#013 ゼロメモリ・クラッシュ
[自我崩壊まで、180秒]
融合した意識は、最後の抵抗を続けていた。
カノンの記憶と律の記憶が、激しくぶつかり合う。混ざり合うことを拒否するかのように、それぞれの核心が必死に自己を主張する。
——私は綾瀬カノン、17歳、LINK-FLUENCER——
——僕は朝凪律、17歳、音楽が好きで——
でも、境界線はすでに溶けかけている。どちらの記憶なのか、もう判別できない。
建物が激しく揺れた。警察の突入は続いている。
『くそっ!』
榊原の焦りの声。でも、彼は実験を止めようとしない。
『あと少し! あと少しで人類は進化する!』
狂気に取り憑かれた科学者は、さらに出力を上げた。
[警告: 限界値超過]
[融合率: 97.3%]
[帯域: 4.2 M Pbps]
その瞬間——
何かが、決定的に壊れた。
『ああああああああ!』
絶叫。もはや人間の声とは思えない、電子的なノイズ混じりの悲鳴。
視聴者のコメントが恐怖に染まる。
『やばい、これやばい』
『誰か止めて!』
『カノンちゃん!!』
『もう見てられない』
でも、視聴者数は減らない。むしろ増え続ける。
150,000——
人間の好奇心の残酷さ。
そして、融合した意識の中で、恐ろしいことが起き始めた。
記憶が、黒く塗りつぶされていく。
最初は小さな穴。でも、それは急速に広がっていく。黒い虚無が、記憶を飲み込んでいく。
子供の頃の思い出が消える。
学校の記憶が消える。
友達の顔が消える。
家族の声が消える。
そして——
お互いの記憶すら、消え始めた。
「り……つ……?」
かすかに残った意識が、名前を呼ぼうとする。でも、その名前が何を意味するのか、もう思い出せない。
「か……の……ん……?」
同じように、もう一つの意識も必死に何かを掴もうとする。大切な何か。失ってはいけない何か。
でも、黒い虚無は容赦ない。
すべてを飲み込んでいく。
[自我崩壊まで、60秒]
『素晴らしい!』
榊原だけが歓喜している。
『見ろ! ゼロメモリ状態だ! すべての記憶から解放され、新しい存在が——』
ドアが破られる音。
『動くな!』
高柳警部が、銃を構えて飛び込んできた。その顔は、怒りと悲しみに歪んでいる。
『榊原総一郎、お前を——』
『邪魔をするな!』
榊原が叫ぶ。
『あと30秒! たった30秒で、人類は次のステージに!』
高柳の目が、ガラスカプセルの中を見た。
そこには——
もはや人間とは呼べない何かがいた。
カノンと律の肉体。でも、その表情は完全に虚ろ。瞳孔は開き、口から泡を吹いている。
生命維持装置のアラームが鳴り響く。
『今すぐ止めろ!』
高柳が榊原に銃を向ける。
『撃てるものなら撃て! でも、私を殺しても実験は止まらない!』
確かに、システムは自動化されている。
[自我崩壊まで、30秒]
融合した意識は、最後の最後で、何かを思い出そうとしていた。
大切な言葉。
誰かと交わした、大切な言葉。
でも、思い出せない。
記憶はすでに99%が黒塗りになっている。
残っているのは、ただ感情だけ。
温かい感情。
優しい感情。
愛おしい感情。
でも、それが何に対するものなのか、もう分からない。
[自我崩壊まで、15秒]
その時——
かすかに、言葉が浮かんだ。
『心に……しみわたる……』
その瞬間、何かが起きた。
黒い虚無の中に、小さな光が生まれた。
それは、二人の最も深い部分に刻まれた言葉。記憶は消えても、魂に刻まれた約束。
『心にしみわたる』
カノンが律にはじめて贈った言葉。
律が生涯をかけて追い求めた言葉。
二人を繋ぐ、魔法の言葉。
光は、少しずつ大きくなっていく。
[自我崩壊まで、10秒]
『何だ?』
榊原が困惑する。
『おかしい。データが——』
モニターに異常が表示される。
[エラー: 予期せぬ抵抗]
[融合率: 低下中]
[個体識別: 復活の兆候]
『ありえない!』
でも、確かに起きていた。
黒い虚無の中で、二つの光が別れ始める。混ざり合うことを拒否して、それぞれの形を取り戻そうとする。
カノンの光と、律の光。
『心にしみわたる』
その言葉を頼りに、お互いを見つけ出す。
そして——
『カノン!』
『律!』
名前を、思い出した。
[自我崩壊まで、5秒]
『止めろおおお!』
高柳が、緊急停止ボタンに飛びつく。
榊原が止めようとするが、別の警官に取り押さえられる。
『やめろ! あと少しで——』
[緊急停止実行]
すべてのシステムが、強制終了した。
[4、3、2、1——]
カウントダウンが、ギリギリで止まる。
そして——
カプセルが開いた。
中から、ゲル塗れの二人が転がり出る。
「カノン! 律君!」
高柳が駆け寄る。
二人は、苦しそうに咳き込みながら、でも確かに生きていた。
「あ……あなたは……」
カノンが、かすれた声で言う。記憶はほとんど失われている。でも——
「律……?」
隣で同じように苦しんでいる少年を見て、名前を呼んだ。
「カノン……」
律も、彼女を認識した。
他の記憶は、ほぼすべて黒塗りになっている。自分が誰なのか、ここがどこなのか、何も分からない。
でも、お互いだけは認識できた。
そして、なぜか口をついて出た言葉。
「心に……しみわたる……」
二人同時に呟いた。
その瞬間、かすかに記憶の断片が蘇る。音楽室。夕日。ピアノの音。温かい感情。
完全じゃない。ほとんどが黒塗りのまま。
でも、一番大切なものだけは、ギリギリで守られた。
配信は、まだ続いていた。
視聴者数:200,000
コメントが、感動と安堵に変わっていく。
『よかった……』
『生きてる』
『カノンちゃん……』
『奇跡だ』
でも、これは始まりに過ぎなかった。
記憶を失った二人が、これからどうやって生きていくのか。
そして、黒塗りになった記憶は、本当に戻らないのか。
すべては、これから——
[System Notification] 記憶崩壊プロセス開始
[System Notification] 記憶リセットまで、あと72時間
カウントダウンが、始まった——