#004 旧式LINKの誘惑
その夜、カノンは自室のベッドに座り、膝の上に置いた黒い箱を見つめていた。
律から預かった旧式LINK。Ver.0.9βという刻印が、テレビの光を反射して鈍く光っている。元LINK開発者だった律の父が、10年間も手放さなかったデバイス。
ぼんやりとテレビを点けたままにしていると、夜のニュースが始まった。
『LINK関連事故が増加傾向に。情報犯罪課は注意喚起を——』
その言葉に、カノンは顔を上げた。画面には、見覚えのある女性警部が映っていた。高柳美咲警部。この前も見た、鋭い眼差しの女性だ。
「とくに若い世代の皆さんは、安易に旧式デバイスに手を出さないでください。10年前の第一次記憶汚染事件を忘れてはいけません」
カノンは手の中の旧式LINKを見下ろした。まさに警部が警告しているデバイスそのものだ。
テレビの中で、高柳警部の声が一瞬震えた。
「あの事件では、私の妹も——」
慌てたようにカメラが切り替わり、キャスターが話を引き取る。
妹? カノンは画面を見つめた。警部の目に浮かんでいた痛み。あれは職務を超えた、個人的な恨みだ。
第一次記憶汚染事件。律の父が関わり、そして引退の原因となった事件。そこに高柳警部の妹もいたのか。
カノンは旧式LINKを机に置き、Dr.バグからのメッセージを印刷した紙を手に取った。ボディ・パーティの詳細が、不気味なほど丁寧に書かれている。
「これが、鍵……」
テレビはまだニュースを流し続けていたが、カノンの意識はすでに明日の夜へと向かっていた。
```
第3回ボディ・パーティ
日時:今週土曜日 深夜0時
場所:指定URLにアクセス後、仮想空間にて
参加条件:旧式LINK所持者のみ
内容:24時間の完全記憶交換体験
警告:自己責任でご参加ください
```
24時間の完全記憶交換。
その言葉が、カノンの中で不思議な魅力を放っていた。
```
[PING!]
```
通知音で我に返る。フォロワーからのメッセージだった。
『カノンちゃん、最近配信少なくない?』
『新しいコンテンツ待ってる!』
『配信実験の続きは?』
画面を見つめるカノンの表情が曇る。
昨日のグリッチ体験以来、普通の配信が物足りなく感じるようになっていた。表面的な「いいね」の交換が、ひどく空虚に思える。
律と共有した、あの深い繋がり。
お互いの本質に触れた瞬間。
それに比べたら、20万人のフォロワーなんて——
「何考えてるの、あたし」
カノンは頭を振った。フォロワーは大切だ。みんなが「カノン」を愛してくれている。その期待を裏切るわけにはいかない。
でも——
旧式LINKに手を伸ばす。ひんやりとした金属の感触が、なぜか心地良い。
もう一度、あの感覚を味わいたい。
もっと深く、もっと完全に、誰かと繋がりたい。
```
[PING!]
```
今度は律からのメッセージだった。
『大丈夫? 今日のこと、まだ考えてる?』
カノンは微笑んだ。心配してくれている。
『うん、考えてる。律はどう思う?』
すぐに返信が来た。
『正直、怖い。でも、同時に惹かれてる。君と一緒なら、新しい世界が見れるかもしれない』
カノンの胸が高鳴った。律も同じ気持ちなんだ。
『明日、もう一度話そう。直接会って』
『うん。放課後、いつもの場所で』
いつもの場所——音楽室。
二人だけの秘密の場所。
カノンはベッドに横になり、天井を見つめた。
このまま進んでいいのだろうか。
Dr.バグという謎の人物を信じていいのだろうか。
ボディ・パーティに参加したら、何が起きるのだろうか。
不安はある。でも、それ以上に——
新しい体験への期待が、カノンの中で大きくなっていく。
翌日の昼休み。
カノンは一人で屋上にいた。最近、クラスメイトとの距離を感じることが多くなった。みんな優しいけど、表面的な関係に思えてしまう。
「ここにいたのか」
振り返ると、律が立っていた。
「どうして分かったの?」
「なんとなく」律は隣に座った。「君が一人になりたい時は、いつもここに来るから」
カノンは驚いた。そんなに自分のことを見ていてくれたんだ。
「昨日の続き、話そうか」律が切り出した。「ボディ・パーティのこと」
「うん」
律は持ってきたタブレットを開いた。画面には、大量の情報が表示されている。
「調べてみたんだ。Dr.バグについて」
「何か分かった?」
「断片的だけど」律は画面をスクロールしながら説明した。「どうやら、記憶改竄技術の専門家らしい。地下フォーラムでは有名人だ」
記憶改竄。その言葉に、カノンは背筋が寒くなった。
「でも、参加者のレビューを見る限り、今のところ大きな事故は報告されていない」
「レビュー?」
律が見せてくれた画面には、匿名の体験談が並んでいた。
『最高の体験だった。24時間、完全に他人になれた』
『パートナーの記憶を通して、新しい自分を発見した』
『もう普通の生活には戻れない。また参加したい』
でも、中には不穏な書き込みも。
『終わった後、1時間分の記憶が黒塗りになってた』
『自分が自分じゃない感覚が残ってる』
『警告:99時間を超えると危険』
「99時間……」
カノンはその数字に引っかかりを感じた。なぜか、とても重要な数字のような気がする。
「やっぱり危険だ」律が画面を閉じた。「参加は——」
「でも」カノンは律の言葉を遮った。「みんな、また参加したいって言ってる」
「それは……」
「あたしもわかる気がする」カノンは空を見上げた。「昨日のグリッチ、怖かったけど、同時にすごく気持ち良かった」
律は何も言わなかった。でも、その沈黙が肯定を意味していることを、カノンは知っていた。
「ねえ、律」
「なに?」
「もし、あたしたちが記憶を交換したら、どうなると思う?」
律は少し考えてから答えた。
「多分、今まで以上に理解し合えるようになる。でも同時に、個人の境界が曖昧になるかもしれない」
「それって、悪いこと?」
「分からない」律は正直に言った。「でも、君となら、試してみたい気持ちはある」
カノンの心臓が跳ねた。
律も、同じことを考えていた。
二人の間に、甘い緊張が流れる。
その時——
「あ、ここにいた!」
突然の声に二人は飛び上がった。カノンのクラスメイトが、息を切らしながら屋上に上がってきた。
「カノンちゃん、大変! SNSで話題になってるよ!」
「え?」
差し出されたスマホを見て、カノンは凍りついた。
『人気LINK-FLUENCERのC.Aさん、危険な旧式デバイスを使用か』
匿名の告発記事。でも、添付された写真は明らかに昨日の音楽室。窓の外から撮影されたらしい、カノンと律の姿が写っている。
「これ……」
「もうバズっちゃってて、みんな心配してる」
カノンは震える手でスマホを確認した。
```
[通知:999+]
[メンション:2,847件]
[#旧式LINK危険 トレンド入り]
```
コメント欄は大荒れだった。
『カノンちゃん、危ないよ!』
『旧式LINKは違法じゃないの?』
『失望しました。フォロー外します』
『でも面白そう。配信して!』
「どうしよう……」
カノンは頭を抱えた。まさか、こんなに早くバレるなんて。
「いったん教室に戻ろう」律が冷静に言った。「ここにいても仕方ない」
三人で階段を降りていく途中、カノンのスマホに新着メッセージが届いた。
Dr.バグからだった。
『大変そうだね。でも、これも運命かもしれない。
ところで、昨日君たちが使用したプロトコル、実は私の特製なんだ。政府非認証の改造コードでね。もう君たちのデバイスにはその痕跡が残ってる。
今更怖くなった? でも、もう遅いよ。使用ログはすべて記録済み。これ、バレたら大変だよね。学校退学どころじゃ済まないかも。
でも安心して。私は君たちの味方だ。ボディ・パーティに参加すれば、すべての証拠は消してあげる。
世間の目を気にして逃げる? それとも、もう後戻りできないから新しい世界に飛び込む?
選択は君次第だけど……まあ、選択肢は限られてるよね』
そして、追加のメッセージ。
『ちなみに、写真を撮ったのは私じゃない。でも、君たちの違法プロトコル使用の証拠は、私だけが持ってる。A-137、そしてR-404。特別な才能には、特別な扱いが必要だからね』
カノンは震える手でメッセージを見つめた。脅迫だ。完全な脅迫。
でも、同時に気づいてしまった。
——怖いのに、どこかホッとしている自分がいる。
選択の責任を、Dr.バグに押し付けられる。「脅されたから仕方なく」という言い訳ができる。
本当は、自分から飛び込みたかったのかもしれない。
教室に戻ると、案の定、クラス中がざわついていた。みんなの視線が突き刺さる。
「カノン、大丈夫?」
心配そうに駆け寄ってくる友人たち。でも、その目の奥には好奇心も見える。
「うん、大丈夫……」
でも、全然大丈夫じゃなかった。
これまで築いてきた「完璧なカノン」のイメージが崩れていく。フォロワーも減り始めている。
```
[フォロワー数:198,234名(-3,613)]
```
数字が減っていく。でも——
「どうせ失うなら、全部失ってもいい」
小さくつぶやいた言葉を、律だけが聞き取った。
Dr.バグの脅迫は腹立たしい。でも、これで踏ん切りがついた。どうせ退路は断たれた。だったら、最後まで行ってみよう。
本当の繋がりがそこにあるかもしれない。
それとも、すべてを失うだけかもしれない。
でも、このまま偽物の人生を続けるよりは——
放課後、二人は音楽室に集まった。
「ごめん」律が謝った。「僕が旧式LINKなんて持ち出したから」
「ううん、違う」カノンは首を振った。「これは、あたしが選んだこと」
窓の外を見る。もう盗撮を恐れる必要もない。どうせ、みんなに知られてしまった。
「ねえ、律」
「うん?」
「さっきのコメント、見た?」
律は頷いた。心配そうな顔で。
「『失望しました』『フォロー外します』……」カノンは自嘲的に笑った。「でも、気づいたの。この人たち、本当のあたしなんて最初から見てなかった」
「カノン……」
「20万人もフォロワーがいるのに、誰一人、あたしの本当の気持ちなんて知らない。みんなが好きなのは『完璧なカノン』っていうキャラクター」
カノンは振り返った。その瞳には、悲しみと同時に解放感が宿っていた。
「炎上して分かった。これは、むしろチャンスなのかも」
「チャンス?」
「うん。偽物の繋がりを全部失って、本物を見つけるチャンス」
カノンは深呼吸をした。
「だからこそ、ボディ・パーティに参加したい。もう失うものはない。数字も、作り上げたイメージも、どうでもよくなった」
「本気? こんな状況で?」
「今だからこそ」カノンの声には、今までにない強さがあった。「フォロワーが減って、やっと自由になれた気がする。あたしが本当に欲しいのは、20万の『いいね』じゃない。たった一人でいい、本当に理解し合える人」
カノンは律をまっすぐ見つめた。
「それを、律と一緒に見つけたい」
長い沈黙の後、律は頷いた。
「分かった。一緒に行こう」
二人は旧式LINKを見つめた。
この小さなデバイスが、二人の運命を大きく変えることになる。
良い方向か、悪い方向か——
それは、まだ誰にも分からない。