#001 接続過多な朝
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[PING!] [PING!] [PING!] [PING!] [PING!]
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綾瀬カノンは、枕元で鳴り響く通知音に顔をしかめた。
薄暗い部屋の中、壁掛けディスプレイが自動的に点灯する。朝のニュース番組が静かに流れ始めた。
『おはようございます。3月15日月曜日、朝6時をお知らせします。港南ニューシティは今日も快晴、最高気温は22度の予想です』
アナウンサーの声を聞き流しながら、カノンは手探りでスマホを掴む。画面には999+の通知。フォロワー20万人のLINK-FLUENCERには、こんな朝が当たり前になっていた。
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[LINK STATUS]
USER: 綾瀬カノン
未読メッセージ:999+
新規フォロワー:287名
いいね:15,420件
記憶整合性:100%
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最後の項目に、カノンは気づかなかった。記憶整合性なんて、普段は表示されない項目だから。それが100%であることの意味も、やがて0%になることの恐怖も、今の彼女には想像もつかない。
カノンは大きく伸びをしてから、ベッドに座り直した。肩まで伸びた髪が乱れているが、それすらも計算されたかのように可愛らしい。17歳の少女にしては大人びた仕草で、髪をかき上げる。
「さてと……今日も『カノン』の時間ね」
鏡台の前に座り、軽くメイクを始める。鏡に映る自分の顔を、当たり前のように認識できる。これが自分だと、疑いもしない。
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[PING!]
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『おはよー! カノンちゃん今日も可愛い予感♡』
まだ配信も始めていないのに、もうメッセージが来ている。カノンは苦笑しながら、LINKで返信した。
「おはよ〜! 今起きたところだよ〜」
嘘だった。実際は30分前から起きて、配信の準備をしている。でも、「今起きたばかりの自然な姿」を演出するのも、仕事のうちだ。
この「嘘」も、すぐに思い出せなくなる。いや、自分が誰に向けて嘘をついていたのかさえ、分からなくなる。
メイクを終えたカノンは、制服に着替えた。港南ニューシティ高等学校の制服は、紺色のブレザーにチェックのスカート。スカートの丈は校則ぎりぎりまで短くしている。
「よし、完璧」
全身を鏡でチェックしてから、LINKの配信モードを起動した。
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[配信モード: ON]
[視聴者数:1,204名]
[記録モード:アクティブ]
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「おはよー! みんな元気? カノンだよ〜」
カメラに向かって手を振ると、コメントが滝のように流れ始めた。
『カノンちゃんおはよう!』
『今日も可愛い!』
『制服姿最高』
『朝から天使』
この何気ない朝の配信も、すべて記録されている。やがて、この記録が「商品」として売買されることになるとは、誰も知らない。
カノンは慣れた様子でコメントを拾いながら、朝の準備を続ける。朝食はグラノーラとヨーグルト。健康的でフォトジェニックな組み合わせだ。
「今日はね〜、放課後に新しい配信機能のテストするから、協力してくれる人募集〜!」
配信は、LINKの深層共有機能。通常のチャットより一段階深いレベルで、感情を共有できる。最近実装されたばかりの新機能で、まだ使いこなせている人は少ない。
この何気ない発言が、すべての始まりだった。
『やりたい!』
『選んで!』
『どんな感じなの?』
『危険じゃない?』
最後のコメントに、カノンは一瞬だけ目を止めた。危険? まさか。企業が提供してる機能に、危険なんてあるはずない。
「えっとね〜、技術的なことはよくわかんないんだけど……感情がもっとリアルに伝わるらしいよ?」
本当は昨日、マニュアルをしっかり読み込んでいる。でも、「天然で可愛いカノン」というキャラクターに、難しい技術の話は似合わない。
マニュアルの最後に小さく書かれていた警告文のことは、すっかり忘れていた。
『過度な使用は記憶の混濁を引き起こす可能性があります』
朝食を済ませ、歯を磨き、最後のメイクチェック。すべての動作を配信しながら、フォロワーとの交流を続ける。これが彼女の日常だった。
「じゃあ、そろそろ学校行くね〜! みんな、いってきます!」
『いってらっしゃい!』
『気をつけて!』
『学校配信も待ってる!』
『配信実験、楽しみにしてる』
配信を切ると、部屋に静寂が戻った。
カノンは深いため息をつく。配信中の明るい表情が、一瞬で消えた。
「……疲れる」
小さくつぶやいてから、慌てて首を振る。こんなこと考えちゃダメだ。フォロワーはカノンを愛してくれている。その期待に応えなければ。
でも、心のどこかで感じていた。このままじゃダメだと。何かを変えなければと。
その「何か」が、自分を商品番号A-137に変えてしまうことになるとは、想像もしていなかった。
学生カバンを肩にかけ、玄関を出る。エレベーターで1階に降りると、マンションのエントランスにはすでに何人かの住人がいた。
「あ、カノンちゃん」
同じマンションの主婦が声をかけてくる。
「おはようございます〜」
カノンは完璧な笑顔で応える。この笑顔も、99時間後には作り方を忘れてしまう。
外に出ると、朝の光が眩しい。港南ニューシティの街並みは、ガラスと金属で構成された未来都市そのものだ。ビルの壁面には巨大なディスプレイが埋め込まれ、さまざまな情報が流れている。
その中に、小さく警告ニュースが流れていた。
『LINK関連事故、今月だけで3件。過度な記憶共有にご注意を——』
でも、カノンは気づかない。自分には関係ないと思っている。
通学路を歩きながら、カノンは周囲の視線を感じる。すれ違う学生たちが、ちらちらとこちらを見ている。
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[PING!]
[PING!]
[PING!]
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知らない人からのフォロー申請が次々と届く。カノンは機械的に承認ボタンを押していく。フォロワー数は、彼女の価値を示す数字だから。
この中の誰かが、やがて彼女の記憶を「購入」することになる。
磁気浮遊式のスクールバスが、音もなく停留所に滑り込んできた。カノンが乗り込むと、車内の空気が変わった。
みんな声を出さずに、LINKで会話している。でも、カノンにはわかる。自分が話題の中心になっていることが。
空いている窓際の席を見つけて座る。いつもなら、友達と一緒に座るところだけど……
カノンは窓の外を眺めた。高層ビルの間を縫うように走るバスから見える景色は、どこか現実感がない。
本当の友達って、何だろう。
フォロワーは20万人いる。学校でも人気者だ。でも、本当の自分を知っている人は……
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[PING!]
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新着メッセージが思考を遮った。
『カノンちゃん、今日の配信も最高だった!』
知らない人からのメッセージ。カノンは条件反射的に返信する。
「ありがとう〜! 嬉しい♡」
でも、本当に嬉しいのかな。
バスが学校に近づくにつれ、車内の生徒が増えていく。カノンの周りには自然と空間ができる。近寄りがたいオーラ、というやつだろうか。
その時、一人の男子生徒が乗り込んできた。
朝凪律。
黒髪を無造作に整えただけの、とくに目立たない容姿。でも、カノンは知っている。彼の作る音楽が、どれだけ素晴らしいかを。
この名前だけが、黒塗りの記憶の中で唯一の救いになる。
律は周囲のLINKノイズを遮断するように、目を閉じて席に座った。おそらく、頭の中で作曲しているのだろう。
カノンは、なぜか彼を見ていると落ち着く。フォロワーでもない、取り巻きでもない。ただ、静かに自分の世界に没頭している律。
「あ……」
うっかり声が出てしまった。律が目を開けて、こちらを見る。
一瞬、目が合った。
この瞬間の記憶が、やがて二人を結ぶ最後の糸になることを、まだ誰も知らない。
カノンは慌てて視線を逸らした。頬が熱くなる。何で緊張してるんだろう。
律はきょとんとした表情のまま、また目を閉じた。カノンのことなど、とくに意識していないようだ。
それが、少し寂しかった。
でも、不思議な安心感もあった。律という存在が、変わらずそこにいることが。
学校に到着すると、生徒たちがぞろぞろと降りていく。カノンも席を立ち、バスを降りた。
「カノンちゃん、おはよ〜!」
「今日も可愛いね!」
「昨日の配信見たよ!」
校門をくぐると、次々と声をかけられる。カノンはすべてに笑顔で応えながら、校舎へ向かう。
でも、心のどこかで思っていた。
——誰も、本当のあたしなんて見てない。
その予感は、皮肉にも正しかった。「本当の自分」という概念すら、思っているより脆いものだということを、カノンはまだ知らない。
教室に入ると、すでにクラスメイトの大半が登校していた。カノンの姿を見て、女子たちが集まってくる。
「カノンちゃん、今日の放課後空いてる?」
「新しいカフェ行かない?」
「配信機能のテスト、あたしも参加していい?」
矢継ぎ早の質問に、カノンは慣れた調子で答えていく。
「ごめんね〜、今日は用事があって。配信機能のテストは、あとで詳細送るね!」
用事というのは、半分本当で半分嘘だ。確かに配信機能のテストはするけど、本当は一人で研究したかった。
いや、一人じゃない。
席に着くと、視線が自然と教室の隅に向かう。そこには、いつも通り静かに座っている律の姿があった。
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[LINK STATUS]
現在のフォロワー: 201,847名
本日の増加数:+ 2,341名
エンゲージメント率:23.7%
カウントダウン: NULL
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最後の項目は、表示されていない。まだ、カウントは始まっていないから。
でも、運命の歯車は、すでに回り始めていた。
チャイムが鳴り、担任の教師が入ってきた。朝のホームルームが始まる。
「おはようございます。今日は連絡事項が——」
教師の声を聞きながら、カノンはぼんやりと考える。
もし、誰かと本当に深く繋がることができたら。
数字じゃない、リアルな繋がりを感じることができたら。
そんな相手が、いるのだろうか。
ふと、バスで見かけた律の姿が頭に浮かんだ。
いつも一人で、でも孤独には見えない彼。自分の世界を持っている彼。
もしかしたら——
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[PING!]
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また通知。カノンは反射的にスマホを見た。
『カノンちゃん、今日も最高に可愛い!』
知らない誰かからのメッセージ。
カノンは小さく微笑んで、いつものように返信した。
「ありがとう♡ 今日も一日がんばろうね!」
でも、その笑顔の下で、ひとつの決意が芽生えていた。
今日こそ、何か変えてみよう。
この息苦しい日常を、少しでも変えられるかもしれない。
そのためには——
カノンの視線が、再び律に向いた。
放課後、配信機能のテスト。
彼になら、頼めるかもしれない。
本当の自分を、見つける手伝いを。
その選択が、恐怖に繋がることを知らずに。
でも、同時に。
その選択だけが、彼女を救う鍵になることも、まだ誰も知らない——