#018 高柳警部の過去
【水曜日 朝——残り時間:24時間】
翌朝、律は高柳警部に呼び出された。
湾岸警察署の個室。二人きりの密室で、高柳警部は重い口を開いた。
「昨夜は、よくやってくれた」
「いえ……僕は何も」
「君がいなければ、綾瀬さんは完全に失われていただろう」
高柳警部は、コーヒーカップを両手で包むように持った。その手が、微かに震えているのを律は見逃さなかった。
「実は……君に話しておかなければならないことがある」
「何ですか?」
高柳警部は立ち上がり、ロッカーから古いファイルを取り出した。
『機密事項 - 第一次記憶汚染事件』
そのファイルを開くと、10年前の新聞記事や写真が現れた。
「君が戦っている相手について、知っておく必要がある」
写真の中には、若い女性の姿があった。高柳警部によく似た、美しい少女。
「私の妹、夏帆です」
律は息を呑んだ。
「2033年、彼女は19歳でした。東京大学の心理学部に通う、優秀な学生でした」
高柳警部の声に、懐かしさと痛みが混じっていた。
「当時、LINK技術はまだ実験段階でした。『完全記憶共有による人類の進化』という理想を掲げた、一人の天才科学者がいました」
「それが……」
「榊原総一郎。後のDr.バグです」
高柳警部は、別の写真を取り出した。
そこには、26歳の榊原が映っていた。今のDr.バグからは想像できないほど、希望に満ちた表情をしている。
「彼は、本当に理想主義者でした。人類の記憶を共有し、争いのない平和な世界を作る。そんな夢を信じて疑わない、純粋な研究者でした」
「なぜ、妹さんが実験に?」
「夏帆は、彼の理想に共鳴したんです」
高柳警部は、妹の写真を優しく撫でた。
「『お姉ちゃん、私が人類の未来に貢献できるの!』って、目を輝かせて話していました」
律は、その時の夏帆の気持ちがわかる気がした。きっと、自分がカノンとの実験に参加した時と同じ気持ちだったのだろう。
「実験は、どのようなものだったんですか?」
「5人の大学生が参加する、深層記憶共有実験でした。榊原自身も被験者として参加しました」
高柳警部は、実験の詳細資料を見せてくれた。
【実験概要】
目的:人格境界を超えた完全記憶共有
期間:72時間連続接続
参加者:大学生5名 + 榊原総一郎
使用機器:LINK Ver.0.8α(プロトタイプ)
「72時間……」律は戦慄した。自分たちが48時間で限界だったのに、それを超えている。
「結果は、惨憺たるものでした」
高柳警部は、事件当日の記録を開いた。
『2033年5月21日 午後2時34分 - 緊急事態発生』
「実験開始から68時間後、突然全員の意識が混濁しました。救急車で搬送されましたが……」
写真には、病院のベッドに横たわる6人の姿があった。全員、虚ろな目をしている。
「夏帆の症状は、とくに深刻でした」
高柳警部の声が震える。
「彼女は、6つの人格を同時に抱え込んでいました。榊原と他の被験者4人の記憶が、すべて夏帆の中に流れ込んでいたんです」
律は絶句した。カノンの3つの人格でも大変なのに、6つの人格が同時に……
「私は、当時まだ新人警官でした。妹を救うために、必死で事件を調べました」
「榊原さんは、どうなったんですか?」
「彼が最も謎でした」
高柳警部は、榊原の診療記録を見せた。
「身体的には無傷。しかし、人格が……分裂していました」
「分裂?」
「元の榊原総一郎の人格に加えて、5つの『コピー』が生まれていました。それぞれが独立した意識を持ち、違う考えを持っていました」
律は、BUG.CHURCHで感じた違和感を思い出した。複数の場所から聞こえるDr.バグの声。
「そのコピーたちが、今のDr.バグなんですね」
「そうです。オリジナルの榊原は、実験の失敗にショックを受け、研究を中止しようとしました。しかし……」
高柳警部の表情が、怒りに変わった。
「コピーたちは違いました。彼らは『失敗ではない、進化だ』と主張し、より過激な実験を続けようとしました」
「それで、地下に潜ったんですか」
「はい。表向きは榊原総一郎は『研究を断念し、引退した』ことになっています。しかし実際は……」
高柳警部は、最後のファイルを開いた。
『行方不明者リスト - 2033年~2042年』
そこには、おびただしい数の若者の名前と写真があった。
「この10年間で、200人以上の若者が失踪しています。全員、LINK関連の実験に興味を示していた子たちです」
律は言葉を失った。こんなにたくさんの人が……
「私は、妹の仇を討つために警察官になりました。そして、この10年間、ずっと榊原を追い続けてきました」
「妹さんは、今は……」
高柳警部の顔が、深い悲しみに包まれた。
「まだ、入院しています。湾岸大学病院の精神科病棟に」
「10年経っても……」
「ええ。6つの人格が統合されることはありませんでした。時々、本来の夏帆が表面に出ることもありますが……」
高柳警部は、最近の夏帆の写真を見せてくれた。
そこには、29歳になった夏帆が映っていた。しかし、その表情は19歳の時と変わらず、幼い無邪気さを残していた。
「人格の成長が止まってしまったんです。19歳の夏帆のまま、時間が止まっています」
律の胸が締め付けられた。
「でも、完全に諦めているわけではありません」
高柳警部は、立ち上がった。
「君の友人、綾瀬さんを救うことができれば、夏帆を救う方法も見つかるかもしれません」
「僕に、何ができるでしょうか」
「技術的な知識です。君のような若い研究者の視点が必要なんです」
高柳警部は、律の肩に手を置いた。
「一緒に、榊原を止めませんか?」
律は、迷わず頷いた。
「はい。カノンのためにも、妹さんのためにも」
「ありがとう。でも……」
高柳警部の表情が急に険しくなった。
「君もすでに、榊原のターゲットになっています」
「え?」
高柳警部は、タブレットを操作して、ある画面を表示させた。
『MEMORY MARKET - 新商品予告』
そこには、律の写真と共に、恐ろしい文章が書かれていた。
★予告★ 近日入荷予定
R-404(朝凪律/17歳/男性)
商品説明:
・音楽的天才の記憶
・純粋な恋愛感情付き
・LINK開発者の息子(特別価値)
予想落札価格:¥500万~¥1000万
※プレミア商品につき予約受付中
律は背筋が凍った。
「父の経歴まで調べられています」
「君の父上は、初期LINK開発のキーパーソンでした。その息子の記憶には、特別な価値があるとみなされています」
「どうすれば……」
「今は、警察の保護下にいれば大丈夫です。しかし」
高柳警部は、窓の外を見つめた。
「榊原は必ず、君を狙ってきます。そして、綾瀬さんを人質に使う可能性もあります」
律は決意を固めた。
「戦います。カノンを守るために」
「分かりました。では、まず第一歩として……」
高柳警部は、古い住所を書いたメモを渡した。
「榊原のオリジナル人格に会いに行きましょう」
「え? 生きているんですか?」
「隠れて暮らしています。彼なら、コピーたちを止める方法を知っているかもしれません」
律は、メモを見つめた。
そこには、港南ニューシティ郊外の住所が書かれていた。
「今すぐ行きましょう」
「危険かもしれませんよ」
「構いません。一刻も早く、カノンを救いたいんです」
高柳警部は、律の決意を見て、小さく微笑んだ。
「夏帆も、きっと君のような友人がいれば良かったのに」
二人は、警察署を出た。
榊原総一郎—オリジナルの科学者—に会いに行くために。
真実を知るために。
そして、カノンと夏帆を救う方法を見つけるために。
車の中で、律は病院にいるカノンのことを考えていた。
「待ってて、カノン。必ず、一緒に帰ろう」
午後の太陽が、二人の車を照らしていた。
希望と不安を胸に、新たな戦いが始まろうとしていた。