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#024 愛という名のウイルス

 律の意識は、まだ仮想空間と現実の境界を彷徨っていた。


 大量の記憶を共有した直後、彼の視界は二重になっている。片方では崩壊し始めたDr.バグのシステムが見え、もう片方では医療テントの天井が揺れていた。


「待て、これは——」


 仮想空間で、Dr.バグが何かに気づいた。彼のアバターが激しく明滅する。


「ウイルスか! しかもこれは……」


 律は薄れゆく意識の中で、父の研究ノートを思い出していた。『愛のCRC改竄ウイルス』——記憶の整合性チェックを、感情データで狂わせるプログラム。


「CRCエラーが……連鎖している……」


 Dr.バグの声に、はじめて動揺が混じった。


 画面に次々とエラーメッセージが表示される。


 [ERROR:CRC_MISMATCH]

 [ERROR:EMOTIONAL_DATA_OVERFLOW]

 [ERROR:SYSTEM_INTEGRITY_COMPROMISED]

「なるほど、これが君の策か」


 しかし、Dr.バグの声に怒りはなかった。むしろ、感嘆さえ含まれている。


 *


「美しいプログラムだ」Dr.バグが呟いた。「感情を武器にするなんて」


 律は必死で意識を保ちながら答えた。


「武器じゃない。これは……愛だ」


 ウイルスは、律がカノンへ向けた5年間の想いを核にして、Dr.バグのシステム全体に浸透していく。それは破壊ではなく、むしろ——。


「温かい……」


 Dr.バグのアバターが変化し始めた。歪んだ道化師の姿から、少しずつ人間らしい形へ。


「忘れていた。この感覚を」


 画面に、榊原の過去の記憶が溢れ出す。まだ若く、理想に燃えていた頃。恋人と未来を語り合った日々。そして、実験に失敗してすべてを失った瞬間。


「私も、愛していた人がいた」


 榊原の本来の声が、少しずつ戻ってくる。


「でも、理想を追い求めるあまり、彼女を実験に巻き込んで……」


 律は理解した。10年前の実験で人格崩壊した5人の中に、榊原の恋人もいたのだ。


「だから、記憶の共有に固執したんですね」


「彼女を取り戻したかった。失った記憶を、絆を、すべて」


 *


 現実世界で、高柳が叫んだ。


「見ろ! 世界中のDr.バグのノードが反応している!」


 タブレットの画面には、地図上に無数の光点が表示されていた。Dr.バグの分身たちが活動する、闇のネットワーク。


 しかし、その光が一つ、また一つと変色していく。


 赤から、オレンジへ。オレンジから、黄色へ。そして——。


「白になった」高柳が息を呑む。「浄化されている?」


 仮想空間で、律はその理由を理解した。


「ウイルスが、すべてのDr.バグに伝播している」


 一つの感情——純粋な愛——が、分裂したすべての榊原に届いている。怒り、欲望、狂気に支配されていた人格たちが、人間らしい感情を思い出していく。


「これは……」


 Dr.バグが驚嘆した。「私のすべての分身が、一つに収束していく」


 画面に表示される統計データ。


 [PERSONALITY INTEGRATION]

 分裂人格: 127 → 64 → 32 → 16 → 8 → 4 → 2……

「律君」


 Dr.バグ——いや、榊原が語りかけた。


「君は、私を救ってくれたのか」


 *


 その時、カノンの声が現実世界から聞こえてきた。


「律! 律!」


 必死に彼の名前を呼んでいる。配信画面にも、その様子が映っている。


 榊原はその姿を見て、さらに人間らしい表情になった。


「彼女も君を愛している。記憶を失ってもなお」


「はい」律は微笑んだ。「それが、本当の絆だと思います」


 榊原は深く頷いた。そして、決意を固めた。


「分かった。すべてを元に戻そう」


 彼の指が、仮想空間のコンソールを操作する。


 [MEMORY LIBERATION PROTOCOL: ACTIVATED]

 [対象: 全被害者234名]

 [復元率: 計算中……]

「ただし」榊原が付け加えた。「完全な復元は難しい。とくに、核心記憶が欠落している者は」


「カノンも?」


「彼女の核心は、データベースにない。だが——」


 榊原は意味深に律を見つめた。


「君の中にある。愛する者の記憶の中にこそ、人の本質は宿る」


 律は理解した。自分の記憶を使って、カノンの失われた部分を補完する。それが、真の記憶共有。


 *


 ウイルスの影響で、Dr.バグのシステムは急速に変質していた。


 破壊的なプログラムが、創造的なものへ。奪うシステムが、与えるシステムへ。


「これが、愛の力か」榊原が感慨深げに呟く。


 彼の分裂した人格が、次々と本体に統合されていく。それぞれが持っていた記憶、経験、そして後悔が、一つの人格に収束する。


「苦しい……でも、これでいい」


 榊原の顔に、安らぎが浮かんだ。


「10年間、私は逃げていた。自分の失敗から、罪から。でも、もう終わりだ」


 最後の分身が統合された瞬間、榊原は元の姿を取り戻した。


 26歳の理想に燃えた青年ではなく、36歳の、多くを失い、多くを学んだ男として。


「律君、最後に一つ頼みがある」


「なんですか?」


「私の記憶の一部をカノンに返してほしい。彼女の中にある私の後悔が、彼女を縛っているから」


 律は頷いた。


「分かりました。でも、あなたは?」


「私は、現実世界で罪を償う。それが、私にできる唯一のことだ」


 榊原の姿が薄れ始める。仮想空間が、役目を終えて消えていく。


「ありがとう、律君。君と彼女に、幸せな未来がありますように」


 そして——。


 すべてが、白い光に包まれた。


 *


 律が現実世界で目を覚ますと、カノンが顔を覗き込んでいた。


 涙で濡れた顔。でも、笑っている。


「おかえり」


「ただいま」


 律は微笑み返した。そして気づく。カノンの瞳に、何か違うものが宿っていることに。


「カノン、もしかして……」


「うん」彼女は頷いた。「なんか、少しずつ思い出してきた。まだ全部じゃないけど」


 高柳が駆け寄ってきた。


「すごいぞ! 世界中で記憶が復元され始めている!」


 タブレットには、次々と回復の報告が届いていた。


 Dr.バグの最後の贈り物。そして、愛のウイルスが成し遂げた奇跡。


「でも、これは始まりに過ぎない」律は言った。「本当の記憶の回復は、これからだ」


 カノンが律の手を握った。


「一緒に、がんばろうね」


 律は強く頷いた。


 愛があれば、どんな困難も乗り越えられる。


 父が残したウイルスの名前は、伊達ではなかった。


 【記憶崩壊プロセス:停止】

 【カノンの記憶:保護成功】

 72時間の戦いは、終わった——



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