#025 記憶復元の決断
三日後。港南ニューシティ中央病院の特別病棟。
律は白衣を着た医師たちと、大型モニターの前に立っていた。画面には、カノンの脳波データが複雑なグラフとなって表示されている。
「記憶の断片化は予想以上に深刻です」
神経内科の主任医師が説明する。
「通常の治療では、回復は極めて困難でしょう」
律は覚悟していた。Dr.バグが解放した記憶データは、確かにカノンのものだった。しかし、それらは千々に砕けたガラスの破片のように、バラバラになっている。
「でも、方法はあります」
律が前に出た。手には、改良された『愛のプロトコル』のデータが入ったデバイスがある。
「私の記憶を核にして、彼女の断片を結び付ける。理論的には可能なはずです」
医師たちが顔を見合わせた。
「しかし、それは——」
「分かっています」律は遮った。「私の記憶も永久に変質する。でも、それでいいんです」
*
病室でカノンは窓の外を眺めていた。
記憶は相変わらず断片的だ。時々、何かを思い出しそうになるが、霧の向こうに消えてしまう。
「カノン」
律が入ってきた。その表情を見て、カノンは何かを察した。
「決めたんだね」
「うん。君の記憶を取り戻す方法がある」
律は椅子に座り、カノンの手を取った。
「でも、リスクもある。僕の記憶と君の記憶が、不可逆的に混ざり合うことになる」
カノンは驚いた。
「それって、あなたが『あなた』じゃなくなるってこと?」
「そうじゃない」律は優しく微笑んだ。「僕は僕のまま。君も君のまま。ただ、境界が少し曖昧になる」
「でも——」
「いいんだ」律は力強く言った。「むしろ、それを望んでいる」
カノンの目に涙が浮かんだ。
「どうして、そこまで……」
「5年前、君が僕の音楽を『心にしみわたる』って言ってくれた時から、僕の人生は君と共にあった」
律は続けた。
「今度は、僕の記憶が君の心にしみわたる番だ」
*
準備室で、高柳警部が心配そうに見守っていた。
「本当に大丈夫なのか?」
「理論上は」律が機器を調整しながら答える。「Dr.バグのシステムを解析して分かったんです。記憶の完全な融合は不可能。でも、部分的な共有なら」
画面に表示されたシミュレーション結果。
[共有率予測: 40-50%]
[人格保持率: 85%以上]
[成功確率: 73%]
「73%か……」高柳が呟く。
「十分です」律は迷いなく言った。
その時、ドアが開いて数人の若者が入ってきた。皆、Dr.バグの被害者たちだった。
「俺たちも手伝います」
リーダー格の青年が前に出た。
「記憶が戻って分かったんです。大切な人との繋がりが、どれだけ貴重か」
他の若者たちも頷く。
「データ解析なら手伝える」
「プログラムのデバッグも」
「みんなで、二人を支えたい」
律は胸が熱くなった。Dr.バグが作った闇のネットワークの跡に、新しい繋がりが生まれている。
*
手術室。いや、正確には記憶処理室と呼ぶべきか。
カノンと律は、向かい合ってリクライニングチェアに座っていた。それぞれの頭には、最新型のLINKデバイスが装着されている。
「旧式じゃないんだね」カノンが緊張を紛らわすように言った。
「今回は正規の医療用デバイスです」律が答える。「安全性は格段に上がっています」
でも、やろうとしていることは前例がない。
医師がモニターを確認する。
「両者の脳波、安定しています。プロトコルはいつでも開始できます」
律はカノンを見つめた。
「最後に確認する。本当にいい?」
カノンは迷いなく頷いた。
「うん。だって、あなたとなら怖くないから」
二人は手を繋いだ。
「開始してください」
*
[MEMORY_RESTORATION_WITH_LOVE v2.0]
[INITIALIZING……]
最初は、優しい温もりから始まった。
律の意識に、カノンの存在が少しずつ流れ込んでくる。逆に、律の記憶もカノンへと流れていく。
——5歳、はじめて会った日。公園で泣いていたカノンに、律が絆創膏を差し出す。
「あ……」
カノンの中で、何かが繋がった。ぼやけていた男の子の顔が、はっきりと律の顔になる。
——7歳、秘密基地での約束。『大人になっても、ずっと一緒にいよう』
今度は律の記憶とカノンの記憶が重なる。同じ場面を、違う視点から体験する不思議な感覚。
——12歳、中学入学。人気者になったカノンと、それを遠くから見守る律。
カノンははじめて知った。律がずっと自分を見ていてくれたことを。そして、自分も無意識に律を頼りにしていたことを。
[共有率: 15%]
[安定]
*
記憶の流れは次第に激しくなっていった。
——高校時代。音楽室でのあの日。
『すごくいい。なんていうか……心にしみわたる感じ』
カノンは思い出した。あの時の自分の気持ちを。律の音楽に本当に感動していたこと。そして、それを素直に伝えられた喜び。
同時に律は知った。カノンがあの後、こっそり彼の演奏を聴きに来ていたことを。言葉にはしなかったけれど、ずっと応援していたことを。
[共有率: 30%]
[脳波同期率上昇]
「これは……」
観察していた医師が驚きの声を上げた。
「二人の脳波が完全に同期し始めています」
モニターには、まるで一つの脳のように重なり合う波形が表示されていた。
*
そして、最も深い記憶の層へ。
——グリッチ体験。はじめて心が混ざり合った瞬間。
——ボディスワップ。お互いの世界を知った24時間。
——そして、カノンが記憶を失った、あの恐怖の瞬間。
カノンは律の視点から、自分を必死で助けようとする姿を見た。
VOIDクラブへの潜入。Dr.バグとの対決。そして、愛の記憶を差し出す決断。
「律……こんなに……」
涙が止まらなかった。
自分のために、ここまでしてくれた人がいる。記憶を失っても、ずっと側にいてくれた人がいる。
[共有率: 45%]
[警告: 推奨値に接近]
「もうすぐ限界です」医師が告げた。
でも、二人は手を離さなかった。
もう少し。もう少しだけ。
*
最後に交換されたのは、未来の記憶だった。
正確には、お互いが思い描く未来のビジョン。
律は見た。カノンが夢見る未来を。
二人で音楽を作り、多くの人に届ける。記憶の大切さを伝える活動。そして、ずっと一緒にいること。
カノンも見た。律が願う未来を。
彼女の笑顔を守り続けること。新しい思い出を毎日作ること。そして、永遠に繋がっていること。
二つのビジョンが重なり、一つの未来になった。
[共有率: 47%]
[プロトコル完了]
二人は同時に目を開けた。
「カノン」
「律」
同じタイミングで、同じように微笑んだ。
もはや完全な他人ではない。でも、自分は自分のまま。
新しい形の、二人。




