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13、木師の棚場④


「この曲は何なのですか?」


「バッハのマタイ受難曲だよ。最初から聞くかい。これは、いきなりイエスの磔刑(たっけい)から始まるんだ」


木師は、何事かの操作をした。

前奏曲が重々しく始まった。悪い事を予感させるような、陰鬱(いんうつ)な長い前奏だ。十字架を背負ったイエスが、(あえ)ぎ喘ぎゴルゴタの丘を目指す。シオンの娘らが、見よ()の方を、来たりて共に(んげ)かん……と、合唱から始まるんだ」


その間、ご先祖さまはタバコの封を切った。銘柄が無い。何か、手作りといった感じがする。

いきなり「ああああ~」と合唱が始まった。


「……⁈」


ご先祖さまは、タバコを取り落としそうになった。全身の産毛(うぶげ)逆立(さかだ)つような戦慄を覚えた。それは、ご先祖さまの奥深いところに在った何ものかを、激しく揺さぶった。それは、魂を激しく揺さぶる情動だった。

ご先祖さまは、わけも分からず胸が熱くなり、感動で涙があふれてきた。自分でも、この情動の正体が分からない。この情動の正体が、自分の失われた記憶を解く鍵のような気もする。

ご先祖さまはもどかしさで、わななく手でマッチを擦った。

取りあえず『一服して、気持ちを落ち着かせるのだ』と、ご先祖さまは木師の方を見ないようにして、タバコに火をつけ一つ吸った。


「……⁈」


二つ、三つと吸った。


「何だ!」


何か……違う。クラッときたが、本来のタバコのクラッととは質が違う。

酩酊するような、雲の上に乗ったかのような、おかしな感覚だ。

突然、ご先祖さまは驚愕した。合唱が、七色の光彩を放って部屋中を飛び交っているではないか。

これがマタイ受難曲といわれるものなのか。いいや、これは違う、マヤカシだ。ここは、木師の部屋のはずだ。俺は、ここで音楽を聴いているだけだ。

しかし、目に映ずる鮮やかな光彩は、逆巻きながら目まぐるしく変転している。

やがて突然、暗転した。

……真っ暗闇だった。粘りつくコールタールのような陰鬱な暗闇の真っただ中となった。


「くっ……」


ご先祖さまは、耐え難い痛苦を背中に自覚した。いつの間にか自分は、肩に痛く重く木の十字架を背負わされている。赤茶けたホコリっぽい坂道を、(あえ)(あえ)ぎ登っていた。遥か彼方に、ゴルゴタの丘が見える。あの丘まで、重い十字架を担いで行かなければならないのか……。ご先祖さまは、クラクラと気がくらんだ。

このとてつもない苦痛。この苦痛は、人類の罪業の重さなのだろうか。荷が重すぎる。自分は耐えられるだろうか。

沿道を埋め尽くす群衆が、口汚く自分を罵っている。


「……あっ!」


母が居た。

母が、涙を流しながら自分を見ていた。

大勢のシオンの娘たちが、目に涙を溜めて自分を見つめている。


「……」


胸に、熱いものがこみ上げてきた。自分は報わている。

母の流す慈愛の涙が、娘たちの流す美しい涙が、自分の汚れた魂を洗い流している。

……いまは、すべてを受け入れようと思った。

ご先祖さまは、いつの間にか苦痛が甘美な恍惚へと換わっている事を知った。ゴトン!と音がして、十字架が立てられた。天空は、重く垂れ下がるような暗雲で覆われている。

……と、突然頭上の暗雲が、白光を発し暗闇の時空を切り裂いた。

バリバリバリッ!と、とてつもない轟音を発し、十字架に張り付けられた自分を真っ二つに切り裂いた。


「ひっ!」


思わず、驚愕の悲鳴がご先祖さまの喉を突いて出た。


「……」


……はっ、と気づくと総てが光に満ち溢れていた。

はるか彼方まで、キラキラときらめく広大な雲上に自分は居る。

『……ここは、天国なのか?』

めくるめく幻覚の嵐に翻弄されて、ご先祖さまはソファーに突っ伏した。


「やや、何としたことだ!」


木師はご先祖さまのただならぬ様子に、慌てて山羊先生を呼んだ。

山羊先生は、すぐ駆けつけて来た。その後ろには、早くの異変を嗅ぎつけたらしく兎が顔を覗かせていた。


「あら、まあ」


「おお、どうしたんです?」


山羊先生は、すばやくご先祖さまの呼吸を調べ、脈を診、瞳孔を診た。

瞳孔が、拡大と収縮を繰り返しながら、キョトキョトと動いている。


「ふむ、何ね、ご先祖さまがタバコを吸いたいと言うんで……。吸ったら、急に様子がおかしくなって、倒れてしまったんだよ。ふむ」


木師の差し出したタバコを、山羊先生は興味深そうに手に取り、表、裏とひっくり返し、抜き取って臭いを嗅いだ。


「これは、タバコじゃないみたいですよ。マリファナとか覚醒剤とかアヘンなどの、麻薬と呼ばれる幻覚剤ですよ。おお、いったい、こんな物どこから見つけて来たのですか」


「何てことを!。ご先祖さまにそんな物を与えたの。まったく、木師は何考えているのよっ!」


「そんなこと言われたって」


木師は孫のような兎からのキツイ叱責をくらって、悄然(しょうぜん)としてしまった。


「それより、ご先祖さまはどうなの」


「おお、それは、多分、大丈夫でしょう。もう少したったら、嫌煙剤を打っときますから、目が醒めたらタバコを勧めてみてください。それで、ご先祖さまはタバコを吸いたいと思わなくなるでしょう。もし、何か物足りないふうだったら、あめ玉でもあげてください」


「ふむ、で、タバコは」


「何か、適当な葉っぱを見繕って、刻んで作っときます」


山羊先生は、事もなげに応えた。


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