第19話 伝説の声優『肥丸勇人』
最寄りの駅から電車を乗り継ぐこと二時間。初夏の日差しを浴びながら住宅街を歩くと、家並みの中に見慣れた一軒家が見えてきた。表札には『肥丸』の文字。
実家だ。
一年ぶりの帰宅になる。自分の声に疑問を抱いた俺が親父に相談して、そして声優を諦めるよう勧告を受けたとき以来。
「ただいま」
玄関を抜けて居間に入ると、ソファでだらけていた超有名声優、もとい俺の親父が驚いて振り返る。
「魔王が帰ってきたと思ったが、なんだ英雄か」
「もう俺の声を忘れたのか」
「そのセリフ、魔王っぽい」
ニコニコ笑う親父は相変わらずノリが若い。
いや、ノリだけじゃない。
肥丸勇人は四十代後半とは思えないほどの若々しい見た目だ。大学生みたいに茶色い髪をツンツンにして、肌も日ごろのスキンケアのおかげでハリがある。俺と一緒に街を歩いていたら間違いなく同級生と勘違いされるだろう。
その若い印象にさらに拍車をかけるのが、声。
深夜アニメの十代の高校生主人公のような爽やかな声質をしている。魔王ボイスの俺とは正反対だ。
バトルもの、恋愛もの、ハーレムもの、ソシャゲに洋画の吹き替え。青少年が主役の作品には必ず出演してきた。
アニメファンなら誰もが知っている有名声優。
それが肥丸勇人。
「どうした? 連絡もなしに突然帰ってくるなんて」
「少し聞きたいことがある」
今のやり取りを真っ暗な部屋で聞いたら、魔王と勇者の密会シーンのように聞こえるだろうな。そんなことを思いながら親父の横に座る。
「声優のことについてなんだけど」
「声優って……声優学校はやめたんだろ? まだ目指してんのか?」
「そうじゃなくて、声優の心構えみたいなことを聞きたくてさ。たくさんのキャラクターを演じてきた親父に」
「言ってみろ」
声優の話になった途端、表情が引き締まる。
ガキの頃に親父のアフレコ現場を見学したことがあるけど、今まさにそのときと同じ顔をしている。
普段はふざけていても、仕事の話となると真面目になるんだよな。そこがかっこいいんだけど。
「まず前提条件として、演じるキャラクターが意思を持っているとする」
「は? 頭打ったか?」
「最後まで聞けって! いや、そう思われるのも仕方ないけどさ!」
コホンと咳払いして、
「キャラクターが意思を持っていたとして、もしその思想が自分には理解できなかったら、どういう気持ちで演じる? あるいはキャラに自分の思想をぶつける?」
「黙って受け入れる」
即答だった。
「で、でも! 例えばそのキャラクターが明らかに破滅に向かっているとしたら? 親父は正しい道に修正するよう説得しないのか?」
「しねえな」
やはり即答。
「いいか英雄。声優ってのは黒子だ。本来は存在してはならない職業。キャラクターが声を持たないから、仕方なく代わりに声を授ける仕事だ。端から意思介入の余地なんてねえのよ」
前に教えてくれた声優の基本原則に則った考え方。
「まあ意図を聞くくらいなら問題ないかもな。解像度が高まれば演技向上に役立つし。ただ、納得できないからといって自分の意見を出すのはNGだ。キャラクターが上、声優が下。この鉄則は崩れない」
肯定する権利はあっても、否定する権利はないということか。
「俺たちはきらびやかな石像を支える土台なんだよ。それを承知でこの業界に入ったんだ。自己主張したいのなら作品外でやるか、俳優にでもなればいい。少なくとも声優よりは自我を出せるだろうぜ」
これがプロの声優の言葉。
もちろん声優と声勇は違う。
親父の言葉がすべて声勇に当てはまるわけじゃない。
でも、少なくともミャルの理想を「無理だ」と否定し、話し合うこともなく強引な手段で捻じ曲げようとした俺が間違っていたことだけは分かる。
俺は演者になり切れなかったんだ。
「やっぱりダメだな俺。声勇失格だ」
「そもそも声優じゃねえだろうが」
「こっちの話」
頭上にクエスチョンマークを浮かべる親父。わからなくていいよ。親父には関係のない世界だから。
「話が聞けて良かった。それじゃあ俺は帰るよ」
「もう帰るのか?」
「長居しても悪いだろ」
「いや、泊って行けよ……と思ったが」剃り残しのない顎をなでて「今日はムリだな」残念そうに言った。
頻繁に連絡を寄越すくらいには俺のことを気にかけてくれている親父にしては珍しい。いつもしつこいくらい引き止められるんだが。
違和感は親父の言葉だけじゃないことに気付いた。
「そういえば部屋がやけに片付いてるけど」
俺の母さんは幼いときに死んだ。
男手一つで育ててくれた親父は、絶望的に掃除が苦手だった。苦手というより後回しにするというか。だからこの家は通路以外の場所にはファンからもらったプレゼントやら出演したアニメの制作からもらった記念グッズやらが山積みになっていた。
親父がそれらを整理するときは、決まって数日家を空けるとき。地方のイベントとか地元に帰るときとか、そういうきっかけがないと掃除ができない人だった。
そして今、部屋はすっきりしている。間違いなく出張の気配。
「でも、もう引退したんだろ? 声優」
数年前、若手の枠を潰したくないという理由で本格的な声優活動に幕を下ろした。
「半引退、な。ゲストキャラで呼ばれたりするし、ソシャゲ案件もある。テレビのナレーション、学校の講師にも呼ばれることもある」
「じゃあ仕事で数日家を空けるのか」
「まあな。どうしても断れない依頼がきちまった」
「どんな?」
「ピンチを救う勇者の仕事だ」
「それはいつものことだろ。その声だと主人公サイドしかできないし」
「わかってるじゃないか」
ニコリと笑っているけど、半引退した親父が長期間縛られる仕事ってなんだ? 勇者ってことはアニメのアフレコだろうけど、スタジオはここから車で一時間圏内。外泊するわけがない。
気にはなったけど、仕事に首を突っ込むのも野暮というもの。
言及はやめておいた。
玄関に向かう俺を、親父が引き止める。
「父さんからも一つ聞かせてくれ」
「なんだよ」
振り返ると、真剣な、でも少しだけ寂しそうな顔で、
「まだ自分の声に自信が持てないのか?」
「……親父にはわからないよ。主人公役しかできない親父には」
靴に足を入れ、ヒモを結ぶ。少しきつく締めすぎてしまった。
「役なんて関係ないと思うけどな」
「わかってない。わかってないよ。だって俺の声は……」
誰にも勇気を与えられないから。
そう言いかけて、水色髪の魔王様の顔が思い浮かんで、口をつぐんだ。




