かんざしの狐
ここは、江戸時代の日本橋。
そこにはおさきという可愛らしい中居さんがいた。
おさきは普通の「ヒト」ではなかった。
秘密を持ちながら暮らす、おさき。
そのおさきに、新たな転機が訪れる。
おさきはその日、襖が開けられた音で目が覚めた。
「おさき、一緒に台所まで行きましょう。」
声の主はおくめだった。いつもおくめはおさきよりも先に下に行く。多分、女将に怒られるのが嫌だから、今日はおさきを呼んだのだろう。
おくめは可憐で真面目な子だった。先輩のようにおさきが女将に甘やかされているから、と言ってねたむような子ではなかった。おさきにとってそれはとてもいいことだった。中にはおさきの裏を探ろうとしてくるものもいたが、隣におくめがいることで中々できなかったのだ。
おさきは簡単に身じたくを過ませ、おくめの前を歩いた。襖の前まで着くとおさきは正座をし、
「入ります」
とだけ言い、襖を開けた。中には女将と、おさきを毛嫌いしている先輩三人がいた。女将はおさきを見ると、
「あら、おさきちゃん。今日は早いのね。」
と言って、後ろにいるおくめを、にらんだ。おくめは女将と目が合ったらしく、冷や汗を流しながらペコペコしていた。女将はおさきに対して大体の時は「ちゃん」を使うが、おくめに対しては「お前」や「おくめ」としか言わない。
「はい、ご飯。」
女将はおさきにしか目を合わせずにそう言った。おさきは狐だったがおくめが可愛想だと思った。ただ、渡された朝食の量がおさきとおくめで同じだということが救いだった。おさきとおくめは台所の隅にある小さなちゃぶ台で朝食を食べた。
「はあ、おさきがいなかったらどうなってたことか。」
おくめは肩の力をぬきながら小さい声でそう言った。頬をふくらませて怒っているおくめを見て、人間らしいな、とおさきは思った。と同時に、おくめの膨らませた頬がたちまち縮んだ。
「そのかんざし、どこで買ったの?」
唐突すぎる質問におさきは味噌汁をこぼしそうになった。
全くこの子の心の中は北斎の「神奈川沖浪裏」なのか?と、おさきは思った。おさきは味噌汁を持ち直して言った。
「本町にある玉結堂だよ。知らない?」
おくめは白米を食べながら目を大きく開き、ゆっくりコク、コクとうなずいた。
「あそこかー。気になってたの。」
おさきのさしているかんざしには狐が書いてあった。おさきはそれを自分が狐であることの印としていた。
「そうだ!明日、そこに行きましょう。」
おくめが満面の笑みでそう言ってきた。おさきは驚き、ためらった。
おさきは半日に一回ほど狐にならなければいけない。また、三刻ほどに一回、耳と尾を生やさないといけない。そんな状況で人間と外出するなど、思慮深いおさきには到底考えられないことだった。だが、おさきはおくめの笑顔に負けてしまった。
「構わんけど手短にね。」
おくめは秋に咲くひまわりのごとく笑った。そのおかげでおさきは気が楽になった。おさきは人間をこんなにも好きになったことはなかった。おさきは狐としても人間としてもこんなに人に好かれることはなかったのだ。おさきは幾年ぶりかの心の底からの笑顔を見せた。
おさきとおくめは朝食をとると、女将と先輩の手伝いをした。
中居さんの仕事は過酷なものだった。夜明け前に起き、仕事は深夜まで続くこともあった。
「おさきちゃん、下駄箱をふいてきておくれ。」
女将はおさきの名しか呼ばなかったが、おくめにも雑巾を投げた。おくめはそれを危うく落としそうになった。二人はそそくさと土間に向かった。おさきは雑巾を下駄箱の上に放り投げると、大戸口を開けた。その途端、向かいの旅縄の女将のどなり声が聞こえた。
「おまん!!早く起きなさい!!」
おさきとおくめは目を合わせた。そして、くすくす笑った。おききの笑顔はどんどんに薄くなっていったがおくめの笑いは途だえなかった。
おくめは言った。
「うちの女将さんと一緒やね。」
おくめの着物の袖が笑うごとにゆれた。かんざしが朝日に照らされて、輝く。
「どこの女将さんも厳しゅうすなぁ。」
おさきにはおくめのことが鈴を転がす猫のように見えた。
おさきもおくめと一緒に笑った。おさきは自分がなぜ笑っているのか分からなかった。ただ、ただ、「しあわせ」だったのだ。




