#023 最後の取引
律は仮想空間の中で、必死にカノンの記憶データを探していた。
高柳たちが物理的に施設を制圧している間に、彼はLINK経由でサーバーの最深部へと潜っていた。そこで見つけたのは、想像を絶する光景だった。
「これは……」
画面に表示されているのは、数百人分の若者たちの記憶データ。すべてが商品として管理され、値札が付けられている。
[A-137 (綾瀬カノン) - レンタル中]
[現在の使用者: CLIENT_089]
[残り時間: 02:34:17]
カノンの記憶が、今この瞬間も誰かに使われている。律の拳が震えた。
「おや、お客様かな?」
突然、仮想空間にDr.バグのアバターが現れた。歪んだ道化師のような姿。
「R-404……律君か。わざわざ来てくれるとは」
「Dr.バグ! カノンの記憶を返せ!」
「返す?」Dr.バグは首を傾げた。「君は誤解している。記憶は所有するものじゃない。共有するものだ」
その時、別の画面が開いた。そこには——。
*
「ライブ配信を始めよう」
Dr.バグが指を鳴らすと、巨大なスクリーンが現れた。
そこに映っているのは、現実世界のカノンだった。医療テントのベッドで横たわり、高柳の部下が見守っている。意識は朦朧としているようだ。
瞬く間に視聴者が集まってくる。
『これは何だ?』
『A-137じゃないか』
『まだ生きてたのか』
「さて、律君」Dr.バグが語りかける。「君には特別なオファーがある」
律は警戒しながらも聞き耳を立てた。
「君の記憶と引き換えに、彼女の核心記憶の在り処を教えよう。そして、復元プロトコルも」
「核心記憶の在り処?」
「そう。A-137のデータは不完全なんだ。最も重要な部分——自分が誰であるかという核心——が欠落している」
Dr.バグは意味深に続けた。
「それがどこにあるか、私は知っている。でも、タダでは教えられない」
視聴者からコメントが殺到する。
『おい、これヤバくないか?』
『記憶の取引とか』
『でも面白そう』
*
「時間制限は5分。決断しろ」
Dr.バグがカウントダウンを始めた。
[300秒]
律は苦悩した。自分の記憶を差し出せば、カノンを救えるかもしれない。しかし、それは自分自身を失うことでもある。
配信画面に映るカノンを見つめる。彼女は無意識のうちに、何かを呟いているようだった。
音声を拡大すると——。
「律……助けて……」
胸が締め付けられる。
[240秒]
「3分経過」Dr.バグが告げる。
その時、カノンがカメラに向かって目を開けた。焦点は定まっていないが、確かに意識がある。
そして、口を動かした。音声は小さくて聞こえないが、律には読み取れた。
『来ないで』
彼女は、律を守ろうとしている。記憶を失ってもなお。
[180秒]
律は決意した。
「分かった。取引に応じる」
『おお、決断したか』
「でも、条件がある」律は冷静に告げた。「一方的な奪い合いじゃない。『共有』という形にしてほしい」
*
「共有……?」
Dr.バグの動きが止まった。
「あなたの本来の理想は、記憶の共有による人類の進化だったはずだ」律は続ける。「なら、実践しましょう。僕の記憶をあげます。ただし、共有という形で」
[120秒]
Dr.バグは考え込んだ。そして——。
「面白い。乗ってやろう」
「共有する記憶を選ばせてください」
「許可する。ただし、価値あるものでなければ取引は成立しない」
律は自分の記憶を振り返った。何を差し出すべきか。技術的な知識? 音楽の才能?
いや、違う。
「これです」
律が選んだのは、カノンと過ごしたすべての記憶。はじめて会った日から、昨日まで。楽しかったこと、悲しかったこと、そして——。
「はじめてカノンに恋をした瞬間も、含みます」
[60秒]
Dr.バグは息を呑んだ。
「これは……なんという純粋な感情データ……」
記憶の中には、カノンへの深い愛情が満ちていた。5年間、一度も薄れることのなかった想い。彼女が自分を忘れても、変わらずに抱き続けた愛。
それは、Dr.バグ——榊原が失って久しい、人間らしい感情そのものだった。
*
「では、共有プロトコルを実行しましょう」律が提案する。
しかし、律には秘策があった。父の研究室で見つけた、特殊なプログラム。共有プロトコルの中に、ウイルスを仕込んでいたのだ。
[PROTOCOL: MEMORY_SHARE_CUSTOM]
[hidden.exe - 愛のCRC改竄ウイルス]
「なぜこんな名前を……」律は父の奇妙なネーミングセンスに苦笑した。でも、効果は本物だ。
[30秒]
「実行」
記憶の転送が始まった。律の大切な思い出が、Dr.バグのシステムに流れ込んでいく。
はじめてカノンが音楽を褒めてくれた日。
『すごくいい。なんていうか……心にしみわたる感じ』
グリッチで彼女の本心を知った瞬間。
罪悪感と、それでも一緒にいたいという彼女の願い。
スワップして、お互いの世界を知った24時間。
カノンの孤独と、それを支えたいという律の決意。
[10秒]
「これは……美しい……」
Dr.バグが恍惚とした。そして、同時にウイルスも静かに拡散を始めた。
[5秒]
「人を愛するということを、忘れていた……」
Dr.バグの声が、どこか懐かしい響きを帯び始める。機械的な変調が薄れ、人間らしさが戻ってくる。
[0秒]
「取引成立だ」
Dr.バグ——いや、榊原の声が響いた。
「約束通り、教えよう。彼女の核心記憶は、データベースにはない」
「なんだって?」
「なぜなら、それは君の中にあるからだ。愛する者の記憶の中にこそ、人の本質は宿る」
*
その瞬間、現実世界で変化が起きた。
カノンが突然、はっきりとした声で叫んだ。
「律!」
高柳が驚いて駆け寄る映像が、配信画面に映る。
「どうした? 大丈夫か?」
「律が……律が危ない!」
カノンは必死に起き上がろうとした。記憶はまだ戻っていない。でも、律が自分のために何かを犠牲にしようとしていることは、本能的に分かった。
仮想空間で、Dr.バグが静かに語る。
「君の記憶を受け取って、思い出した。私も昔、誰かを愛していた」
ウイルスが効いている。Dr.バグのシステムが、少しずつ人間性を取り戻していく。
「だから、もう一つサービスだ」
Dr.バグが指を鳴らすと、膨大なデータが解放され始めた。
[MEMORY LIBERATION PROTOCOL: ACTIVATED]
[状態: データ234名分のを解放中]
「すべての若者たちの記憶を、元の持ち主に返そう」
視聴者たちが騒然となる。
『マジかよ』
『俺の記憶も?』
『Dr.バグが改心した?』
律は安堵と共に、意識が薄れていくのを感じた。大量の記憶を共有した代償だ。
「待て、これは——」
Dr.バグが何かに気づいた。
「ウイルスか! 君は……」
でも、もう怒りはなかった。むしろ、感謝さえしていた。
「ありがとう、律君。君のおかげで、私は人間に戻れた」
そして、最後に——。
「カノンの記憶を取り戻したいなら、君自身の記憶を核にして、彼女の断片を結び付けるんだ。愛があれば、きっとできる」
仮想空間が崩壊し始めた。
律の意識も、現実へと引き戻されていく。




