#015 三つの人格
翌朝、カノンは変わっていた。
律が目を覚ますと、隣のベッドでカノンが起き上がって、鏡を見ながら髪を整えている。
「おはよう、律さん」
その声の響きに、律は違和感を覚えた。昨日までのか細い声ではない。もっとハキハキした、大人びた話し方。
「カノン……?」
「はい。私がカノンです」
彼女は振り返って微笑んだ。でも、その笑顔は作り物のように完璧で、温かみがない。
「体調はいかがですか?」
律は混乱した。昨日のカノンは記憶を失って不安がっていたのに、今朝は別人のようにしっかりしている。
「君……本当にカノン?」
「もちろんです」
カノンは立ち上がって、病院服のしわを丁寧に伸ばした。その仕草も、昨日までと全然違う。まるでロボットみたいに正確で、無駄がない。
「今日の予定を確認しましょう。午前中は検査、午後は警察の聴取、夕方は——」
「待って」
律が遮った。
「君、何か変だよ」
カノンは首を傾げる。感情がまったく読み取れない表情で。
「変とは? 私は正常に機能しています」
機能している。
人間が使う言葉じゃない。
その時、看護師さんが入ってきた。
「カノンちゃん、おはよう。今日は元気そうね」
「おはようございます」カノンがお辞儀をする。「本日もよろしくお願いいたします」
看護師さんも困惑した顔をした。
「あら、なんだか大人っぽくなったわね。昨日は記憶があやふやだったのに」
「記憶は段階的に回復しています。現在の自己診断では、基本機能の87%が正常に動作しています」
律は背筋が寒くなった。
これは、カノンじゃない。
カノンの体を使った、何か別のもの。
「ねえ、カノン」
律が恐る恐る聞いた。
「僕のこと、覚えてる?」
カノンはちょっと考えるような仕草をして、答えた。
「朝凪律。17歳。私の……」
一瞬、表情が揺らいだ。
「私の……パートナー」
パートナー。友達でも恋人でもなく、パートナー。
律は悲しくなった。昨日感じた温かい繋がりは、もうない。
朝食の時間になると、さらに奇妙なことが起きた。
カノンが箸を持った瞬間、急に手が震え始めた。
「あれ……これ、どうやって使うんだっけ……?」
声が変わっていた。昨日の、か細くて不安そうな声。
「カノン?」
「私……綾瀬カノン? でも、よく分からない……」
昨日と同じ、記憶を失った状態に戻っている。さっきまでの大人びた態度は、どこに行ったんだろう。
「律……? 律だよね? なんか、すごく大切な人な気がする……」
律はほっとした。これが、本当のカノンだ。
でも、安心したのも束の間だった。
10分後、カノンは再び変わった。
今度は、全く違う人格が現れた。
「ちょっと、なにこの病院服? ダサすぎない?」
文句を言いながら、鏡で自分の姿をチェックしている。
「髪もボサボサだし、メイクもしてないし。これじゃあフォロワーに見せられないわ」
フォロワー。
その単語に、律はピンときた。
「君は……カノン?」
「当たり前でしょ? あたし、綾瀬カノン。フォロワー20万人のカノンよ」
彼女は律を見て、眉をひそめた。
「あんた誰? なんで病院にいるの? あたし、病気なの?」
記憶が断片的に戻っている。でも、古い記憶だけ。LINK-FLUENCERをやっていた頃の人格が蘇っている。
「僕は律。君の……友達」
「律?」
カノンは首を傾げる。
「知らない。あたしの友達って、みんなもっとイケてる子たちよ。あんたみたいな地味な子とは付き合わないわ」
律の胸に、ナイフが刺さったような痛みが走った。
これも、カノンの一部。記憶を失う前の、表面的な部分。
「ねえ、スマホは? あたしのスマホどこ? 配信しなきゃ」
カノンは焦った様子で辺りを探し回る。
「配信できないとフォロワー減っちゃう。減ったら終わりなのよ。わかる?」
律は何も言えなかった。
これが、カノンの本音だったのかもしれない。自分なんて、どうでもいい存在だったのかもしれない。
そして、また5分後——
「うっ……」
カノンが頭を押さえてうずくまった。
「出て行って……私の体から出て行って……」
三つの人格が、同時に現れ始めた。
ロボットのような冷静な人格。
記憶を失った混乱した人格。
LINK-FLUENCERだった頃の人格。
それぞれが主導権を握ろうとして、カノンの体の中で争っている。
「私は正常に機能——」
「怖い、助けて——」
「配信しなきゃ、フォロワーが——」
三つの声が重なって、意味不明な言葉になる。
カノンの表情が、秒単位で変わっていく。
機械的な無表情から、不安な泣き顔へ。そして、作り笑いの営業スマイルへ。
「カノン!」
律が飛び起きて、彼女の肩を掴んだ。
「しっかりして! 君は一人だ! 一人の、綾瀬カノンだ!」
しかし、カノンは律を見つめて、三つの反応を同時に見せた。
「あなたは誰ですか?」
「律……助けて……」
「知らない人。あっち行って」
律は愕然とした。
カノンの人格が、完全に分裂している。
記憶と一緒に、自我も破綻したんだ。
「看護師さん! 誰か!」
律が叫ぶと、看護師とお医者さんが駆け込んできた。
「どうしたの? カノンちゃん!」
でも、カノンはもう答えられない。
三つの人格が激しく争って、もはや会話にならない。
「鎮静剤を」
お医者さんが指示する。
注射を打たれて、カノンは眠りについた。
でも、眠っている間も、表情は安定しない。
時々、違う顔になる。
律は、ベッドの端に座って、カノンの手を握った。
冷たい手。
昨日感じた温かさは、もうない。
「カノン……」
本当のカノンは、どこにいるんだろう。
三つの人格の、どれが本物なんだろう。
それとも、本当のカノンは、もう失われてしまったんだろうか。
律は、はじめて本格的な絶望を感じた。
記憶を失うだけじゃなかった。
カノンという人間そのものが、バラバラになってしまった。
これが、Dr.バグのやったことの、本当の恐ろしさだった。
夕方、高柳警部がやってきた。
「具合はどう——」
彼女は、眠っているカノンを見て言葉を失った。
「人格分裂ですね」
お医者さんが説明する。
「記憶の損失と同時に、自我の統制も失われています。現在、少なくとも三つの人格が確認されています」
「治療法は?」
「前例がないので……正直、分からないというのが現状です」
高柳警部は、拳を強く握りしめた。
「10年前と、同じだ……」
「10年前?」
「私の妹も、同じような状態になりました」
高柳警部の声が震えている。
「榊原の実験の犠牲者として」
律ははじめて知った。高柳警部にも、個人的な動機があったんだ。
「妹さんは、今は?」
「まだ、入院しています。10年経っても、人格の統合はできていません」
律は戦慄した。
10年経っても治らない。
カノンも、このまま——
「でも」高柳警部が続けた。「諦めません。今度こそ、榊原を止めます。そして、被害者全員を救います」
その夜、律は眠れなかった。
隣のベッドで、カノンが時々うなされている。
夢の中でも、三つの人格が争っているのかもしれない。
「カノン……」
律は小さく呟いた。
「必ず君を取り戻す。本当の君を」
どんなに時間がかかっても。
どんなに困難でも。
君という人を、完全に諦めるつもりはない。
そう誓って、律は朝を待った。