#006 スワップ―魂の入れ替わり
水曜日、深夜23時45分。
カノンは自室で最後の準備をしていた。旧式LINKはすでに装着済み。あとは、指定されたURLにアクセスするだけだ。
鏡を見る。これが最後かもしれない。この顔を、自分の顔として認識できるのは。
「綾瀬カノン……」
自分の名前を口にしてみる。17年間使ってきた名前。でも、あと15分後には、違う誰かになっているかもしれない。
[PING!]
律からのメッセージ。
『準備できた?』
『うん。でも、やっぱり怖い』
『僕もだよ。でも、一緒だから』
カノンは微笑んだ。そう、一人じゃない。律も同じリスクを背負ってくれている。
時計が23時55分を指した。
深呼吸をして、URLを入力する。
[ACCESSING:BUG.CHURCH]
[PROTOCOL:BODY_SWAP_v3.7]
[認証中……]
[旧式LINK Ver.0.9β 確認]
[アクセス許可]
視界が切り替わった。
真っ暗な空間に、無数の光の粒子が浮遊している。仮想大聖堂。他の参加者たちのアバターが、すでに集まっていた。
「カノン!」
律のアバターが近づいてきた。顔はモザイクで隠されているが、声ですぐにわかる。
「みんな、顔が見えないんだね」
「プライバシー保護らしい。でも——」
その時、空間の中央に巨大な光が現れた。
歪んだ道化師のようなアバター。Dr.バグだ。
「ようこそ、記憶の解放を求める同志たち」
機械的に変調された声が、空間全体に響き渡る。
「今夜は特別な夜だ。我々の中に、極めて高い適合率を持つペアがいる」
スポットライトが、カノンと律を照らした。
「A-137とR-404。君たちの適合率は94.7%。これは奇跡に近い数値だ」
周囲からざわめきが起こる。カノンは恥ずかしさと同時に、不安を感じた。
「では、始めよう。今回のテーマは『24時間の完全スワップ』。肉体はそのまま、記憶と人格を交換する」
Dr.バグが手を振ると、参加者たちの前に操作パネルが現れた。
「パートナーを選び、同意ボタンを押すだけだ。ただし——」
Dr.バグの声が低くなる。
「24時間を1秒でも超えると、記憶の黒塗りが始まる。72時間を超えると……まあ、それは体験してのお楽しみだ」
カノンは震えた。72時間。また、その数字。
「さあ、運命の相手を選びたまえ」
カノンは迷わず律を選択した。律も同じようにカノンを選ぶ。
[パートナー:朝凪律]
[相互選択確認]
[スワップ準備完了]
「実行する?」律が聞いた。
「うん。もう、ここまで来たら」
二人は同時に実行ボタンを押した。
瞬間——
激痛が全身を貫いた。
「あぐっ——!」
まるで、魂が肉体から引き剥がされるような感覚。視界が真っ白に染まり、音が遠ざかっていく。
自分という概念が、急速に薄れていく。
名前は? 年齢は? 性別は?
すべてが曖昧になり、ただ「存在」だけが宙に浮いている。
そして——
急激な落下感。
違う器に、魂が流し込まれていく。最初は抵抗があった。合わない靴を無理やり履かされるような違和感。
でも、徐々に馴染んでいく。
指先から、新しい感覚が流れ込んでくる。手が、大きい。重い。骨格が違う。
目を開けると——
「え……?」
声が低い。自分の声じゃない。律の声だ。
慌てて手を見る。男の手。細長い指。ピアニストの手。
「これ、あたし……じゃない、僕……?」
混乱する。一人称すら定まらない。
周りを見回すと、自分の体——いや、カノンの体に入った律が、同じように混乱していた。
「カノン? いや、僕は律……でも、この体は……」
高い声。カノンの声で、でも話し方は律。その違和感が、現実を突きつける。
本当に、入れ替わってしまった。
「すごい……本当に成功したんだ」
Dr.バグの満足そうな声が響く。
「では、24時間の新しい人生を楽しみたまえ。ああ、そうそう。君たちの元の体は、こちらで大切に『保管』しておくから安心して」
保管? どういう意味だろう。
でも、考える暇もなく、仮想空間から強制的に切断された。
気がつくと、カノン(律の体)は見知らぬ部屋にいた。
いや、知っている。これは律の部屋だ。でも、視点が違う。背が高くなっている分、見える景色も違う。
本棚に並ぶ楽譜。壁に貼られた音楽理論のポスター。そして、机の上の創作ノート。
ノートを開くと、そこには——
『カノンのための組曲』
『A.Kに捧げる夜想曲』
『心にしみわたる旋律・改訂第23版』
全部、自分のための曲だった。
「律……ずっとこんなに……」
胸が熱くなる。でも、それは律の体の反応なのか、カノンの心の反応なのか、もう分からない。
[PING!]
スマホが鳴る。律のスマホ。
『カノン(俺)だよ。今どこ?』
文面が混乱している。
『律の部屋。そっちは?』
『君の部屋。なんか、すごく散らかってる』
カノンは苦笑した。確かに、片付けは苦手だ。
『これから、どうする?』
『とりあえず、会おう。公園で』
深夜の公園。人気のない場所で、二人は再会した。
自分の体を外から見るのは、奇妙な感覚だった。
「なんか、変な感じ」カノン(律の体)が言った。「自分の顔を外から見るなんて」
「うん」律(カノンの体)も戸惑っている。「君の体、思ったより華奢だ。大切にしないと」
二人は苦笑した。
「ねえ」カノンが言った。「せっかくだから、お互いの生活を体験してみない?」
「え?」
「24時間しかないんでしょ? だったら、律の日常を過ごしてみたい。律も、あたしの生活を体験してみて」
律(カノンの体)は少し考えてから頷いた。
「分かった。でも、気をつけて。僕の体には、いくつか癖があるから」
「癖?」
「朝は低血圧で動けない。コーヒーがないと頭が働かない。あと、定期的に指のストレッチをしないと、腱鞘炎になりやすい」
カノンは驚いた。律の体のマニュアルみたいだ。
「あたしの体は?」
「肩こりがひどい」律(カノンの体)が肩を回した。「多分、いつも無理な姿勢で配信してるから」
お互いの体の秘密を共有しながら、二人は笑った。
でも、笑顔の下には不安もあった。
24時間後、本当に元に戻れるのか。
記憶の黒塗りは起きないのか。
そして、Dr.バグの言った「保管」の意味は——
「大丈夫」律(カノンの体)が言った。「必ず、元に戻ろう」
「うん」
二人は、それぞれの「新しい人生」へと歩き始めた。
カウントダウンは、すでに始まっている——