#008 黒く塗りつぶされた1時間
木曜日の深夜11時。
あと1時間で、24時間の期限が来る。
カノン(律の体)は、自分の部屋で律(カノンの体)と向き合っていた。二人とも、どこか名残惜しそうな表情をしている。
「もうすぐ、戻らないと」律(カノンの体)が言った。
「うん……」
でも、二人とも動こうとしない。
この24時間で、お互いのことを今まで以上に理解できた。相手の体で過ごし、相手の日常を体験し、相手の苦労も喜びも実感した。
「ねえ」カノンが口を開いた。「もし、もう少しだけ……」
「ダメだ」律(カノンの体)が首を振った。「Dr.バグが言ってた。24時間を超えると、黒塗りが始まる」
黒塗り。その言葉に、カノンは背筋が冷たくなった。
でも——
「1時間くらいなら、大丈夫かも」
「カノン?」
「だって、今日の配信、すごく楽しかった。二人で一つになってるみたいで」
律(カノンの体)の表情が揺れた。
「僕も……君の体で音楽を作るのは、新しい体験だった」
二人の間に、甘い誘惑が漂う。
もう少しだけ。
あと少しだけ。
このままでいたい。
[PING!]
突然の通知音に、二人は飛び上がった。
Dr.バグからのメッセージだった。
『残り1時間。準備はいいかな? ところで、君たちの適合率、さらに上昇してるよ。今や96.2%。素晴らしい』
96.2%。最初より上がっている。
『このまま続ければ、もっと深い融合が可能かもしれない。興味はないかい?』
悪魔の囁きだった。
「無視しよう」律(カノンの体)が言った。「罠だ」
「分かってる。でも……」
カノンは自分でも驚くほど、この状態に執着していた。
律の体でいることが、心地良い。静かで、落ち着いていて、でも創造的。カノンの華やかさとは違う、深い満足感がある。
「15分だけ」カノンが提案した。「15分延長して、11時15分に戻ろう」
律(カノンの体)は迷った。理性では危険だと分かっている。でも——
「……分かった。15分だけ」
二人は、残された時間を大切に過ごすことにした。
一緒に音楽を聴き、思い出を語り、笑い合った。15分なんて、あっという間だった。
11時15分。
「じゃあ、戻ろう」
二人は旧式LINKを起動した。
[PROTOCOL: BODY_RETURN_v3.7]
[開始時刻: 23:15:00]
[警告: 最適時間超過]
[続行しますか? はい / いいえ]
警告が出た。でも、二人は続行を選んだ。
「せーの」
実行ボタンを押す。
また、あの激痛が襲ってきた。魂が引き剥がされ、宙に浮き、そして——
元の体に戻っていく、はずだった。
でも、何かがおかしい。
抵抗を感じる。まるで、体が魂を拒否しているような。無理やり押し込まれる感覚。そして——
「あぐっ!」
カノンは激痛と共に、自分の体に戻った。
目を開ける。見慣れた自分の手。細くて白い、女の手。
「戻った……」
でも、安堵も束の間、恐ろしいことに気づいた。
「あれ? さっきまで何してたっけ?」
記憶を辿ろうとする。でも——
真っ黒だった。
11時から11時15分までの15分間。完全に記憶が欠落している。
「律!」
慌てて律を見る。彼も自分の体に戻っていたが、顔面蒼白だった。
「カノン……僕も……15分間が……」
「思い出せない」
二人同時に言った。
恐怖が背筋を駆け上がる。たった15分オーバーしただけで、記憶が黒塗りになった。
慌ててスマホで記憶ログを確認する。
[MEMORY LOG: 2043.03.17]
22:00-23:00 [アクセス可能]
23:00-23:15 [██████████]
23:15-23:30 [アクセス可能]
ERROR: 記憶整合性エラー
黒塗り区間: 15分
「本当に、黒く塗りつぶされてる……」
カノンは震えた。たった15分。でも、その15分に何があったのか、全く思い出せない。
いや、それだけじゃない。
「なんか、他の記憶も……ぼやけてる」
24時間の体験が、少しずつ曖昧になっていく。律の体で過ごした感覚。作った音楽。感じた静けさ。すべてが、霧がかかったように不鮮明になっていく。
でも、不思議なことに——
「律……」
カノンは胸に手を当てた。記憶は曖昧になっても、感情だけは鮮明に残っている。
律への信頼。一緒にいる時の安心感。守られている温かさ。それらは、むしろ前より強くなっている気さえする。
「カノン?」
律も同じように胸を押さえていた。
「変なんだ。君の部屋で何をしたかは思い出せなくなってきてる。でも、君を大切に思う気持ちは、もっと強くなってる」
二人は顔を見合わせた。
記憶は薄れても、感情の繋がりは消えない。いや、むしろスワップを経験したことで、より深く結ばれたような——
「これも、黒塗りの影響かな」カノンが不安そうに言った。
「分からない。でも」律は優しく微笑んだ。「この気持ちが残ってるなら、それでいい」
その言葉に、カノンは涙が出そうになった。
たとえ記憶を失っても、この繋がりさえあれば——
危険な考えだと分かっていても、そう思ってしまう。
[PING!]
またDr.バグからのメッセージ。
『おやおや、15分もオーバーしたんだね。どうだい、黒塗りの感覚は?』
まるで監視していたかのようなタイミング。
『心配しなくていい。たった15分なら、大した影響はない。でも、これが1時間、2時間となると……』
『ちなみに、今日の配信は見させてもらった。視聴者の反応、興味深いね。需要は確実にある』
『次は、もっと長く交換してみたくならないかい? 黒塗りなんて、小さな代償だ。それ以上の体験が待っている』
「ふざけるな!」
律が珍しく声を荒げた。
「記憶を失うことの、どこが小さな代償なんだ!」
でも、カノンの心の中には、別の感情も芽生えていた。
——確かに15分は失った。でも、残りの23時間45分の体験は、かけがえのないものだった。
もし、もっと深く繋がれるなら。
もし、もっと完全に理解し合えるなら。
多少の記憶を失っても——
「カノン?」
律の声で我に返る。
「ごめん、ちょっと……」
「まさか、また参加しようなんて考えてないよね?」
カノンは答えられなかった。
理性では危険だと分かっている。でも、心の奥底では、また体験したいと願っている自分がいる。
「とにかく、今日はもう寝よう」律が言った。「疲れてるんだ、きっと」
「うん……」
律が帰った後、カノンは一人で鏡を見つめた。
自分の顔。間違いなく綾瀬カノンの顔。
でも、どこか違和感がある。15分の空白が、自分の中に暗い穴を開けたような。
そして、恐ろしい疑問が浮かんだ。
もし、72時間を超えたら、どうなるんだろう。
すべての記憶が黒塗りになる?
それとも——
自分が自分でなくなる?
カノンは震えながらベッドに潜り込んだ。
でも、眠りの中でも、Dr.バグの声が聞こえる気がした。
『A-137、君ならもっと深くまで行ける。記憶の先にある、本当の自由を見てみたくないかい?』
朝になっても、15分の空白は戻らなかった。
そして、カノンは気づいていなかった。
黒塗りになった15分間のデータが、どこかに送信されていることに。
送信先:Dr.バグ個人サーバー
ファイル名:A-137_Lost_Memory_01.mem
記憶は失われたのではない。
盗まれたのだ——