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#002 心にしみわたる音楽

 昼休みのチャイムが鳴り響いた。


 カノンは机の上の教科書を片付けながら、さりげなく教室の隅を見た。朝凪律は相変わらず一人で席に座っている。イヤホンもつけていないのに、なぜか周囲の騒音から隔離されているように見える。


「カノンちゃん、学食行こ〜」


 クラスメイトの声で我に返る。いつものグループだ。みんな笑顔で、みんな優しい。でも、なぜか距離を感じる。


「ごめん、今日はちょっと用事があって」


 カノンは申し訳なさそうに手を合わせた。


「え〜、また? 最近カノンちゃん、付き合い悪くない?」


「ごめんね〜。放課後の配信実験の準備しなきゃいけなくて」


 半分本当で、半分嘘。確かに準備は必要だけど、それは昼休みにやることじゃない。


 友達たちが去っていくのを見送ってから、カノンは深呼吸した。そして、意を決して律の席に近づく。


「あの……律くん?」


 律が顔を上げた。一瞬驚いたような表情を見せてから、いつもの静かな顔に戻る。


「綾瀬さん。何か?」


 綾瀬さん、か。カノンは少し寂しく思った。小学校の頃は「カノンちゃん」って呼んでくれてたのに。


「えっと、今日の放課後なんだけど……配信機能のテスト、手伝ってくれない?」


 律の表情が少し曇った。


「配信機能って、感情共有の?」


「そう! 新しく実装されたやつ。でもね、技術的なことがよくわからなくて……」


 カノンは困ったような笑顔を作る。本当はマニュアルを読み込んでいるけど、素直に頼む方が断られにくい。


「危険かもしれないよ」律が静かに言った。「まだ安全性が完全に確認されていない機能だから」


「大丈夫だよ〜。企業が提供してる機能でしょ? それに……」


 カノンは少し声を落とした。


「律くんとなら、安心できるから」


 律の頬がかすかに赤くなった。視線を逸らしながら、小さく頷く。


「……分かった。でも、何か異常を感じたらすぐに中止する。それが条件」


「やった! ありがとう!」


 カノンは思わず手を叩いた。周囲の生徒たちが振り返る。人気者のカノンが、地味な律と話している。それだけで話題になる。


 ```

 [PING!] [PING!] [PING!]

 ```


 すぐにLINKメッセージが飛んでくる。


『カノンちゃん、朝凪くんと何話してたの?』

『まさか告白!?』

『配信のネタ?』


 カノンは苦笑しながら、適当に返信する。違う、そうじゃない。ただ、律となら——


「あの、綾瀬さん」


 律の声で振り返る。


「放課後、音楽室でいい? あそこなら静かだし、電波干渉も少ないから」


 音楽室。カノンの記憶の奥で、何かがちくりと痛んだ。


「うん、いいよ。じゃあ、放課後に」


 律が席に戻っていくのを見送りながら、カノンは胸に手を当てた。なんだろう、この感覚。懐かしいような、切ないような。


 午後の授業中も、カノンは集中できなかった。ノートを取るふりをしながら、頭の中は放課後のことでいっぱいだ。


 配信機能、本当に大丈夫かな。

 律と感情を共有したら、どんな感じだろう。

 もし、本当の気持ちがバレたら——


 本当の気持ち?


 カノンは自分の考えに驚いた。律に対する「本当の気持ち」なんて、あるの?


 でも、朝のバスで目が合った時の、あの感覚。

 名前を呼ばれた時の、胸の高鳴り。


 これって——


 ```

 [PING!]

 ```


『放課後の実験、楽しみにしてる!』


 フォロワーからのメッセージ。そうだ、実験の様子も配信する予定だった。でも、なぜか今日は、配信したくない気分だった。


 律との時間を、不特定多数に見られたくない。


 でも、それじゃフォロワーが離れちゃう。数字が下がる。あたしの価値が——


「はぁ……」


 小さなため息が漏れた。いつからこんなに数字に縛られるようになったんだろう。


 放課後のチャイムが鳴った。


 カノンは急いで荷物をまとめる。音楽室に向かう途中、何人もの生徒に声をかけられたが、笑顔で手を振りながら通り過ぎた。


 音楽室の前に立つと、中からかすかに音が聞こえてきた。


 ピアノ?


 そっとドアを開けると、律がグランドピアノの前に座っていた。目を閉じて、静かに鍵盤を撫でている。音は出していない。でも、カノンには分かった。彼は頭の中で音楽を奏でている。


「……律くん?」


 声をかけると、律は目を開けた。


「ああ、綾瀬さん。早かったね」


「カノンでいいよ」


 思わず言ってしまってから、カノンは恥ずかしくなった。でも、律は小さく微笑んだ。


「じゃあ、カノン。準備はできてる?」


 カノンは頷いて、律の隣に座った。二人の距離は、手を伸ばせば触れるくらい。近すぎて、心臓がうるさい。


「まず、LINKの設定を確認しよう」


 律が自分のスマホを取り出す。手際よく設定画面を操作する姿は、いつもの授業中の様子とは違って見えた。


「配信機能は、通常のチャットより深いレベルで接続する。だから、お互いの感情が混じり合う可能性がある」


「混じり合う?」


「うん。境界が曖昧になるというか……」律は言葉を選ぶように続けた。「一時的に、相手の感情を自分のもののように感じることがある」


 カノンは息を呑んだ。律の感情を、自分のものとして感じる?


「でも、それって……」


「危険だよ」律は真剣な表情で言った。「だから、レベル1から始める。これなら、軽い感情の共有だけで済むはず」


 カノンは頷いた。でも、心のどこかで思っていた。もっと深く繋がりたいと。


「じゃあ、始めようか」


 二人はLINKを起動し、配信接続を開始した。


 ```

 [配信モード:レベル1]

 [パートナー:朝凪律]

 [状態:CONNECTING……]

 [送信: 450 Pbps]

 ```


 最初は、何も感じなかった。でも、徐々に——


「あ……」


 カノンは小さく声を漏らした。頭の奥が、じんわりと温かくなる。まるで、温かいお茶を飲んだ時のような。


 そして、感じた。


 静けさ。穏やかさ。そして、音楽への深い愛情。


 これが、律の感情?


「カノン、大丈夫?」


 律の声が、いつもより近く感じる。


「うん……すごい……」


 カノンは目を閉じた。律の感情に包まれていると、とても落ち着く。フォロワーの数も、いいねの数も、どうでもよくなる。


 ただ、この静かな時間が心地いい。


「律くんって、いつもこんな感じなの?」


「どんな感じ?」


「すごく……静かで、でも温かい。音楽のことを考えてる時は、キラキラしてる」


 律が驚いたような感情を送ってきた。そして、少し恥ずかしそうな。


「僕の感情が、そんな風に見えるんだ」


「うん。なんていうか……」


 カノンは言葉を探した。そして、ふと口をついて出た言葉は——


「心にしみわたる感じ」


 瞬間、律の感情が大きく揺れた。驚き、懐かしさ、そして——


 ```

 [警告: 急激な通信量増加 - 890 Pbps]

 ```


「っ!」


 二人同時に目を開けた。一瞬、強い感情の波が押し寄せて、そして消えた。


「ごめん、今の——」


 律が謝ろうとするのを、カノンは首を振って止めた。


「ううん。今の感情、すごく懐かしかった」


「懐かしい?」


「うん。なんでだろう。前にも同じこと言ったことがあるような……」


 律の表情が複雑に変化した。何か言いかけて、でも結局口を閉じる。


「もう1回やってみる?」カノンが提案した。「今度は、もう少し深いレベルで」


「でも——」


「お願い。なんか、大切なことを思い出せそうな気がするの」


 律は躊躇した。でも、カノンの真剣な眼差しに、結局頷いた。


「分かった。でも、レベル2までだよ」


 ```

 [配信モード:レベル 2]

 [警告:深層接続モード]

 [送信:950 Pbps]

 ```


 今度は、最初から違った。


 感情だけじゃない。記憶の断片が、かすかに流れ込んでくる。


 音楽室。放課後。ピアノの音。

 そして——


「すごい……これ、君が作ったの?」


 自分の声? でも、もっと幼い。


「あ、えっと……これは大したものじゃ——」


 律の声。やっぱり幼い。


「ううん、すごくいい。なんていうか……心にしみわたる感じ」


 記憶の中の自分は、キラキラした目で律を見ていた。はじめて、本物の音楽に出会った瞬間。


「もっと聴かせて? あなたの音楽」


 そこで記憶は途切れた。


 ```

 [切断]

 ```


 カノンは、いつの間にか涙を流していた。


「思い出した……」


「カノン?」


「中学の時だ。律くんの音楽をはじめて聴いた時。あたし、感動して……」


 カノンは律を見た。彼も潤んだ目をしている。


「覚えててくれたんだ」


「ごめん、今まで忘れてて。でも、今はっきり思い出した。あの時から、律くんの音楽が大好きだった」


 律は何も言わなかった。ただ、震える手でピアノの鍵盤に触れた。


 そして、音を紡ぎ始める。


 あの日と同じ曲。でも、もっと深く、もっと豊かに。5年分の想いが込められた音楽。


 カノンは目を閉じて、その音に身を委ねた。


 最初の音が響いた瞬間、全身に鳥肌が立った。


 これだ。


 この感覚だ。


 音が体の中に入ってきて、血管を通って、心臓に届いて、そして——


「心に……しみわたる」


 カノンは無意識に呟いていた。5年前と同じ言葉。でも今度は、その意味を本当に理解していた。


 律の音楽は、ただ美しいだけじゃない。聴く人の心の一番柔らかい部分に触れて、そっと包み込んでくれる。まるで、冷えた体に温かいお茶が染み込んでいくように、ゆっくりと、でも確実に、心を満たしていく。


 これが、律の本当の気持ち。

 5年間、ずっと大切にしてくれていた想い。

 音符の一つ一つに込められた、言葉にできない感情。


 曲が終わっても、カノンは目を開けなかった。余韻が体中を巡っている。心臓の鼓動が、まだ律の音楽とシンクロしている。


「カノン?」


 心配そうな律の声で、ようやく目を開けた。


 頬が濡れていることに気づく。


「ごめん、あたし……」


「いや、僕の方こそ」律も目を潤ませていた。「君がまた同じ言葉を言ってくれるなんて、思ってなかった」


「同じ言葉?」


「『心にしみわたる』」律は少し照れくさそうに笑った。「5年前、君がはじめて僕の音楽を聴いた時に言ってくれた言葉。それから僕は、ずっとその言葉を目指して曲を作ってきた」


 カノンは息を呑んだ。


「じゃあ、律くんの音楽は全部……」


「君に聴いてもらいたくて作った。『心にしみわたる』って、また言ってもらえる日を夢見て」


 二人の間に静かな時間が流れた。


 夕日が差し込む音楽室で、カノンは改めて思った。


 心にしみわたる——それは、ただの褒め言葉じゃない。


 それは、二人を繋ぐ魔法の言葉。

 5年の時を超えて、また巡り会えた約束の言葉。

 そして、これからも二人の間で生き続ける、特別な言葉。


「ねえ、律くん」


「うん?」


「今日の実験、配信しなくてもいい?」


 律は驚いた顔をした。


「でも、フォロワーが——」


「いいの」カノンは微笑んだ。「これは、あたしたちだけの時間にしたい」


 はじめて、数字よりも大切なものを見つけた気がした。


「それに……」カノンは続けた。「もっと練習して、もっと上手に配信できるようになったら、その時はすごいもの見せてあげる」


「すごいもの?」


「うん。二人で作る、新しい表現」


 律も微笑んだ。そして、小さく頷く。


「楽しみにしてる」


 夕日が音楽室を橙色に染めていく。


 二人は並んで座ったまま、静かな時間を共有していた。LINKで繋がらなくても、心はすでに通じ合っている。


 窓の外を飛ぶ鳥を見ながら、カノンはふと思った。この瞬間を、ずっと覚えていたい。フォロワー数でも、いいねの数でもない。ただ、律と過ごすこの時間を。


「ねえ」カノンが口を開いた。「配信機能って、もっと深いレベルもあるんでしょ?」


「レベル3以上は推奨されていない」律が慎重に答える。「完全な記憶共有になる可能性があるから」


「完全な記憶共有……」


 カノンは、その言葉の持つ意味を考えた。もし、お互いのすべてを知ることができたら。それは素晴らしいことか、それとも——


「また明日も、一緒に練習してくれる?」


「もちろん」


 二人の約束が、夕暮れの音楽室に優しく響いた。


 帰り支度をしながら、カノンはスマホを確認した。


 ```

 [未読メッセージ:342件]

 [配信実験はどうなった? ]

 [配信待ってたのに! ]

 [カノンちゃん、最近変じゃない? ]

 ```


 画面を見つめるカノンの表情が少し曇る。


「どうかした?」律が心配そうに覗き込む。


「ううん、なんでもない」


 カノンはスマホをしまった。でも、頭の隅で小さな声が囁く。


 ——このままでいいの?


「ねえ、律くん」カノンは振り返った。「明日、もしかしたら……もう少し深いレベルも試してみたいかも」


 律の表情が引き締まった。


「レベル3は本当に危険だよ。記憶が混ざる可能性がある」


「でも」カノンは自分でも驚くほど真剣な声で言った。「もっと知りたいの。律くんのこと。あたしのこと。本当の繋がりって何なのか」


 二人の間に緊張が走る。


 その時、廊下から足音が聞こえてきた。


「おい、まだいたのか」


 音楽教師が顔を出す。「もう7時だぞ。下校時間はとっくに過ぎてる」


「すみません、今帰ります」


 二人は慌てて音楽室を出た。


 校門で別れる時、律が小さな声で言った。


「明日、もし本当にレベル3を試すなら……旧式のLINKが必要かもしれない」


「旧式?」


「現行版には安全装置があるから。でも——」律は言いかけて口を閉じた。


「でも?」


「いや、なんでもない。また明日」


 律は踵を返して歩き始めた。でも、数歩進んでから振り返る。


「カノン」


「なに?」


「今日は……ありがとう。『心にしみわたる』って、また言ってくれて」


 そして、夜の闇に消えていった。


 一人残されたカノンは、複雑な気持ちで立ち尽くしていた。


 旧式LINK。

 それは、より深い接続を可能にする危険なデバイス。


 でも、なぜか惹かれる。

 もっと深く、もっと近く、律と繋がりたい。


 フォロワーの期待も、数字も、全部忘れて——


 ```

 [PING!]

 ```


 新着メッセージ。差出人は……見たことのない名前。


『Dr.バグ』


『君たちの実験、見させてもらった。なかなか興味深い。もし、もっと深い体験を求めるなら、力になれるかもしれない』


 カノンの背筋が凍った。


 誰? どうして今日の実験を知ってるの?


 震える指で、メッセージを削除しようとする。でも——


『詳細は追って連絡する。楽しみにしていてくれ、A-137』


 A-137?


 意味不明な記号。でも、なぜか胸騒ぎがする。


 カノンは急いで家路についた。


 明日、律に相談しよう。

 この不気味なメッセージのことも、旧式LINKのことも。


 でも、心のどこかで分かっていた。


 もう、後戻りはできない。


 扉は、開かれてしまった——


今回は29話で完結予定の短めを予定しています。素人には29話でも難しいw

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