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#014 A-137―商品化された記憶

 翌朝、病院の白い天井が視界にぼんやりと入った。


 カノンは、自分がベッドに横たわっていることを理解するのに時間がかかった。体が鉛のように重くて、指先を動かすだけでも大変だった。


「あ……」


 かすれた声が出る。喉がカラカラに乾いていた。


 横を見ると、隣のベッドに男の子が寝ている。顔は知っているような気がするけど、名前が思い出せない。


 大切な人な気がする。


 でも、どうして大切なのか分からない。


「起きましたね」


 優しい声に振り返ると、白衣を着た女性が立っていた。看護師さんかな。


「ここは……」


「湾岸総合病院です。あなたは長い時間、昏睡状態でした」


 記憶を手繰り寄せようとするけど、頭の中が真っ白で何も出てこない。


「私……誰……?」


 看護師さんの表情が、心配そうに曇った。


「綾瀬カノンさんです。17歳。記憶に障害が出ているかもしれませんが、徐々に回復する可能性があります」


 綾瀬カノン。


 その名前を聞いても、実感が湧かない。本当に自分の名前なんだろうか。


「隣の男の子は?」


「朝凪律さん。あなたの……」看護師さんは言葉を選ぶように「お友達です」


 朝凪律。


 その名前には、不思議と温かい感情が湧いてきた。大切な人。守りたい人。でも、具体的な記憶は何も浮かばない。


「面会の方がいらしています。お会いになりますか?」


「面会?」


 ドアが開いて、スーツを着た女性が入ってきた。30代くらいで、鋭い目をしている。


「綾瀬カノンさんですね。湾岸警察の高柳です」


 警察。


 その単語に、なぜかドキッとした。何か悪いことをしたんだろうか。


「私、何かしたんですか?」


「いいえ、あなたは被害者です」高柳警部は椅子に座った。「覚えていることがあれば、何でも教えてください」


 カノンは必死に記憶を辿ろうとした。でも、頭の中は霧がかかったようにぼんやりしている。


「何も……思い出せません」


「Dr.バグという名前に覚えはありますか?」


 その名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 怖い。


 とても怖い。


 でも、なぜ怖いのか分からない。


「分かりません……でも、怖いです」


 高柳警部は優しくうなずいた。


「無理をしなくて大丈夫です。ただ……」


 彼女はタブレットを取り出した。


「あなたの記憶データが、違法に売買されている可能性があります」


「記憶が……売買?」


「A-137という商品番号で、闇市場に出回っています」


 A-137。


 その番号を聞いた途端、激しい頭痛が襲った。


「うっ……!」


 何かの映像がフラッシュバックする。暗い画面。コメントの嵐。自分を見つめる無数の視線。


『A-137のデータ、いくらで買える?』

『若い女の子だから高値つくだろうな』


「やめて……」


 カノンは頭を抱えた。記憶の断片が、針のように頭に刺さってくる。


「すみません、無理をさせました」高柳警部が立ち上がる。「また改めて——」


 その時、隣のベッドから声がした。


「カノン……?」


 律が目を覚ましていた。ぼんやりとした瞳で、カノンを見つめている。


「律……」


 なぜか、その名前がすらすらと口から出た。


「君は……誰だっけ……?」


 律の記憶も、混乱しているようだった。でも、カノンを見つめる瞳には、確かに愛おしさが宿っている。


「私も……よく分からない。でも……」


 カノンは手を伸ばした。律も同じように手を伸ばして、二人の指先が触れ合う。


 その瞬間——


『心にしみわたる』


 どこからか、言葉が聞こえた。


 音楽室。夕日。ピアノの音。笑顔。


 ほんの少しだけ、記憶の欠片が戻ってきた。


「あなたたち……」


 高柳警部が驚いた顔をしている。


「今、何か思い出しましたか?」


「音楽……」


 カノンは呟いた。


「私たち、一緒に音楽を……」


「そうだ」


 律も頷く。


「君の笑顔と、僕の音楽……」


 完全じゃない。ほとんどの記憶は、まだ黒塗りのまま。


 でも、一番大切な部分だけは、確かに残っていた。


 その時、高柳警部のスマホが鳴った。


「はい、高柳です……何ですって?」


 電話の向こうで、慌てた声が聞こえる。


「分かりました、すぐに向かいます」


 電話を切って、高柳警部は振り返った。


「A-137の記憶データが、今夜オークションにかけられます」


「オークション?」


「あなたの記憶を、最高額入札者に売り渡すんです」


 カノンは震え上がった。


 自分の記憶が、お金で取引される。


 自分の過去が、知らない誰かのものになる。


「止められないんですか?」


「証拠が不十分で……でも」


 高柳警部の目に、強い意志が宿った。


「必ず阻止します。あなたたちの記憶を、取り戻してみせます」


 カノンは不安で胸が締め付けられた。


 でも、律が手を握ってくれる。


 温かい手。


 この感触だけは、絶対に忘れない。


 誰にも渡さない。


「警部さん」律が弱々しい声で言った。「僕たちにも、何かできることはありませんか?」


「今は体を回復させることです。でも……」


 高柳警部は少し迷ってから続けた。


「もし記憶の一部でも戻ってきたら、すぐに連絡してください。それが、犯人を捕まえる手がかりになるかもしれません」


 カノンは頷いた。


 記憶を取り戻す。


 自分が誰なのか、思い出す。


 そして、自分たちの記憶を奪った人を許さない。


 でも、今の自分には、律の手の温かさしかない。


 それでも、十分だった。


 一番大切なものは、まだ残っている。


 窓の外で、夕日が沈んでいく。


 新しい夜が始まろうとしていた。


 その夜、どこかで自分の記憶が売買される。


 知らない誰かが、自分の過去を手に入れる。


 考えただけで、吐き気がした。


 でも、カノンは誓った。


 必ず記憶を取り戻す。


 必ず自分を取り戻す。


 律と一緒に。


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