#005 Dr.バグという都市伝説
水曜日の夜。明日はいよいよボディ・パーティの日だ。
カノンは自室で、ダークウェブの奥深くに潜っていた。Dr.バグについて、もっと知りたかった。自分たちを脅迫してきた人物が、一体何者なのか。
違法プロトコルの証拠を握られている今、もう後戻りはできない。だったら、せめて相手のことを知っておきたい。
『BUG.CHURCH - 記憶の解放戦線』
律に教えてもらったURLを入力すると、不気味なサイトが現れた。黒い背景に、歪んだ脳のイメージ。そして、挑発的なメッセージ。
『我々は記憶の奴隷だ。過去に縛られ、未来を恐れる。だが、もし記憶を自由に交換できたら?』
カノンは息を呑んだ。このメッセージには、奇妙な説得力があった。
フォーラムを覗くと、衝撃的な書き込みが並んでいた。
『第2回参加者です。48時間交換しました。人生観が変わった』
『警告:必ず時間は守ること。私の友人は99時間を超えて……』
『Dr.バグは救世主だ。固定化された自己という幻想から解放してくれる』
その中に、興味深いスレッドを見つけた。
『Dr.バグの正体について』
クリックすると、さまざまな憶測が飛び交っていた。
『元政府の研究者らしい』
『いや、大手IT企業の天才プログラマーだ』
『複数人いるという噂も』
『10年前の事件と関係があるらしい』
10年前の事件——それは、律の父が関わっていた第一次記憶汚染事件のことだろうか。
[PING!]
律からのメッセージだった。
『まだ起きてる? 僕も同じサイト見てる』
『うん。脅迫されたくせに、なんか引き込まれる』
『違法プロトコルのこと、まだ信じられない』
『でも、もう使っちゃったし……』
『電話していい?』
カノンは頷いて、通話を開始した。
「こんな時間にごめん」律の声が聞こえる。「でも、一人で見てると不安になって」
「あたしも」カノンは正直に言った。「Dr.バグって、本当は何がしたいんだろう」
「さっき、興味深い記事を見つけた」律の声が真剣になった。「送るね」
画面に新しいウィンドウが開く。そこには、古い新聞記事のスキャンデータがあった。
『2033年5月21日 - 記憶実験で5名が人格崩壊 / 主任研究者も行方不明に』
「これ……」
「10年前の事件の詳細だ。主任研究者の名前は伏せられてるけど、年齢は26歳の天才科学者とある」
カノンは計算した。今は2043年。もしその研究者が生きていれば、36歳。
「Dr.バグと同一人物?」
「可能性はある」律が答えた。「父から聞いた話だと、その研究者は『完全記憶共有による理想社会』を提唱していたらしい」
完全記憶共有による理想社会。
その言葉が、カノンの中で妙な響きを持った。もし、みんなが記憶を共有できたら、本当の理解が生まれるかもしれない。
「でも」律が続けた。「実験は失敗し、被験者は人格が分裂した。研究者自身も、自分の記憶の一部を失ったという」
「それなのに、まだ続けてるの?」
「狂気だよね」律の声に苦い響きが混じる。「失敗を認めず、地下に潜って実験を続けてる」
カノンはふと思った。狂気と情熱の境界線はどこにあるのだろう。
「でも、参加者は満足してる人が多いよね」
「それが怖いんだ」律が言った。「みんな、また参加したいって言ってる。まるで中毒みたいに」
画面をスクロールしていると、新しい投稿を見つけた。
『明日の第3回、特別ゲストが来るらしい』
『A-137とR-404? 何それ』
『Dr.バグが特別扱いしてる被験者らしい』
カノンの背筋が凍った。
「律、これ見て」
「A-137とR-404……まさか、僕たち?」
どうして自分たちのことを知っているのか。そもそも、この記号は何を意味するのか。
「もしかして」カノンは震え声で言った。「もう監視されてる?」
「分からない。でも、警戒した方がいい」
二人はしばらく無言でサイトを見続けた。
そして、最深部のページで、Dr.バグ本人のメッセージを見つけた。
『親愛なる探求者たちへ
君たちは、なぜここに来た?
好奇心? 退屈? それとも、本当の繋がりを求めて?
私は10年前、ある真理に到達した。
人間の孤独は、記憶の檻に閉じ込められているからだ。
他者を理解できないのは、その記憶にアクセスできないから。
自分を理解できないのは、自分の記憶に囚われているから。
だから私は、記憶の解放を提案する。
交換し、混ぜ合わせ、新しい自己を創造する。
それこそが、人類の次なる進化だ。
明日、特別な才能を持つ二人が参加する。
A-137とR-404。
彼らは、新しい時代の扉を開く鍵となるだろう。
では、仮想大聖堂で会おう。
—Dr.バグ』
「特別な才能……」カノンは呟いた。「あたしたちの何が特別なの?」
「昨日のグリッチ」律が推測した。「あの深い混線は、普通じゃなかったのかも」
確かに、二人の記憶は驚くほどスムーズに混ざり合った。まるで、最初から一つだったかのように。
「怖い?」律が聞いた。
「うん」カノンは正直に答えた。「でも、行きたい気持ちの方が強い」
「僕も同じだ」
電話の向こうで、律が深呼吸する音が聞こえた。
「カノン、約束して」
「なに?」
「何があっても、君は君のままでいて。記憶が混ざっても、人格が変わっても、カノンはカノンだから」
カノンの目に涙が滲んだ。
「律も、律のままでいて」
「うん、約束する」
通話を切った後、カノンはベッドに横になった。
明日の今頃、自分はどうなっているだろう。他人の記憶を持った自分は、まだ自分と呼べるのだろうか。
Dr.バグに脅されて、選択の余地はない。
でも、不思議と恐怖より期待の方が大きかった。
たとえ脅迫がきっかけでも、本当の繋がりを見つけたい気持ちは本物だから。
フォロワー20万人。でも、本当の理解者は一人もいなかった。
いいねの数。でも、心に響くものは何もなかった。
もし、たった一人でも、完全に理解し合える相手ができたら——
スマホの画面には、フォロワー数がまだ下がり続けていた。
[フォロワー数:185,421名(-15,426)]
でも、もう気にならなかった。
数字じゃない。本当の繋がりを、明日見つけるんだ。
窓の外を見ると、夜空に星が瞬いていた。
同じ星を、律も見ているだろうか。
明日の深夜0時。
運命の時間まで、あと26時間。
カノンは目を閉じた。夢の中で、誰かの記憶が流れ込んでくるような気がした。
それは恐怖の前触れか、それとも新しい世界への招待状か。
答えは、明日わかる。
『A-137、準備はいいかい?』
夢の中で、誰かが囁いた。
機械的で、でもどこか懐かしい声。それは、Dr.バグの声のようでもあり、別の誰かのようでもあった。
そして、カノンは知らなかった。
Dr.バグのサーバーには、すでに二人の詳細なプロファイルが作成されていることを。
昨日のグリッチデータから抽出された、二人の適合率は驚異の94.7%。
これほど高い数値は、10年前の実験以来だった。
歴史は繰り返す。
しかし今度は、違う結末を迎えるかもしれない——