#003 グリッチ―はじめての混線
翌日の放課後、カノンは音楽室の前で深呼吸をしていた。
昨夜のDr.バグからのメッセージが、まだ頭から離れない。A-137という謎の呼称も、胸の奥で不安の種として芽を出し始めている。
でも、それ以上に——
律ともっと深く繋がりたいという欲求が、カノンの中で大きくなっていた。
「遅くなってごめん」
後ろから声をかけられて振り返ると、律が小走りでやってきた。珍しく息を切らしている。
「どうしたの? そんなに急いで」
「父の部屋で、これを見つけて」
律が差し出したのは、小さな黒い箱だった。現行のLINKデバイスより少し大きく、重い。
「これって……」
「旧式LINK。Ver.0.9β」律の声が緊張で震えている。「10年前のモデルだ。まだ安全基準が確立される前の」
「お父さんの?」
「うん。父は元LINK開発者だったんだ」律は苦い表情を見せた。「初期の開発チームにいて、第一次記憶汚染事件の後に引退した。あの事件がトラウマになって、今は一切技術に関わろうとしない」
カノンは箱を受け取った。元開発者が手放さなかったデバイス。それだけ特別な、あるいは危険なものなのかもしれない。
「お父さんに無断で持ち出して大丈夫?」
「多分、気づかない。書斎の奥にしまい込まれてたから」律は少し後ろめたそうに言った。「でも、カノンが深い接続を望むなら、これしか方法がなくて」
カノンは箱を受け取った。ひんやりとした金属の感触が、なぜか心地よい。
二人は音楽室に入り、いつもの場所に座った。夕日はまだ高く、部屋は明るい光で満たされている。
「本当にやるの?」律が確認するように聞いた。「昨日の今日で、急すぎないか?」
「でも」カノンは旧式LINKを見つめながら言った。「なんか、呼ばれてる気がするの。もっと深いところへ」
律は複雑な表情を見せた。そして、小さく頷く。
「分かった。でも、約束して。少しでも危険を感じたら、すぐに中止する」
「うん、約束する」
カノンは現行のLINKを外し、旧式デバイスを装着した。少し重いが、不思議とフィットする。まるで、最初からカノンのために作られたみたいに。
```
[端末:旧式LINK-Node Ver.0.9β 認識]
[警告:非推奨デバイス]
[安全保証なし - 自己責任で使用してください]
```
「設定は僕がやる」
律が慣れた手つきで操作を始める。その横顔を見ながら、カノンは昨日のことを思い出していた。
心にしみわたる音楽。
5年越しの想い。
そして、はじめて数字より大切だと思えた時間。
「準備できた」律が顔を上げた。「最初はレベル2で様子を見よう」
「ううん」カノンは首を振った。「レベル3で」
「カノン——」
「信じて。律となら、大丈夫な気がする」
律は一瞬躊躇したが、カノンの真剣な眼差しに負けたように息をついた。
「分かった。でも、本当に気をつけて」
```
[配信モード:レベル3]
[パートナー:朝凪律]
[警告:深層記憶アクセス可能]
[状態:INITIATING]
[送信:1,100 Pbps]
```
接続開始。
最初の数秒は、昨日と同じだった。温かい感覚が頭の奥に広がり、律の穏やかな感情が流れ込んでくる。
でも、15秒を過ぎたあたりで——
「あっ——」
突然、世界が歪んだ。
視界が二重になる。自分の手と、律の手が重なって見える。どっちが自分の手か分からない。
そして——
記憶が雪崩のように流れ込んできた。
『カノンちゃん、一緒に遊ぼう!』
小さな女の子たちに囲まれる、7歳のカノン。でも、これは律の視点から見た記憶。少し離れた場所から、寂しそうに見ている。
『ごめんね、りっくん。今日はみんなと遊ぶから』
カノンの声。申し訳なさそうだけど、でも人気者でいることを選んだ声。
胸が締め付けられる。これは律の感情? それとも、今のカノンの後悔?
もう区別がつかない。
場面が変わる。
中学の音楽室。律がピアノを弾いている。そこに入ってくるカノン。
『すごい……これ、君が作ったの?』
でも、今度は違う。律の内面まで感じ取れる。
——可愛い。カノンが僕の音楽を聴いてくれてる。嬉しい。でも、恥ずかしい。顔が熱い。心臓がうるさい。
『心にしみわたる感じ』
その言葉を聞いた瞬間の、律の感情の爆発。喜び、驚き、そして——
——この子のために、一生音楽を作り続けよう。
その純粋な決意に、カノンは涙が溢れそうになった。
でも、グリッチはさらに加速する。
```
[警告:急激な通信量増加 - 1,300 Pbps]
```
時間の流れがおかしくなる。過去と現在が混ざり合う。
カノンの記憶も、律に流れているのがわかる。
——フォロワー数が増えるたびに感じる空虚感。
——笑顔の下に隠した孤独。
——そして、律への密かな想い。
『本当は、りっくんともっと一緒にいたかった』
それは、7歳のカノンの本音。みんなに囲まれながら、本当に一緒にいたかったのは——
「カノン!」
律の声で現実に引き戻される。でも、まだ境界は曖昧だ。
目を開けると、律の顔が間近にあった。彼も涙を流している。
「見ちゃった……」カノンは震え声で言った。「律くんの気持ち、全部……」
「僕も」律も声を震わせている。「君がどれだけ孤独だったか、分かった」
二人の間に、言葉にできない感情が渦巻く。
恥ずかしさ、申し訳なさ、でも同時に——
深い理解と、繋がりの実感。
「なんか」カノンは泣き笑いの表情で言った。「すごくリアルだった。いつもの『いいね』の何万倍も」
律も苦笑した。「うん。これは……ちょっと深すぎたかも」
でも、二人とも接続を切ろうとしない。
この繋がりが、心地良すぎて。
```
[PING!]
```
突然の通知音で、魔法が解けた。
カノンが慌ててスマホを見ると、また『Dr.バグ』からのメッセージ。
『素晴らしい。グリッチ体験はどうだった? もっと深い世界を見たくなったら、連絡して』
添付されていたのは、一枚の画像。
『第3回ボディ・パーティ開催のお知らせ』
「ボディ・パーティ?」
律が覗き込む。その顔が青ざめた。
「これ、聞いたことがある。記憶を交換する違法な集まりだ」
「記憶を……交換?」
『今週末開催。旧式LINK所持者のみ参加可能。君たちなら、特別な体験ができるはずだ —Dr.バグ』
カノンは画像を見つめた。
危険だということはわかる。でも——
さっき体験した、あの深い繋がり。
もし、もっと深く、もっと完全に繋がることができたら?
「カノン」律が真剣な声で言った。「これは危険すぎる。関わらない方がいい」
「分かってる。でも……」
カノンは律を見た。さっきのグリッチで見た、5年間の一途な想い。それに応えたい気持ちが、カノンの中で大きくなっていく。
「もし、あたしたちが本当に一つになれたら?」
「一つに?」
「記憶も、感情も、全部共有して。究極の理解と繋がり」
律の表情が揺れる。危険だと分かっていながら、惹かれている。
夕日が音楽室を赤く染め始めた。
二人の間に流れる沈黙は、もはや気まずいものではない。グリッチを経験した今、言葉がなくても通じ合える部分がある。
「一緒に行く?」
カノンの問いかけに、律は長い間黙っていた。
そして——
「君を一人で行かせるわけにはいかない」
それは、YESという意味だった。
カノンは微笑んだ。不安もある。でも、律と一緒なら——
```
[記憶ログを保存中]
[グリッチデータを解析中]
[警告:異常な混線パターンを検出]
```
二人は気づかなかった。
旧式LINKが、二人の記憶の一部をすでに「記録」していることに。
そして、その記録が、どこかに送信されていることに。
```
送信先:Dr.バグ
件名:『優良被験者発見 - A-137およびR-404』
```
スマホの画面に、新たなメッセージが表示された。
『素晴らしいデータをありがとう。君たちの愛情の純度は、過去最高レベルだ』
『ところで、カノン。君のフォロワーの中に、君の体験を「購入」したがっている者がすでに127名いる』
『一番の高額入札者は、君のことを3年前から見ていた56歳の実業家だ。彼は言っている——』
『「17歳の感覚を、もう一度味わいたい」と』
カノンの顔から血の気が引いた。
「何これ……」
『安心して。まだ何も始まっていない。でも、土曜日の実験に参加すれば……』
『君の若さ、純粋さ、すべてが「商品」として完成する』
『楽しみにしているよ、A-137』
メッセージが消えた後も、カノンは震えが止まらなかった。
律が彼女を抱きしめる。
「大丈夫。絶対に、そんなことはさせない」
でも、二人は知らなかった。
すでに、カノンの記憶データの一部が、闇市場でサンプルとして出回り始めていることを。
そして、入札希望者が刻一刻と増えていることを。
運命の歯車は、もう止まらない——