#012 限界への挑戦―視聴者10万人の狂騒
融合から12時間が経過した。
カノン——いや、もはやカノンとも律とも呼べない存在は、奇妙な感覚の中を漂っていた。
二つの意識が完全に混ざり合い、新しいハーモニーを奏でている。カノンの感受性と律の論理性が絡み合い、今まで見えなかった世界が見えてくる。
そして、気づいた。
自分たちが、配信されていることに。
『fusion_experiment_live』
どこかの画面に、その文字が浮かんでいる。いや、「見えている」というより「感じている」。融合した意識は、電子の流れすら知覚できるようだった。
そして、恐ろしい事実を理解した。
榊原が、この実験を生配信している。
視聴者数が、リアルタイムで増えていく。
1,000……5,000……10,000……
コメントが、意識に直接流れ込んでくる。
『これマジ?』
『完全融合ってこんな感じなのか』
『美しい……』
『いくらで体験できる?』
『次は俺も参加したい』
カノンの部分が反応した。フォロワーたちの声。でも、今は単なる数字じゃない。一つ一つの声が、生々しく感じられる。
欲望、羨望、好奇心——視聴者たちの感情が、融合した意識に流れ込んでくる。
そして、榊原の声が響いた。
『皆さん、歴史的瞬間を目撃しています。人類初の、48時間完全融合実験』
画面に、二人のバイタルデータが表示される。
[融合率:67.8%]
[意識統合度:深層レベル4]
[記憶共有率:89.2%]
[個体識別:困難]
『ご覧ください。もはや二人を区別することは困難です。新しい存在が誕生しつつある』
視聴者数:25,000
コメントが加速する。
『ヤバすぎ』
『これ犯罪じゃないの?』
『でも見ちゃう』
『100万出す! 俺もやりたい』
『カノンちゃんどこ?』
『A-137のデータ、いくらで買える?』
最後のコメントを見た瞬間、融合した意識に寒気が走った。
A-137のデータ。まるで商品のような扱い。
そして、律の部分が気づいた。
自分たちの記憶データが、配信されているだけではない。
どこか別の場所にも、コピーされている。
データの流れが見える。自分たちから分岐して、複数の方向に流れていく銀色の糸。一つは配信用。もう一つは——
『これは……記憶が盗まれてる?』
でも、融合状態では声にならない。警告しようとしても、意識が混濁していて、明確な思考ができない。
そして、さらに恐ろしいコメントが流れた。
『俺も R-404 の音楽記憶欲しい』
『A-137 は若い女の子だから高値つくだろうな』
『記憶の部分買いってできる?』
彼らにとって、カノンと律はすでに「商品」だった。
「私は……私たちは……」
声が出た。誰の声かは分からない。男性とも女性ともつかない、不思議な響き。
『おっと、被験者が反応しました』
榊原が興奮したように言う。
『では、視聴者の皆さんからの質問を受け付けましょう。融合体に、直接聞いてみてください』
狂っている。完全に狂っている。
でも、コメントは容赦なく流れ込んでくる。
『名前は?』
『カノンちゃんいる?』
『律くんの意識は?』
『どんな感じ?』
『痛い? 気持ちいい?』
融合した意識は、混乱しながらも答えようとした。
「名前……分からない……でも……二人で一つ……」
『素晴らしい!』榊原が手を叩く。『自我の境界が溶けている。これこそ、人類の新しい形だ』
その時、複数の榊原の声が重なった。
『完璧なサンプルだ』『データの質が最高』『これは売れる』
一瞬、違う場所から同時に聞こえてきた言葉。まるで、複数の榊原がそれぞれ違うことを考えているような——
視聴者数:50,000
配信は、SNSで急速に拡散されていく。
#記憶融合実験
#ボディパーティ
#人類の進化
さまざまなタグが付けられ、議論が巻き起こる。
そして、カノンの元フォロワーたちも気づき始めた。
『これカノンちゃん!?』
『嘘でしょ?』
『心配……』
『でも、なんか神秘的』
20万人いたフォロワーの一部が、この配信に流れ込んでくる。
視聴者数:75,000
融合した意識は、膨大な注目を感じていた。かつてカノンが求めていた「見られること」。でも、今はそれが重圧でしかない。
そして、律の分析能力が働いた。
データの流れを追っていくと、恐ろしい事実が見えてきた。
記憶データは、単なるコピーではない。「切り取られて」いる。
カノンの記憶の一部が、どこかのサーバーに送られて、永久保存されている。律の音楽的才能も、同じように抽出されている。
彼らは実験に参加したつもりだった。でも、実際は——
記憶を「収穫」されていた。
「やめて……見ないで……」
弱々しい声が漏れる。
でも、榊原は止めない。
『さあ、もっと深く行きましょう。限界に挑戦です』
何かの装置が作動する音。そして——
[警告: 融合率90%突破]
[個体識別: 不可能]
[記憶抽出率: 73.2%]
最後の表示に、融合した意識は戦慄した。
記憶抽出率。自分たちの記憶の7割以上が、すでに外部に持ち去られている。
激痛が走った。
2つの意識が、完全に1つに圧縮されようとしている。カノンと律の境界が、完全に消えようとしている。
「いやあああああ!」
絶叫が響く。
視聴者数:100,000
コメントが爆発する。
『やばい』
『これ大丈夫?』
『警察呼べ』
『でも見たい』
『歴史的瞬間』
『データ保存した』
『A-137、永久保存版』
その中に、1つの異質なコメントが混じった。
『配信場所を特定した。今から向かう —高柳』
高柳警部だ。
でも、榊原は気づいていない。完全に実験に夢中になっている。
『もう少し! もう少しで100%だ!』
融合した意識は、消えゆく自我にしがみついていた。
カノン——フォロワーを求めていた女の子。
律——静かに音楽を愛していた男の子。
その記憶が、最後の抵抗をしている。
でも、7割以上の記憶はすでに奪われている。残っているのは、感情の核心部分だけ。
それすらも、抽出されようとしている。
「私たちは……別々の……人間……」
『いいや!』榊原が叫ぶ。『君たちは1つになるべきだ。それが進化だ!』
視聴者数:125,000
もはや、日本中が注目している。
ニュース速報のテロップが流れ始める。
『違法人体実験か? ネット配信で物議』
でも、配信は止まらない。
榊原は、さらに出力を上げた。
『さあ、新しい人類の誕生だ!』
[CRITICAL: 融合率95%]
[自我崩壊まで: 300秒]
[記憶抽出: 最終段階]
カウントダウンが始まった。
300秒後、カノンと律は完全に消える。
新しい何かに生まれ変わって。
そして、彼らの記憶は、どこかで商品として売買されることになる。
でも、その瞬間——
建物に、激しい振動が走った。
『警察だ! 抵抗を止めろ!』
高柳警部の声が、どこかから響いてくる。
間に合うのか。
それとも——
融合した意識は、薄れゆく中で願った。
助けて。
誰か、私たちを——
いや、私を——
僕を——
助けて——