足取りは不安定。左右にふらつきながら、それでも前に進む。


普通なら、転ぶ。


そして――泣く。


だが。


「……」


ルクスは転ばない。


いや、正確には――


転ぶことはある。


「……」


その瞬間が来た。足がもつれる。


ぐらり、と体が傾いて――


ごつん。


頭から床にぶつかった。


「……」


普通なら、ここで大泣きだ。


だが。


「……」


ルクスは、ただ起き上がる。泣かねぇ、顔も変えねぇ、まるで、何もなかったみてぇに。


「あー」


そして、また歩き出す。


「……」


エドガーはしばらくそれを見ていたが――


「……気持ち悪ぃ」


ぼそっと吐き捨てた。


おかしい。


明らかに、おかしい。


「……」


ガキってのはな。もっとこう、弱ぇもんだ。


痛けりゃ泣くし、怖けりゃしがみつく。


それが普通だ。だが、こいつは違う。


「……」


転んでも泣かねぇ。頭打っても泣かねぇ。


腹減っても――泣かねぇ。


「……」


代わりに。じっと、見てくる。


「……チッ」


視線が合う。ルクスは、エドガーを見ていた。


相変わらずの目だ。静かで、妙に落ち着いてて。


「……なんだその目は」


思わず口に出る。


低く吐き捨てた、その直後だった。


「……えどが」


「……は?」


エドガーの手がぴたりと止まる。


今、なんつった?ゆっくりと、視線を落とす。


ルクス。


「……えどが」


もう一度、言いやがった。


「……」


エドガーの眉が、ぴくりと動く。


「……おい」


低い声。


「今、なんつった?」


ルクスは首を少しだけ傾けて、


「あー……えどが」


「……」


間違いねぇ。こいつ――


「……名前、呼びやがったのか?」


普通じゃねぇ。


一歳だぞ、まだ。


まともに喋れるわけがねぇ。


「……チッ」


舌打ち。だが、その目はわずかに細くなる。


気味が悪い、なんてもんじゃねぇ。


理解してる。少なくとも、“音”を覚えてやがる。


「……」


ルクスは、そんなエドガーをじっと見て――


今度は、別の言葉を出した。


「……ほん」


「……あ?」


聞き返す。


「ほん」


もう一度。はっきりと。


「……」


エドガーは数秒、黙った。


そして――ゆっくりと、部屋を見渡す。


机の上。隅に積まれた、ぼろい冊子。


子供用の、読み書きの本。


「……はは」


小さく笑った。

乾いた笑い。


「……マジかよ」


本、だと?読めねぇだろ、てめぇ。


いや、普通はな。だがこいつは――普通じゃねぇ。


「……チッ」


舌打ちしながら、視線をそらす。


考えるのが面倒になった。理解したくねぇ。


「……おい!」


怒鳴る。


近くにいた子どもが、びくっと肩を震わせる。


「は、はい!」


「……そいつに」


顎でルクスを指す。


「読み聞かせとけ」


「……え?」


一瞬、間の抜けた声。


「……あ?」


エドガーの目が細くなる。


「聞こえなかったか?」


「い、いえ! やります!」


慌てて頷く子ども。


痩せた手で、本を掴む。


「……ほら、こっち来い」


恐る恐る、ルクスに手を差し出す。


「……」


ルクスはその手を見る。


一瞬だけ。


それから――


とてとてと、自分から歩いていった。


「……」


エドガーはそれを見て、また舌打ちした。


「……調子に乗んな」


ぼそっと呟く。


だが。その視線は、外さなかった。


***


子どもは床に座り、本を開いた。


ルクスも、その隣に座る。


ちょこんと。


妙に大人しく。


「え、えっと……」


子どもはぎこちなくページをめくる。


「こ、これは……」


つっかえながら、読み始める。


拙い声。読み慣れていないのが分かる。


「……」


ルクスは――


じっと、それを見ていた。


ページ。文字。指の動き。


すべてを、追っている。


「……」


エドガーは壁にもたれながら、それを眺めていた。


「……ん?」


エドガーの眉がわずかに動く。


最初は気のせいかと思った。


ガキがよくやる、意味のねぇ独り言。そういう類だと。


だが――違う。


「……」


ルクスの口が、動いている。


「……ラ、……ティ……ノ……」


小さな声。だが、はっきりと“音”になっている。


「……?」


エドガーは、ゆっくりと体を起こした。


子どもが読んでいる声とは別に。


もう一つの声がある。


「……エト……クス……ヴァ……」


「……おい」


低く、呼びかける。


だがルクスは反応しない。視線は完全に本に落ちている。


指で、文字をなぞりながら。


「……ブツブツ……」


何かを、繰り返している。


「……」


エドガーは数歩、近づいた。


足音にすら反応しねぇ。完全に――没頭してやがる。


「……何言ってやがる」


ぼそっと呟く。聞いたことのねぇ音だ。


少なくとも、この辺の言葉じゃねぇ。


この孤児院で使われている粗野な共通語でもなければ、商人が使う方言とも違う。


「……ラティノ……セル……ア……」


「……」


エドガーの目が細くなる。


繰り返してる。


まるで―― 呪文でも、なぞってるみてぇに。


「……」


エドガーは、じっとルクスを見下ろした。


「……ラティノ……セル……ア……」


小さな口が、確かに“言葉”を紡いでいる。


だがそれは、この孤児院の誰も知らねぇ音だ。


子どもが読んでいる本は、ただの初等用の読み書きだ。そんな音は一つも載ってねぇ。


「……おい」


低く呼びかける。それでも、ルクスは止まらない。指で文字をなぞりながら、まるで――


“別のもの”を読んでいる。


「……」


エドガーの中で、何かが引っかかった。


「……チッ」


舌打ち。


気に入らねぇ。


「おい、やめろ」


少しだけ強い声で言う。


その瞬間。ぴたり、と。


ルクスの口が止まった。


「……」


ゆっくりと顔が上がる。


そして――エドガーを見る。


「……」


その目。やっぱりだ。ガキの目じゃねぇ。


「……なんだ、それ」


思わず、口に出ていた。


ルクスは少しだけ首を傾けて――


「あー……」


いつもの、間の抜けた声を出した。


さっきまでの“何か”が、嘘みてぇに消えている。


「……」


エドガーは、数秒間黙り込んだ。


「……気のせい、か?」


吐き捨てるように言う。


だが、胸の奥に残る違和感は消えねぇ。


今のは――絶対に。


ただの赤ん坊の真似事じゃねぇ。


「……」


ちらりと本を見る。汚れたページ。単純な単語。


あんな音が出てくる余地なんざ、一つもねぇ。


「……」


視線を戻す。


ルクスはもう、本に興味を失ったのか、別の子どもの服の端を掴んで遊んでいる。


さっきまでの“それ”は影も形もない。


「……」


エドガーはゆっくりと息を吐いた。


「……くだらねぇ」


そう吐き捨てる。


だが。


「……」


その目だけは、笑っていなかった

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