#007 君の日常、僕の非日常
木曜日の朝6時。
カノン(律の体)は、けたたましいアラーム音で目を覚ました。
「んー……」
低い声が出て、一瞬驚く。そうだ、今は律の体なんだ。
起き上がろうとして、体の重さに戸惑った。とくに上半身。男の体って、こんなに重いんだ。
「低血圧で動けないって言ってたっけ……」
確かに、頭がぼんやりして、体が鉛のように重い。カノンの体なら、パッと起きられるのに。
なんとかベッドから這い出て、キッチンへ向かう。コーヒーメーカーが目に入った。
「これか」
慣れない手つきでコーヒーを淹れる。香りが鼻腔を刺激すると、少しずつ頭が冴えてきた。
「律って、毎朝こんな感じなんだ」
コーヒーを飲みながら、部屋を見回す。昨夜は暗くてよく見えなかったけど、朝の光の中で見ると、律の生活が見えてくる。
整理整頓された本棚。楽譜が年代順に並んでいる。その中に、手作りのファイルを見つけた。
『カノン資料』
開いてみると、カノンの配信のスクリーンショットや、学校行事の写真が丁寧にファイリングされていた。5年分。
「ストーカーじゃん……」
でも、嬉しかった。こんなに大切に思われていたなんて。
[PING!]
律のスマホに通知。でも、たった1件。カノンのスマホなら、朝から999+なのに。
『日曜も練習? 今日は新曲の締切だよ』
音楽仲間からのメッセージらしい。
そうか、律には律の日常がある。音楽を作る日常が。
カノンは、律のパソコンを開いた。作曲ソフトが立ち上がり、未完成の曲が表示される。
「これ、どうやって……」
試しに鍵盤を押してみる。音は出る。でも、どう繋げればいいのか分からない。
ふと、頭の中に旋律が浮かんだ。
——これは、律の記憶?
手が勝手に動き始める。律の体が覚えている動きに任せて、音を紡いでいく。
不思議な感覚だった。自分で作っているようで、でも律が作っているような。二人で一つの曲を作っているような。
気がつくと、2時間が経っていた。
「すごい……」
完成した曲を聴いて、鳥肌が立った。カノンだけでは絶対に作れない曲。でも、律だけでも作れなかったかもしれない曲。
[PING!]
今度は、カノン(本人)からのメッセージ。いや、律(カノンの体)からだ。
『助けて! フォロワーからのメッセージが止まらない! どうすればいい?』
カノンは苦笑した。
『通知オフにして。返信は定型文でいいよ』
『定型文?』
『「メッセージありがとう♡ 今日も素敵な一日を!」これコピペして』
『こんなので満足するの?』
『残念ながらね』
向こうも大変そうだ。
午後、カノンは律の体で外出することにした。日曜の昼下がり、街は家族連れで賑わっている。
不思議な感覚だった。いつもなら視線を感じる。「あ、カノンちゃんだ」という囁き声が聞こえる。でも今日は、誰も振り返らない。
ただの男子高校生。目立たない、普通の存在。
「これが、律の見てる世界……」
カフェに入っても、店員の対応が違う。愛想はいいけど、特別扱いはない。当たり前だけど、新鮮だった。
コーヒーを飲みながら、ふと思った。
この静かさ、悪くない。
誰にも見られていない自由。演じる必要のない解放感。数字を気にしなくていい安らぎ。
でも同時に、寂しさもあった。
誰からも注目されない虚しさ。特別じゃない自分。ただの一人。
これが、律の日常。
静かで、穏やかで、でもときどき寂しい世界。
[PING!]
『カノン、大変だ』
律(カノンの体)からの緊急メッセージ。
『どうしたの?』
『配信しろって、みんなが……でも、何を話せばいいか分からない』
そうだ。日曜の午後は、定期配信の時間だった。
『今から行く。場所は?』
『君の部屋。助けて、パニックになりそう』
カノンは急いでカフェを出た。自分の家に向かうのに、他人の体で行くという奇妙な状況。
マンションに着くと、オートロックで止められた。
「あの……」
『誰?』
インターホン越しの律(カノンの体)の声。
「カノン……じゃなくて、律です」
『ああ、ごめん。今開ける』
部屋に入ると、律(カノンの体)が困り果てた顔で座っていた。カノンの部屋着を着ているのが、妙に可愛い。
「配信、どうしよう」
「大丈夫。一緒にやろう」
カノンは配信機材をセットアップし始めた。律の手は不器用だったけど、やり方は覚えている。
「でも、僕が配信なんて」
「声は私なんだから、大丈夫。いつも通りに話して」
「いつも通りって?」
カノンは考えた。そして、にやりと笑う。
「今日は特別企画。『友達と一緒に配信』ってことにしよう」
配信が始まった。
[配信モード:ON]
[視聴者数:5,234名]
「みんな、こんにちは〜! カノンだよ〜」
律(カノンの体)が、教えられた通りに挨拶する。ぎこちないけど、それがかえって新鮮だったようだ。
『今日のカノンちゃん、なんか違う』
『でも可愛い』
『友達って誰?』
「今日はね、特別ゲスト! 律くんで〜す」
カノン(律の体)が画面に入る。
『男!?』
『カノンちゃんに彼氏!?』
『やっぱり噂は本当だった』
コメント欄が爆発した。
二人で配信を続ける。律(カノンの体)は段々慣れてきて、自然に話せるようになった。カノン(律の体)も、普段とは違う立場から配信を楽しんだ。
「音楽の話、してもいい?」律(カノンの体)が提案した。
「いいよ!」
律は、音楽への愛を語り始めた。カノンの声で、でも律の情熱で。その組み合わせが、視聴者の心を掴んだ。
『なにこれ、めっちゃいい』
『カノンちゃんの新しい一面』
『音楽詳しすぎ』
『二人の相性最高』
そして、危険なコメントも混じり始めた。
『これ、まさか例のスワップ?』
『入れ替わってるの?』
『いくらで体験できる?』
『100万出すから俺ともスワップして』
『カノンちゃんの記憶、売ってくれない?』
カノンは一瞬ぞっとした。まさか、視聴者にバレている?
でも、律(カノンの体)は冷静に対応した。
「えー、なんのことかな〜? みんな想像力豊かだね!」
『冗談だよね?』
『でも本当にあったら欲しい』
『記憶の売買とか、未来っぽい』
『闇市場であるって噂聞いた』
二人は目を合わせた。視聴者は冗談のつもりかもしれない。でも、実際にDr.バグの世界では——
記憶は商品になりうる。
そして二人はまだ知らなかった。この配信を見ていた者の中に、本気で「買いたい」と思っている人物がいることを。
1時間の配信が、あっという間に終わった。
[配信終了]
[最高同時視聴者数:48,291名]
[いいね:89,420]
「すごい数字……」律(カノンの体)が驚く。
「でも」カノンは言った。「数字より、楽しかったことの方が大事」
二人は顔を見合わせて笑った。
お互いの日常を体験して、分かったことがある。
カノンの日常は、華やかだけど疲れる。
律の日常は、静かだけど寂しい。
でも、二人一緒なら——
ちょうどいいのかもしれない。
残り時間:12時間15分。
半分が過ぎた。でも、まだ半分もある。
この奇妙で、でも心地よい時間を、もう少し楽しんでいたい。
そんな風に思い始めていた——