#022 Dr.バグの正体―分裂した天才
カノンは薄暗い医療テントの簡易ベッドで目を覚ました。意識はまだ朦朧としているが、体の感覚は徐々に戻ってきている。
「カノンちゃん、大丈夫?」
見知らぬ女性警官が心配そうに顔を覗き込んでいた。カノンは混乱した。この人は誰だろう。いや、それより自分は誰だったっけ。
頭の中で何かがぐるぐると回っている。自分の記憶、誰かの記憶、そして——。
「あ、あたし……」
言葉を発しようとして、違和感に気づく。『あたし』という一人称は自分のものだろうか。それとも——。
「無理しないで。君は記憶に深刻なダメージを受けている」
女性警官——高柳と名札に書いてある——が優しく制止した。
その時、テントの外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「カノン!」
見知らぬ少年が飛び込んできた。でも、なぜか懐かしい。この感覚は何だろう。
「律……?」
名前が自然に口から出た。不思議だ。この少年のことを知らないはずなのに。
「よかった、意識が戻ったんだね」
律と呼ばれた少年は安堵の表情を浮かべたが、すぐに真剣な顔になった。
「カノン、大変なことが分かったんだ。Dr.バグの正体、榊原総一郎という人物について」
カノンは混乱しながらも、その名前に何か引っかかるものを感じた。頭の奥で、誰かが叫んでいるような——。
*
律がダウンロードしたデータを解析している間、カノンはぼんやりと天井を見つめていた。
体の中に自分以外の『誰か』がいる感覚がある。でも、それが誰なのか分からない。記憶の断片が散らばっていて、パズルのピースを合わせようとしても上手くいかない。
「信じられない……」
高柳警部が震え声で呟いた。彼女はタブレットの画面を食い入るように見つめている。
「榊原は、自分自身を実験台にしていたのか」
律が画面を操作しながら説明を始めた。
「2033年の実験記録です。榊原は被験者5名と共に、自らも深層記憶共有実験に参加していました」
カノンは話を聞きながら、なぜか胸が締め付けられる感覚を覚えた。
画面には若き日の榊原の写真が表示されている。理知的な顔立ちの青年。その瞳には、純粋な探究心が宿っていた。
『完全記憶共有による人類の進化』
そんな見出しの論文が画面に映し出される。
「彼の理想は崇高だった」律が続ける。「個人の限界を超えて、人類全体が知識と経験を共有する。争いのない理想社会の実現」
でも、現実は違った。
実験は失敗し、榊原自身の人格が分裂した。彼は一人の人間でありながら、複数の自分を抱えることになった。
「それぞれの『榊原』が独立した意識を持ち、ネットワーク上で活動を始めた。それがDr.バグの正体です」
カノンの中で、何かが反応した。
——そう、私は失敗した。
「えっ?」
カノンは思わず声を上げた。今の声は誰の声だ?
「どうしたの?」律が心配そうに見つめる。
「今、誰かの声が……」
その瞬間、カノンの意識に激流のように記憶が流れ込んできた。
*
——私は榊原総一郎。いや、榊原総一郎だった者。
カノンは苦しそうに頭を抱えた。自分の中で、別の人格が語りかけてくる。
——実験は成功するはずだった。人類は個の殻を破り、より高次の存在へと進化する。それが私の夢だった。
「カノン! しっかりして!」
律の声が遠くに聞こえる。でも、内なる声の方が強い。
——だが失敗した。私の人格は砕け散り、それぞれが勝手に動き始めた。ある者は金儲けに走り、ある者は破壊衝動に駆られた。
カノンは必死に自分を保とうとした。これは自分の記憶じゃない。でも、なぜこんなにリアルに感じるんだろう。
——そして私は、最後の希望を君に託した。A-137、綾瀬カノン。君の純粋な記憶の中でなら、私は正気を保てると思った。
「あなたが……私の中にいる人?」
カノンは震え声で問いかけた。
——私はもう榊原ではない。ただの記憶の断片だ。だが、伝えなければならないことがある。
律と高柳は、カノンの様子を固唾を呑んで見守っていた。
——GENESIS計画。それは私の最後の計画だ。すべての記憶を統合し、新しい人類を生み出す。だが、それは間違っている。今ならわかる。
カノンの瞳から涙がこぼれた。それは彼女の涙なのか、榊原の涙なのか分からない。
——記憶は所有するものじゃない。共有するものでもない。それは、愛する人と紡ぐものだ。
内なる声が途切れた。カノンは深く息をついて、ゆっくりと目を開けた。
「私、分かった気がする」
カノンは律を見つめた。
「Dr.バグ——榊原さんは、最初から犠牲者だったんだ。自分の理想に押しつぶされて、バラバラになってしまった人」
*
高柳が新たなデータを発見した。
「これを見て。榊原の最後の研究ノート」
画面には、震える文字で書かれたメッセージがあった。
『私は怪物になった。いや、怪物たちになった。それぞれの私が、勝手に動いている。止められない。
だが、まだ希望はある。純粋な愛情の記憶。それだけが、壊れた私を1つにできるかもしれない。
次の実験で、私は自分の核心部分を、最も純粋な器に預けよう。いつか、誰かがそれを正しく使ってくれることを願って』
日付は、カノンがDr.バグの実験に参加する一週間前だった。
「つまり、最初から計画されていた」律が理解した。「カノンを器として選び、自分の人間らしい部分を託そうとしていた」
カノンは複雑な表情を浮かべた。
「でも、それって……」
「利用された、と思う?」高柳が尋ねた。
カノンは首を横に振った。
「ううん。なんていうか……すごく悲しい人だなって」
彼女の中で、榊原の記憶がかすかに脈動している。天才科学者の栄光、理想への情熱、そして失敗後の絶望。すべてが入り混じって、一人の人間の悲劇を物語っていた。
「ねえ、律」
カノンは真剣な表情で律を見つめた。
「榊原さんの他の人格——他のDr.バグたちは、まだ活動してるんだよね?」
「うん。サーバーは破壊されたけど、ネットワーク上にはまだ複数の榊原が存在している可能性が高い」
「じゃあ、止めなきゃ」
カノンの瞳に、強い決意が宿った。それは彼女自身の意志なのか、それとも榊原の後悔が生んだ使命感なのか。
「私の中にいる榊原さんの記憶が、鍵になるかもしれない。彼らを止める方法を、きっと知ってるはず」
でも、それは同時に、カノン自身の記憶とさらに深く混ざり合うことを意味していた。
律が心配そうに手を伸ばしかけたが、カノンは優しく微笑んだ。
「大丈夫。もう、怖くない」
なぜなら——。
カノンは自分でも不思議に思った。なぜ律といると、こんなに安心できるんだろう。まるで、ずっと前から知っているような。
記憶は失っても、感情の繋がりは残っている。
それが、榊原が最後に気づいた真実なのかもしれない。




