#017 VOIDクラブ潜入
20分後、高柳警部から連絡が来た。
『建物を包囲した。君は安全な場所に避難しろ』
でも、律は動けなかった。
VIPルームの中で、カノンの状況がさらに悪化していたからだ。
「次の客の準備はできているか?」
太った中年男性が、端末を確認しながら言った。
「はい。1時間交代制ですので、12時ちょうどに交代です」
時計を見ると、11時58分。
あと2分で、カノンの体を別の人格が乗っ取ることになる。
「新しい人格は、どんな設定だ?」
「24歳のOLです。恋愛経験豊富で、大人の女性の魅力を持っています」
「素晴らしい。17歳から24歳へのアップグレードか」
律は震え上がった。
カノンの体に、また別の人格がインストールされようとしている。
そして、12時ちょうど—
カノンの体がビクンと痙攣した。
「うっ……」
苦痛に顔を歪める。
そして、数秒後—
「あ、はじめまして〜♪」
声のトーンが完全に変わった。より大人っぽく、色っぽい話し方。
「わたし、ユリカです。今日はよろしくお願いします」
カノンの体が、ゆっくりと立ち上がった。その仕草は、まるで別人のようだった。
「おお……これは素晴らしい」
中年男性が興奮している。
「本当に24歳の女性の人格が入っているのか?」
「ええ、完璧よ。見て」
カノン—いや、ユリカは、鏡に向かって髪をかき上げた。
その動作は、確かに大人の女性のものだった。17歳の少女にはない、洗練された色気がある。
「この体、若くて最高ね。久しぶりに20代気分を味わえるわ」
律は吐き気を抑えきれなくなった。
カノンの体が、まるで着せ替え人形のように、違う人格に使い回されている。
その時、建物全体に警報音が響いた。
『警察だ! 全員、その場に留まれ!』
高柳警部の声だった。
VIPルーム内がざわめく。
「なんだ、警察だと?」
「大丈夫です。この部屋は隠し扉になっています」
壁の一部がスライドして、隠し通路が現れた。
「ユリカ」を連れて、男性が逃げ出そうとする。
「待て!」
律は思わず飛び出した。
「カノンを返せ!」
「なんだ、ガキが!」
男性が振り返る。その顔は、律が見たことのない、欲望に歪んだ醜い表情だった。
「君、部外者ね」ユリカ(カノンの体)が振り返る。「邪魔をしないでちょうだい」
その声は確かにカノンのものだが、まったく違う人格の言葉だった。
「カノン! 僕だ、律だ! 思い出して!」
しかし、ユリカは首を傾げた。
「カノン? 知らないわ。わたし、ユリカよ」
律の心は砕け散りそうだった。
カノンの記憶が、完全に上書きされている。
「ユリカちゃん、行こう」
男性がカノンの手を引いて、隠し通路へ向かおうとした。
その時—
「いやあああああ!」
突然、カノンが絶叫した。
ユリカの人格が消えて、別の人格が現れたのだ。
「出て行って! 私の体から出て行って!」
本来のカノンの人格が、必死に抵抗している。
「助けて! 律! あたし、ここにいる!」
「カノン!」
律が駆け寄ろうとした瞬間、男性が端末を操作した。
「完全鎮静モードに切り替える」
カノンの体から、急に力が抜けた。
「あ……」
虚ろな目で、その場に崩れ落ちる。
完全に意識を失った状態だった。
「製品に不具合が発生しました。メンテナンスが必要です」
男性は冷静に端末に向かって話している。まるで、機械の故障報告をするように。
「今すぐ回収に向かいます」
律は怒りで震えた。
カノンが、本当に「製品」として扱われている。
「絶対に許さない……」
その時、隠し通路の奥から複数の足音が聞こえてきた。
現れたのは、黒いスーツを着た男たち。みんな、表情が無機質だった。
「Boss、どうしますか?」
「製品を回収する。邪魔者は……」
男性の視線が律に向けられた。
「処分しろ」
黒スーツの男たちが、律に向かってきた。
律は慌てて逃げようとしたが、狭い部屋では逃げ場がない。
「観念しろ、ガキ」
その時—
ドアが激しく蹴破られた。
「警察だ! 動くな!」
高柳警部が、拳銃を構えて現れた。
後ろには、何人もの警官がいる。
「銃を捨てろ! 手を上げろ!」
黒スーツの男たちは、一瞬迷ったが、観念したように手を上げた。
「律君、大丈夫か?」
「はい……でも、カノンが……」
高柳警部は、床に倒れているカノンを見て、表情を険しくした。
「救急車を呼べ! すぐに病院へ搬送だ!」
律は、カノンのそばに駆け寄った。
「カノン……カノン!」
彼女は意識を失ったまま、まったく反応しない。
顔色も悪く、呼吸も浅い。
「大丈夫だ。君のおかげで間に合った」
高柳警部が律の肩に手を置いた。
「でも……カノンの記憶は……」
「今は命が最優先だ。記憶のことは、あとで考えよう」
救急隊員がやってきて、カノンを担架に乗せた。
律も一緒に救急車に乗り込んだ。
サイレンを鳴らしながら、病院へ向かう救急車の中で、律はカノンの手を握った。
冷たい手。脈は弱いが、確かに生きている。
「絶対に、元に戻してみせる」
律は心の中で誓った。
一方、VOIDクラブでは—
「Boss、どうしますか?」
奥の部屋で、場違いに優雅な老紳士が立っていた。このクラブの真の経営者だった。
「予定より早いが、仕方ない。計画を前倒しする」
「MEMORY MARKETの方は?」
「サーバーは別の場所にある。警察が来ても大丈夫だ」
老紳士は、窓から救急車を見送った。
「あの少年、なかなかやるじゃないか」
「始末しますか?」
「いや」老紳士は不敵に笑った。「面白いおもちゃを見つけた。R-404……音楽的才能は貴重だからな」
彼は端末を操作して、ある画面を表示させた。
そこには、律の詳細なプロフィールが表示されている。
住所、学校、家族構成、そして—
「父親が元LINK開発者……これは使える」
老紳士の目が、危険に光った。
「少年よ、君も間もなく商品になるだろう」
救急車の中で、律は知るよしもなかった。
自分が、すでに次のターゲットになっていることを。
カノンを救おうとした行動が、逆に自分を危険に晒していることを。
でも、律に後悔はなかった。
カノンのためなら、どんな危険でも冒す。
そんな覚悟を、改めて固めていた。
病院に到着すると、カノンは集中治療室に運ばれた。
律は、廊下で待つしかできない。
高柳警部も、一緒に来てくれた。
「検挙できたのは、末端の連中だけです」
「黒幕は?」
「逃げられました。でも」高柳警部の目に、強い意志が宿った。「必ず捕まえます。今度こそ、完全に」
「僕にも、何かできることはありませんか?」
「今は、君は彼女のそばにいてやれ。それが一番大切だ」
2時間後、医師が出てきた。
「命に別状はありません。ただ……」
「ただ?」
「脳の活動が、非常に不安定です。複数の人格が同時に存在している状態で、どれが本来の人格なのか判別が困難です」
律は愕然とした。
カノンの状態は、さらに悪化していた。
「治療法は?」
「前例のない症例なので……正直、手探り状態です」
律は、面会室でカノンと対面した。
彼女は眠っているが、時々、表情が変わる。
時には17歳の少女の顔。
時には大人の女性の顔。
時には、まったく知らない誰かの顔。
「カノン……」
律は、彼女の手を握った。
「必ず、君を取り戻す。本当の君を」
その時、かすかに手に力が入った。
カノンの瞳が、少しだけ開いた。
「り……つ……?」
か細い声。でも、確かにカノンの声だった。
「カノン! 僕だよ!」
「あた……し……どこ……?」
「病院だよ。もう大丈夫だ」
カノンは、混乱した表情で律を見つめた。
「なん……で……あたし……おぼえてない……」
「少しずつ思い出そう。僕がずっと一緒にいるから」
カノンは、小さく頷いた。
そして、また眠りについた。
でも、今度は穏やかな表情だった。
律は、希望を感じた。
カノンの本当の人格は、まだ残っている。
完全に諦めるのは、まだ早い。
「待ってて、カノン」
律は、彼女の手を握りながら呟いた。
「必ず、一緒に元の生活に戻ろう」